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トーマス・J・ワトソンさんの残した言葉【IBM初代社長】1874年2月17日~1956年6月19日

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「Would you like me to give you a formula for success? It’s quite simple, really: Double your rate of failure. You are thinking of failure as the enemy of success. But it isn’t at all. You can be discouraged by failure or you can learn from it, so go ahead and make mistakes. Make all you can. Because remember that’s where you will find success.」 (成功の方程式を知りたいですか?それは失敗の数を2倍にすることです。失敗は成功の敵と考えているかもしれないがそれは違います。失敗に落胆することも学ぶことも出来るのです。ですので失敗をしなさい。それがあなたが成功のきっかけを見つける場所です。) 「THINK!」 (頭を使え!) 「Whenever an individual or a business decides that success has been attained, progress stops.」 (個人であれ、企業であれ、成功したと思えば、そこで進歩は止まる。) 「積極的に間違いを犯しなさい。できる限りの間違いを。なぜなら、成功は失敗の向こう側にあるからだ。」 「If you want to increase your success rate, double your failure rate. 」 (倍の数の成功をしたければ、倍の数の失敗を覚悟しなさい。) 「私は天才ではない。ただ、なかには得意なこともある。私はなるべく、その得意な分野を離れないようにしてきただけだ。」 「IBMのセールスマンには、妻子に敬われる人物になってもらいたい。母親が息子の職業を職業を尋ねられたとき、言葉を濁したりしなければならないようでは困る。」 「不満があったり、改めたいプランがあれば直接僕のところへ持ってきなさい。そして、一緒に考えよう。」 「すべて

トーマス・クーンさんの残した言葉【哲学者】1922年7月18日~1996年6月17日

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「ある意味で、競争するパラダイムの提唱者は、それぞれ異なった世界で仕事をしている。そうとしか、説明のしようがない…。異なった世界で仕事をしている科学者の二つのグループは、同じ地点から、同じ方向を見ていても、異なったものを見ている」 「次世代のパラダイム(枠組み)に早くから気づくためには、ほとんどの場合、多くの反証を切り捨てなければならない。新しいパラダイムがまだ多くの問題を抱えているそのときに、古いパラダイムに打ち勝つことを確信しなければならない。このような判断は直感によってのみ到達しうるものである」 「天動説が主流を占めていた頃、天動説に根ざして天文学的な事象を予測するさまざまなモデルが開発された。地動説に立つならば、それらの数式やモデルがもっと無理なく使えるということは、コペルニクスとケプラーが登場するまでわからなかった。彼らが登場してはじめて、天文学におけるパラダイム・シフトが起こり、学問上の飛躍的な進歩が見られるようになったのである」 「いついかなる分野においても、科学者というのは世の中の動きについての基本的な見方を共有するものだ。その見方はその時点で支配的なパラダイムなのである。ほとんどの実験は、その見方の枠内で行われいくつかの小さな進歩が生まれる」 アメリカ合衆国の哲学者、科学者。専門は科学史及び科学哲学。 米国オハイオ州シンシナティ市のドイツ系ユダヤ人移民の家庭に生まれる。 ハーバード大学で物理学を専攻し、1943年にBachelor of Science、1946年にMaster of Science取得。そして、大学院在学中に科学史・科学哲学研究に転じ、1949年に科学史の研究でDoctor of Philosophyを取得した。ハーバード大学在学中は物理学者のジョン・ヴァン・ヴレックの指導を受けている。博士号を取得したのち、カリフォルニア大学バークレー校の教授となり、哲学部及び歴史学部の両方で、科学史と科学哲学を教えた。1964年からはプリンストン大学の教授を務め、1969年から1970年にはアメリカ合衆国の科学史学会会長、1979年からはマサチューセッツ工科大学の教授も務めている。そして1994年、肺癌と診断され、1996年に死亡した。

