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サラ・アンツァネッロさんの残した言葉【イタリア女子バレー代表】 1980年7月30日~2018年10月25日

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「私は戦うためにここにいます。決してあきらめることはありません。」 (病院のベッドで) イタリアの女子バレーボール選手。サン・ドナ・ディ・ピアーヴェ出身。ポジションはミドルブロッカー。元イタリア代表。 1998年にイタリア代表に選出され、2002年世界選手権、2007年ワールドカップで金メダルを獲得した。2005年欧州選手権では準優勝を飾った。 セリエAの所属クラブでは、アシステル・ノヴァーラ在籍時の2004年にコッパ・イタリアで優勝、2009年に移籍したGSOヴィッラ・コルテーゼでもコッパ・イタリアで優勝を飾った。 2013年、アゼルバイジャンで重篤な肝炎に。2017年半ばには、白血病と診断。1年後の2018年10月25日、38歳で亡くなりました。

河西昌枝さんの残した言葉【東洋の魔女】1933年7月14日~2013年10月3日

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「わたしたちは、『できない』ということは禁句であった。できないことをやるのが練習だったからである。 そして、これらの過程で手足もからだも鍛えられた。」 「命がけで世界一を目指したのは、長い人生の中でたった4年間だったような気がします。」 「日本中の声援が忘れられません。みなさんがほんと、ひとつになって、『がんばれよ』『勝ってほしい』と応援して下さった。プレッシャーでもなんでもなく、こんなに応援してくださっているのだから金メダルをとるしかないと思っていました。」 日本の元女子バレーボール選手。 河西は『東洋の魔女』の主将として1962年世界選手権優勝、1964年東京五輪でコーチ兼主将として優勝に大いに貢献した。ポジションはセッターで、長身を生かして前衛ではセンタープレーヤーも務めた。 1965年1月に日紡を退社、同年5月30日に当時の総理大臣である佐藤栄作の取り計らいで2歳年上の自衛官と結婚した。 選手のファンであった女優の淡島千景がオーナーとなって設立したバレーボールのクラブチーム「フジクラブ」にも参加、同クラブの中心選手として活躍した(フジクラブは国民体育大会バレーボール競技一般女子の部において、1965年、1966年と二連覇した。1968年頃までには活動を終えたという)。またその後は、ママさんバレー教室の講師も務め、普及に尽力した。 2003年3月に日本バレーボール協会の女子強化委員長に就任し、 2004年アテネ五輪では全日本女子チームの団長(チームマネージャー)を務めた。 2008年にバレーボール殿堂入りを果たした。

小島孝治さんの残した言葉【バレーボール指導者】1930年6月29日~2014年5月27日

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「コンビバレーの原点はパスの正確さにある。その原点の基礎・基本がおろそかになっていて失う1点の重みは、強烈なスパイクで取られた失点の3~4点にも相当する。『チャンス!』が次の瞬間にパスの失敗でポロリ、その精神的落差が、つまり敗戦への道につながっているのだ。 ミスの中にも、やっても影響の少ないミスと、一度やってしまったら取り返しのつかないミスとがある。後者のミスは基礎・基本の訓練不足からくることが圧倒的に多いことを肝に命ずるべきだ。」 「チームワーク、即ち和は、人と人との間に存在する力で、それが見事な円を描けば無限の力を有していることになる。チームプレーの面白さは、この『和作り』の面白さに尽きる。」 「『和』は無限の力を秘めている。」 「ボールは手で拾うものではない。足と心で拾うもの。」 日本のバレーボール指導者で、元全日本女子バレーボールチーム監督。 クラブチームでは日紡貝塚からユニチカ・フェニックスの監督。