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メイ牛山さんの残した言葉【元祖カリスマ美容師】1911年1月25日~2007年12月13日

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「洋服には、人の心をプラスに変えるパワーがある」 日本の美容家。「ハリウッド化粧品」ブランドで知られるハリウッド株式会社会長・ハリウッド美容専門学校学長・ハリウッドビューティサロン社長などの要職を歴任した。山口県防府市出身。「メイ牛山」名としては2代目で、初代は夫の先妻の牛山春子。 昭和14年、ハリウッド化粧品の創業者牛山清人と結婚、以来メイ牛山の名前を継いで欧米の最新技術を取り入れながら日本の美容界を作り上げる一翼を担う。ニューヨークでは『ローマの休日』等を担当したエディ・センズにメイクを、レオン・アメンドラーにヘアを師事。その後、日本でも酵素の働きを日本で最初に化粧品に取り入れるなど化粧品の開発も行う。「酵素パック」はハリウッド化粧品の代名詞ともいれるロングセラー製品となる。女優の司葉子、稲垣美穂子、藤村志保、岩下志麻、久我美子、芳村真理、岸惠子等はハリウッドと供に育ってきた女優陣である。写真家秋山庄太郎とはお互いデビュー当時からの盟友である。 昭和33年、日本がアメリカ式食生活に移行し始めた頃すでに、健康食品の開発と提唱をはじめ、これがライフワークとなる。日本の気候風土に合わせた美容法や食事法が大切であるという「四季の美容法」や、皮膚、身体、心の汚れを排泄することが美容の根本という独自の「三大排泄美容 - SBM理論」を提唱、お化粧だけでなく、体の中、心の中から美しくある事が、本物の美しさである事を日本で最初に提唱。 チャーミングな個性、トレードマークのお団子ヘアスタイルからお茶の間でも人気となり、「笑っていいとも」「いただきます」「徹子の部屋」などで活躍、著作も30冊を越えた。また、ハリウッド美容専門学校で長年にわたって指導に当たるなど、後進の育成にも力を尽くした。90歳を超えてなお第一線で活躍した。2003年には長年住んだ六本木ヒルズを、森ビル、テレビ朝日と3社合同で開発、ヒルズブームを起こした。

森本龍石さんの残した言葉【書道家】1940年8月3日~2017年12月13日

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「個性を出すのが本当の書。だから誰もが書家」 「墨液だと同じだが、墨を使えばひとつとして同じ文字は書けない」 「墨をするのに3日。大きな筆で書くとすぐになくなる」 日本の書道家。 斬新でモダンな書道スタイルを作り上げ、国際交流に力を注ぎ世界各国で書の普及につとめた。特にブラジル、ロシア、ウクライナ、キルギス、韓国での活動が活発だった。2001年よりモスクワ現代美術館が森本龍石作品をピカソ・シャガール作品と同室に常設展示。