ホルヘ・ルイス・ボルヘスさんの残した言葉【小説家】1899年8月24日~1986年6月14日

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「勝利よりも尊厳がある敗北がある。」 「未来は厳格な昨日同様取り返しがつかない。時間という判読不能な永遠の聖典のなかで目次は一つもない。」 「わたしたちは匿名に向かっている。平凡な人はちょっと早くそこにたどり着く。」 「わたしにとって、民主制というのは統計の乱用だ。それに、価値があるとは思えない。数学的や美的な問題を解決するのに大多数の人に意見を求める必要があるだろうか?」 「わたしたちは記憶です。わたしたちは、幻想博物館のコンスタントな姿です。壊れた鏡の山です。」 「一人で旅を始めたら、私は人生をぐるぐる回って過ごすだろう…そして、空港の税関にたどり着く。多分、エセイサ空港にはたどり着くだろう。でも、おそらくエセイサの先には行かない。」 アルゼンチン出身の作家、小説家、詩人。特に『伝奇集』『エル・アレフ』などに収録された、夢や迷宮、無限と循環、架空の書物や作家、宗教・神などをモチーフとする幻想的な短編作品によって知られている。彼の評価は1960年代の世界的なラテンアメリカ文学ブームによって確立され、その作品は20世紀後半のポストモダン文学に大きな影響を与えた。

ジョン・ウェインさんの残した言葉【ウエスタン・ヒーロー】1907年5月26日~1979年6月11日

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「男には逃げ出すことが出来ないこともあるんだ。」 「Ugly, stubborn, but want to be proud.」 (醜く、頑固で、しかし誇り高くありたい。) アメリカの俳優、映画プロデューサー、映画監督。「デューク」の愛称で呼ばれた。本名はマリオン・ロバート・モリソン。

クリストファー・リーさんの残した言葉【ホラー界のレジェンド】1922年5月27日~2015年6月7日

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「世界一の俳優とは、私の個人的な考えでは、ジョニー・デップだ。彼は挑戦することを恐れない。彼は何事をも恐れないのだ。」 イギリス出身の映画俳優。怪奇映画の大スターとして名を馳せ、90歳を超えても生涯現役で活躍した名優である。 出演作は250本以上にも上り、世界で最も多くの映画に出演した俳優としてギネスブックに記載されている。

林隆三さんの残した言葉【俳優】1943年9月29日~2014年6月4日

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「感情を込めないと、我々役者は」 日本の俳優及びナレーター。女優の青木一子は元妻。女優・声優の林真里花は長女、元俳優の林征生は長男。岸宏一は従兄弟。東京都新宿区四谷生まれ。 1961年に立教高等学校(現・立教新座高等学校)を中退後、1963年俳優座の俳優養成所に入り(第15期生)、1966年に卒業。 「三期会」を経て、何本か端役でテレビドラマに出演した後、 1970年に木下恵介・人間の歌シリーズ『俄』に初主演。 平賀源内の青春時代を描いた『天下御免』のヒットにより人気を得る。 1974年には映画『妹』(藤田敏八監督)で秋吉久美子と共演し、その演技は注目を集める。1977年、津軽三味線の名手である高橋竹山の若き日を描いた『竹山ひとり旅』に、新藤兼人監督に請われて主演。その鬼気迫る演技で第1回日本アカデミー賞で主演男優賞を受賞。一躍スターと認められる。

中島湘煙さんの残した言葉【フェリス女学院名誉教授】1863年1月14日~1901年5月25日

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「人間は其の災害の多きを見て火を廃さんと云ふものはあらず。蓋し火は人生に必要にして、其の災害は人の不用心か或は其の器の全からぬによることを知ればなり。」 明治時代の女権拡張運動家・女性著作家である。本名は俊、のち俊子に改名。旧姓岸田。湘煙・粧園と号す。 土佐藩出身の神奈川県令・中島信行の後妻となり、活動を展開した。主論文は「同胞姉妹に告ぐ」。遺稿集『湘烟日記』の著者名は中島 湘烟。

ジョーン・クロフォードさんの残した言葉【女優】1904年3月23日~1977年5月10日

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「If I can't be me, I don't want to be anybody. I was born that way. 」 (私が私になれないのなら、誰にもなりたくない。 私はそのように生まれたの。) アメリカ合衆国テキサス州サンアントニオ出身の女優。映画、舞台、テレビで活躍した。 ブロードウェイのコーラスガールとして舞台に出演するまでは、アメリカ各地を巡業する演劇一座のダンサーだった。

トール・ヘイエルダールさんの残した言葉【コン・ティキ号探検記】1914年10月6日~2002年4月18日

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「国境? そんなものはひとつも見たことがない。人間の心の中にあるという話は聞いたことがあるがね。」 「自分にとっては準備段階が仕事、一歩海に出れば、それはバケーションなんだ。私はバケーションを取りたいから探検をやるんだ。」 ノルウェーの人類学者、海洋生物学者、探検家。1947年に筏船のコンティキ号でペルーのカヤオ港から南太平洋のトゥアモトゥ諸島ラロイア環礁まで4,300マイルの航海を行った。

扇谷正造さんの残した言葉【週刊紙の鬼】1913年3月28日~1992年4月10日

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「名刺で仕事をするな。」 「四十にして初めて惑い、五十にして志を立て、六十にして事に励み、七十にして事をなしとげ、八十にして引退する。」 「ただ、言われた通り、何も考えずに行動するのは、『仕事をしている』ではなく、『仕事を流している』に過ぎない。」 「プロサラリーマンを生みだすものは衝動的な気まぐれではなくて、持続的な努力である。」 日本の評論家、編集者、ジャーナリスト。"週刊誌の鬼"の綽名で知られた。 1946年春、復員。1947年『週刊朝日』編集長に就任。1948年6月、太宰治の心中に際して山崎富栄の遺書を入手し太宰特集号を発行、この号はたちまち完売、同誌を十万部から百五十万部に伸ばした。1953年、菊池寛賞受賞。

ウラジミール・ジャンケレヴィッチさんの残した言葉【哲学者】1903年8月31日~1985年6月6日

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「L'homme détaché écrit le testament du bonheur le jour même de sa naissance.」 (超然とした人というものはまさに生まれた時にもう遺書を書くものだ。) 「哲学なしでは、世界は魂が抜けたものになることだろう、世界は物言わぬ彫像になることだろう。」 「人生はいつだって未完成から始まるのだ。」 フランスの哲学者。 独特の思考を展開した、「分類できない哲学者」。その思考の源泉は古代ギリシア、教父哲学、モラリスト、近代合理論哲学、近代ドイツ哲学、いわゆる「生の哲学」などをはじめ、極めて多様である。また、ドビュッシー論やラヴェル論などの音楽論でも著名。