ウォーレル・デインさんの残した言葉【サンクチュアリ・ネヴァーモア】1961年3月7日~2017年12月13日

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「ステージにいるのは世界一最高の気分なんだ。出番をじっと待つのは辛いけどね。」 「あの頃は(自分達が)シアトルのバンドであることに奇妙な思いを抱いていた。グランジの人気であれだけ爆発的だったから、それに倣えというプレッシャーが物凄かった。」 「俺だって過去のあるバンドのコンサートを観に行けば昔の曲を聴きたい。それをバンドがやらなかったら腹が立つだろうな。だから俺達もやっているんだ。」 「俺が書く曲は夢の中で思いつくものが多い。俺は夢日記をつけていてね、夢で見たことを常に書き留めている。」 「自分達の音楽だけで食べていけるようになるには、物凄い枚数のレコードを売らなくてはならない。」 「俺は敢えてヘビーメタルは余り聴かないようにしているんだ。聴くと自分の好きなバンドに影響されてしまうからね。(笑)」 「初来日のとき、道端にビールの販売機があるなんて信じられなかったよ。あんなものがアメリカにあったら、設置された瞬間に子供がぶっ壊して盗っていくよ。」 「俺も嫌なことを随分経験したし、苦悩の時期も体験した。嫌なことを経験すると、良い事に対する感謝の気持がずっと大きくなる。」 「心から好きなのはやっぱりヘビーメタルだけど、ミュージシャンだったら色々なタイプの音楽を認めてそれを聴くべきだと思うね。」 「80年代はとても特別な時代だった。凄く良いバンドが成長していたかと思えば、至って普通のバンドもいた。良いバンドはトップに躍り出て、それほど良くないバンドは消えて行ったんだ。」 「俺達はずっと今と同じ音楽をプレイしてきた。正直にやりたい音楽をやっていれば、聴衆にはそれが伝わるはずだ。」 「俺が解釈する言葉の意味と、他の人が解釈する言葉の意味は違っているからね。でも、それこそが芸術や詩や音楽の魅力だと思う。」 「メタルシーンでは誰もが、程度こそ違えど顔見知りみたいなものだからね」 アメリカ合衆国出身のボーカリスト、ミュージシャン。 同国のヘヴィメタル・バンド「サンクチュアリ」及び「ネヴァーモア」のボーカリストとして知られ、ソロも並行して活動している。 かつて5年ほどオペラ歌手としてトレーニングを受けていたこともあり、その声域は彼を教えていた講師によると5~6オクターブあるとの事。通常は独特のバリトンで歌う事が多い。 所属バンドでのソングライティングも

故人が残した名言集【12月13日】

ウォーレル・デインさんの残した言葉【サンクチュアリ・ネヴァーモア】1961年3月7日~2017年12月13日 「ステージにいるのは世界一最高の気分なんだ。出番をじっと待つのは辛いけどね。」 「あの頃は(自分達が)シアトルのバンドであることに奇妙な思いを抱いていた。グランジの人気であれだけ爆発的だったから、それに倣えというプレッシャーが物凄かった。」 「俺だって過去のあるバンドのコンサートを観に行けば昔の曲を聴きたい。それをバンドがやらなかったら腹が立つだろうな。だから俺達もやっているんだ。」 「俺が書く曲は夢の中で思いつくものが多い。俺は夢日記をつけていてね、夢で見たことを常に書き留めている。」 「自分達の音楽だけで食べていけるようになるには、物凄い枚数のレコードを売らなくてはならない。」 「俺は敢えてヘビーメタルは余り聴かないようにしているんだ。聴くと自分の好きなバンドに影響されてしまうからね。(笑)」 「初来日のとき、道端にビールの販売機があるなんて信じられなかったよ。あんなものがアメリカにあったら、設置された瞬間に子供がぶっ壊して盗っていくよ。」 「俺も嫌なことを随分経験したし、苦悩の時期も体験した。嫌なことを経験すると、良い事に対する感謝の気持がずっと大きくなる。」 「心から好きなのはやっぱりヘビーメタルだけど、ミュージシャンだったら色々なタイプの音楽を認めてそれを聴くべきだと思うね。」 「80年代はとても特別な時代だった。凄く良いバンドが成長していたかと思えば、至って普通のバンドもいた。良いバンドはトップに躍り出て、それほど良くないバンドは消えて行ったんだ。」 「俺達はずっと今と同じ音楽をプレイしてきた。正直にやりたい音楽をやっていれば、聴衆にはそれが伝わるはずだ。」 「俺が解釈する言葉の意味と、他の人が解釈する言葉の意味は違っているからね。でも、それこそが芸術や詩や音楽の魅力だと思う。」 「メタルシーンでは誰もが、程度こそ違えど顔見知りみたいなものだからね」 アメリカ合衆国出身のボーカリスト、ミュージシャン。 同国のヘヴィメタル・バンド「サンクチュアリ」及び「ネヴァーモア」のボーカリストとして知られ、ソロも並行して活動している。 かつて5年ほどオペラ歌手としてトレーニングを受けていたこともあり、その声域は彼を教えていた講師に