ヘンリー・フォードさんの残した言葉【自動車の育ての親】1863年7月30日~1947年4月7日

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「不潔な工場に善良な職工なし。」 「私はいままでどんな人でも採用してきたし、一度採った者は絶対に解雇しない主義でやってきた。車をつくるのではなく人間をつくるつもりなのだ。解雇は絶対にしない。」 「私の若い人たちへの忠告は、仕事の成功のために必要とあれば、どんな組織をも改革し、どんな方法をも廃棄し、いかなる理論をも放棄する覚悟でいることだ。」 「どんな企業でも、お金を必要とするときが危険なのではなく、成功して楽に資金が調達できるようになったときこそ、危険なのである。」 「財産は来るものであり、作るものではない。」 「進歩と歩調を合わせて進む方が、進歩を妨げるよりも健康的である。」 「新しい生命の誕生は、何かこれまでと違った新しいものの誕生である。これと完全に同じものはかつて存在しなかったし、今後も決して存在しない。」 「見返りを期待しなくなったとき、倍の報酬がやってくる。」 「もはや手のほどこしようのない事態になったら、事態の成り行きにまかせるだけだ。」 「ほとんどの人が、成功とは手に入れるものだと考えています。でも本当のところ、成功とは与えることなのです。」 「金で自由が買えると思うのは誤りだ。この世で本当にたよりになるのは、知識と経験と能力だけである。」 「若者は、自分を人と違ったものにする個性の種を一つでも探し出して、全力を尽くして育て上げることだ。社会と学校はこの種を奪い、誰も彼もひとまとめに同じ鋳型に押し込めようとするだろう。だが、この種を失ってはいけない。それは自分の価値を主張するための、ただ一つの権利だから。」 「自分以外の人間に頼むことができて、しかも彼らの方がうまくやってくれるとしたら自分でやる必要はない。」 「今こそ大きなチャンスの時である。だがそれを知っている人は実に少ない。」 「人が集まってくることが始まりであり、人が一緒にいることで進歩があり、人が一緒に働くことが成功をもたらす。」 「事実がたとえわかっていなくとも、とにかく前進することだ。前進し、行動している間に、事実はわかってくるものだ。」 「努力が効果をあらわすまでには時間がかかる。多くの人はそれまでに飽き、迷い、挫折する。」 「Money is like an arm or a leg – use it or lose it.」 (お金は手や足のような

野村克也さんの残した最後の言葉【戦後初の三冠王・ID野球】1935年6月29日~2020年2月11日

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「頑張れ」 (息子の克則さんへ) (最後の言葉) 京都府竹野郡網野町出身のプロ野球選手・コーチ・監督、野球解説者・野球評論家、タレント。 プロ野球では南海 、ヤクルト、阪神、東北楽天の監督を歴任したほか、日本体育大学客員教授なども務めた。 プロ野球では南海 、ヤクルト、阪神、東北楽天の監督を歴任したほか、日本体育大学客員教授なども務めた。晩年の所属事務所はエフエンタープライズで、継子の団野村が運営するKDNスポーツジャパンがマネジメント代行を行っていた。 選手としては、史上2人目の三冠王達成(世界のプロ野球史上初の捕手による三冠王)、選手出場試合数歴代2位、監督出場試合数歴代3位、通算本塁打数歴代2位、通算安打数歴代2位、通算打点数歴代2位、通算打席数1位(11970打席)、通算打数1位(10472打数)、通算犠飛数歴代1位(113犠打)、通算併殺打1位(378打)、ベストナイン19回受賞で1位などの記録を持つ。特に1963年に記録した52本塁打は後に1985年に落合博満も記録するが、その落合と並んで日本出身の日本国籍選手における1シーズン最多本塁打記録である。

野村克也さんの残した言葉【戦後初の三冠王・ID野球】1935年6月29日~2020年2月11日

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「全盛期を過ぎ、落差に耐えつつ、必死にやる、なんてことを惨めと感じる人はいるでしょう。ところが、僕はそうは思わないんですよ。なりふり構わず、自分の可能性を最後の最後まで追求する。そのほうが美しいという、これは僕の美意識です。」 「コンピューターがどんなに発達しようとしても、仕事の中心は人間だ。ならばそこには『縁』と『情』が生じる。それに気づき、大事にした者がレースの最終覇者となるのだと思う。」 「有事に強い者、それは不真面目な劣等生。」 「命令するからには、全責任は監督にある。つまり、クビになるのはおまえでなくワシや。だから、失敗してもいっこうにかまわない。おまえの失敗はおまえを使ったオレが悪いのだから、全てを出しきり、結果は神にゆだねろ。」 「人間の才能なんて、どこに隠されているか分からない。相手の話を聴いてみる。それが第一歩。そこから組織の活性化が始まる。」 「ナポレオンは『人間を動かす二つのテコがある。それは恐怖と利益である』と言った。私はこの二つに『尊敬』を加えたい。リーダーは『利益と尊敬と、少しの恐怖』で組織を動かしていくべきで、その潤滑油が『笑い(ユーモア)』だ。」 「勝っているときが一番怖い。リードしているときが一番怖い。」 「貴い知識・本質はいつの世でも、本来、単純明快である。」 「ID野球の極意は、重い予備知識と軽い先入観。」 「『もうダメ』ではなく、『まだダメ』なのだ。」 「限界が見えてからが勝負だ。」 「敵に勝つより、もっと大事なことは、常に自分をレベルアップすること。」 「未熟な組織には、原点がある。教えられることが多い。」 「不器用な人間は苦労するけど、徹してやれば、器用な人間より不器用な方が、最後は勝つよ。」 「自分の持っているイメージと違うと、すぐ矯正しようとする。こんな上司のもとにいる部下は不幸。」 「部下を『信じる』というのは、リーダーの重要な資質。」 「人を判断するときは、決して結論を急がないこと。」 「リーダーシップとは人を動かす、先を読むこと。人を動かすのは生きがい、夢、希望、目標、目的、ビジョン、興味、関心。」 「コーチの第一義は、自信を無くしている、目標を失っている選手に、いかに意欲を出させるかということ。」 「『叱る』と『褒める』というのは同意語だ。情熱や愛情が無いと、叱っても、ただ

トーマス・ハーディさんの残した言葉【小説家】1840年6月2日~1928年1月11日

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「百年経てば、人々の眼も変り、心も変る。流行も改まる。新時代の愚者と賢者が生まれよう。人は新しい悩みを嘆き、新しい喜びに酔うだろう。」 「分別を忘れないような恋は、そもそも恋ではない。」 イギリスの小説家、詩人。ドーセット州出身。 現代では自然主義の古典として再評価され、世界中で愛読されており、特にハーディ最後の作品『日陰者ジュード』は古典英文学の定番と言われるほどになっている。

田中久重さんの残した言葉【東洋のエジソン】1799年10月16日~1881年11月7日

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「国家に有用なる機械をせいぞうして奉公の誠を尽くし、世の公益を広めん。」 「そう言うべからず。これも国のためであり、人助けにもなることたい」 「余は、今有用なる機械を製造して、世の公益を広めんことを願う他に一点の利欲なし。」 「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである。」 江戸時代後期から明治にかけての発明家。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれた。芝浦製作所の創業者。 天保5年(1834年)には上方へ上り、大坂船場の伏見町(大阪市中央区伏見町)に居を構えた。同年に折りたたみ式の「懐中燭台」、天保8年(1837年)に圧縮空気により灯油を補給する灯明の「無尽灯」などを考案した。その後京都へ移り、弘化4年(1847年)に天文学を学ぶために土御門家に入門。嘉永2年(1849年)には、優れた職人に与えられる「近江大掾」の称号を得た。翌嘉永3年(1850年)には、天動説を具現化した須弥山儀を完成させた。この頃に蘭学者の廣瀨元恭が営む「時習堂」に入門し、様々な西洋の技術を学ぶ。嘉永4年(1851年)には、季節によって昼夜の時刻の長さの違う不定時法に対応して文字盤の間隔が全自動で動くなどの、様々な仕掛けを施した「万年自鳴鐘」を完成させた。

越後正一さんの残した言葉【繊維相場の神様】1901年4月26日~1991年4月2日

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「世の中というものは、自分のためばかり考えていると、結局は自分のためになっていないことが多い。人のためだと思ってやったことが、まわりまわって自分のところに帰ってくるものだ。」 「私は、逆境こそ会社発展のチャンスである、という受けとめ方をしている。経営環境が激動する時にはだれでも気迷いを生ずるものだが、その時こそトップマネジメントの先見性と機動力を験すチャンスである。」 「成功は窮苦の間に芽生えており、失敗は得意満面の間に宿る。黒雲のうしろには、太陽が輝いている。」 滋賀県出身の実業家、元伊藤忠商事社長・会長。戦後再発足した伊藤忠商事・初代社長・小菅宇一郎の後任者。「伊藤忠中興の祖」、「繊維相場の神様」とよばれた。

マルク・シャガールさんの残した言葉【愛の画家】1887年7月7日~1985年3月28日

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「Life has only one color. Like the palette of art, the color gives us the meaning of life and art; that’s love.」 (人生には単一の色がある。芸術のパレットと同じ様に、その色は人生と芸術の意味を与えてくれる。それは愛という色だ。) 「絵を描きあげたとき、私は最終テストとして、神の制作物、石や、花、小枝、あるいは私の手を絵の上にかざす。もし、絵画が人の作りえぬものに寄り添うならば、その絵画は本物である。もし、衝突するならば、それは失敗作である。」 「私を幻想的と呼ばないでほしい。反対に私はレアリストなのだ。私は大地を愛している。」 「As for colors, similar ones are friends and opposite ones are lovers.」 (色は、近い色同士が友人で、反対の色同士が恋人。) 「Only God helps me, and I shed my tears of truth in front of my picture. In my picture,my wrinkles and countenance remains and there, my forever-flowing soul will stay.」 (ただ神のみが手をかして、私は自分の絵の前で、真実の涙を流すのだ。私の絵に、私の皺、私の蒼白の顔色が残り、そこに、永遠に流動する私の魂が止まるだろう。) 「自分自身を完全に打ち込ませなければならない。仮に99パーセントしかのめりこめないのであれば、情熱が足りないか、才能が足りないかのいずれかだ。」 「Love is my only interest, so I’m concerned just with the things surrounding love.」 (愛だけが私の興味を引くものだから、愛を取り巻くものとしか私はかかわりを持たない。) 「Time is a river without shores.」 (時間は岸のない川である。) 「ただ自分の論理と理性を持つ真摯な心だけが自由なのだ。文学が不条理であろうとも、最も純粋であると人々に言われる段階にまで達したのは、魂それ自身によっ

アレクサンダー・フレミングさんの残した言葉【ペニシリンの発見者】1881年8月6日~1955年3月11日

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「寝る前の暖かいウイスキーの一杯、科学的とは言えないがこいつは効く。」 「偶然は、それを受け入れる準備のある精神を好んで手助けする。」 「私は、人体が自然に備えている抵抗力の大切なことを、決して忘れることはできません。」 イギリスの細菌学者である。抗菌物質リゾチームと、アオカビから見出した世界初の抗生物質、ペニシリンの発見者として知られている。 クライズデール銀行が発行する5ポンド紙幣に肖像が使用されている。

パトリック・ハミルトンさんの残した言葉【牧師】1504年~1528年2月29日

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「朝になって陽が昇れば、その前に夜があったなんてとても思えないときがたまにはあるんだよ。」 スコットランド王国の牧師、初期のプロテスタント宗教改革者である。ヨーロッパに渡り、主要な宗教改革者たちと会い、その後スコットランドに戻って説教した。彼はジェームズ・ビートン大司教の異端審問にかけられ、セント・アンドルーズで火あぶりにされ殉教した。

斎藤茂吉さんの残した言葉【歌人】1882年5月14日~1953年2月25日

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「あきらめることは弱い人間がやることでもなければ、いままでの努力が水の泡になることでもない。」 「僕は老残の身をいたはりつつ、せい一ぱいの為事をして、この世を去りませう。」 「清く正しきものは常に勝ちます。」 「実相に観入して自然・自己一元の生を写す。これが歌の上の写生で、写生は決して単なる記述などではない。」 「己の行く道は間違ってはいない。むろん苦険道であるから時々へたばる時がある。けれども己は歩兵のように歩む。」 「なにかを光らせるには、光るまで磨くだけでいい。」 日本の歌人、精神科医。伊藤左千夫門下であり、大正から昭和前期にかけてのアララギの中心人物。精神科医としては青山脳病院の院長を務めた。長男は精神科医で随筆家の「モタさん」こと斎藤茂太、次男は精神科医・随筆家・小説家の「どくとるマンボウ」こと北杜夫で、随筆家の斎藤由香はこの北杜夫の娘にあたる。

池田晶子さんの残した言葉【わたくし、つまりNobody】1960年8月21日~2007年2月23日

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「誰にとっても正しいことなのだから、お互いの正しさを主張しあって喧嘩になるはずもないということも、わかるよね。だから、本当のことを知っているということは、それ自体が自由なことなんだ。本当のことを知らないから、人は人に対して自分の自由を主張することになるんだ。」 「『自分』というのは、名前でなければ、身分でもない。体でなければ、心でもない。ないないづくしで、どこにもない。それが『自分』というものだけど、だからといって、自分など『ない』というのでもない。なぜって、自分など『ない』と言っているその自分が、まさにそこに『ある』からだ。ないけれどもある。あるけれどもない、それが『自分』というものの正体、その存在の仕方の不思議さなんだ。何を『自分』と思うかで、その人の自分は決まっているというのも、この意味だ。」 「目に見えないもの、思いや感じや考えのことをひとまとめにして『心』と呼んでいるけれど、同じ目に見えないものの中でも、動いて変わる部分と、動きも変わりもしない部分とがある。前者が感情、後者が精神だ。感情は感じるもので、精神は考える物だ。」 「君は、自分が呼吸して、自分が食べるから、自分が生きているんだと思っている。でも、呼吸も消化も、全然君が意志してやっていることなんかじゃないんだから、その意味では、君が意志して君を生きているというわけじゃないんだ。じゃあ誰がこの体を生きているんだろう。」 「自分に都合が悪いことはすべて、『社会が悪い』『社会のせいだ』というあの態度だ。でも、社会が自分の外にあると思っているのは、ほかでもないその人だ。自分でそう思い込んでいるだけなのに、じゃあその人はいったい何を責め、誰が悪いと言ってることになるのだろう。」 「『社会』なんてものを目で見た人はいないのに、人はそれが何か自分の外に、自分より先に、存在するものだと思っている。思い込んでいるんだ。それが自分や皆でそう思っているだけの観念だということを忘れて、考えることをしていないから、思い込むことになるんだね。」 「結局のところ、『社会』というのは、複数の人の集まりという単純な定義以上のものではない。それ以上の意味は、人の作り出した観念だということだ。」 「『自分がそう思う』というだけなら、それが正しいか間違っているかは、まだわからない。自分ではそ

津島佑子さんの残した言葉【太宰治の次女】1947年3月30日~2016年2月18日

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「この世界を嘆いている暇があったら書くんだ。」 「わたしはこれからも生き続けなければならないのだ。生き続ける者はいつでもいそがしい。いつでも用事に追われつづける。」 「不運なことだけど、不運に溺れていると不幸になる」 日本の小説家。本名は津島里子。作品は英語・フランス語・ドイツ語・イタリア語・オランダ語・アラビア語・中国語などに翻訳されており、国際的に評価が高い。東京都北多摩郡三鷹町生まれ。小説家太宰治と津島美知子の次女。

奈良原一高さんの残した言葉【伝説的写真家】1931年11月3日~2020年1月19日

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「困るどころか歓迎しますよ。なぜなら、こういうときこそプロとアマの差がはっきりするからです。」 (日本ではもう誰もがカメラをあやつる時代になりましたが、こういう状態になるとプロのカメラマンは困りませんか。との問いかけに) 日本の写真家。 前衛美術に傾倒し、1955年には、池田満寿夫、靉嘔らが結成したグループ「実在者」に参加。1956年、初個展「人間の土地」を開く。1958年、個展「王国」で日本写真批評家協会賞新人賞を受賞。1959年、東松照明・細江英公・川田喜久治・佐藤明・丹野章と、写真家によるセルフ・エージェンシー「VIVO」を結成(1961年解散)。『ヨーロッパ・静止した時間』(1967)で、日本写真批評家協会賞作家賞、芸術選奨文部大臣賞、毎日芸術賞を受賞。1986年「ヴェネツィアの夜」に対して、日本写真協会年度賞を受賞。1996年に紫綬褒章を受章。2002年、パリ写真美術館で、2004年、東京都写真美術館で回顧展が開催されるなど、国内外で高く評価されている。2006年、旭日小綬章受章。

クレイトン・クリステンセンさんの残した言葉【イノベーションのジレンマ】1952年4月6日~2020年1月23日

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「経営理論を過小評価する経営者は多い。理論という言葉は『理論上』という言葉を連想させるが、これには『非現実的』という意味合いがあるからだ。だが、理論はこの上なく実用的だ。現に、重力の法則は理論であり、しかも有用だ。この法則があればこそ、崖から足を踏み外せば下に落ちることが予測できる。」 「すぐれた経営こそが、業界リーダーの座を失った最大の理由である。」 ハーバード・ビジネス・スクール の教授である。初の著作である『イノベーションのジレンマ』によって破壊的イノベーションの理論を確立させたことで有名になり、企業におけるイノベーションの研究における第一人者である。

内田勝正さんの残した言葉【水戸黄門】1944年9月19日~2020年1月31日

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「おぬしもワルよのう。」 日本の俳優。別名義:内田 昌宏。浪曼劇場、竹内事務所を経て、最後の所属事務所はエ・ネスト所属。既婚。千葉県野田市出身。 名悪役として、「水戸黄門」や「大岡越前」などで活躍した。

マイク・ホアーさんの残した言葉【アフリカで最もその名を知られた傭兵】1919年3月17日~2020年2月2日

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「日本軍が捕虜を虐待したのは理解できる。彼ら自身が捕虜になるのを恥じていたからだ。」 著名なアイルランド人傭兵。コンゴ動乱に参加したことや、セーシェルにおけるクーデターを指揮したことで知られる。

小林庄一郎さんの残した言葉【関西電力社長】1922年7月14日~2020年2月4日

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「自分でも運に恵まれていることは認めている。しかし、運は一人で占めるべきものではありません。また一人の努力のみによって開けるものでもありません。禍福はあざなえる縄のごとくやってくるものです。だから私は自戒の意味を込めて、座右の銘を仏果禅師の「福受けつくすべからず」としているのです。」 日本の経営者である。 1984年-1985年電気事業連合会会長。関西文化学術研究都市推進機構理事長、日本放送協会(NHK)経営委員長を務めた。

カーク・ダグラスさんの残した言葉【ハリウッドの伝説】1916年12月9日~2020年2月5日

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「生まれる時代を間違えた!わしがあと30歳若けりゃな。」 「多くのアメリカ人が家庭でこう言われて育ったに違いいない。ユダヤ人を差別するのは仕方のないことだ。国のしきたりなのだ。しかし私はその差別のおかげで頑張れた。人はしょせん、自分で自分の背中を押すしかないのだ。」 アメリカ合衆国の俳優、映画プロデューサー。 映画「スパルタカス」「OK牧場の決斗」などで知られる。俳優のマイケル・ダグラスは息子。

渋沢栄一さんの残した言葉【日本資本主義の父】1840年3月16日~1931年11月11日

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「我が人生は、実業に在り。」 「世の人が元気をなくしており、社会の発展が停滞している。いままでの仕事を守って間違いなくするよりも、さらに大きな計画をして発展させ、世界と競争するのがよいのだ。」 「真の富とは道徳に基づくものでなければ決して永くは続かない。」 「我も富み、人も富み、しかして国家の進歩発達をたすくる富にして、はじめて真正の富と言い得る。」 「論語とソロバンというかけ離れたものを一つにするという事が最も重要なのだ。」 「四十、五十は洟垂れ小僧、六十、七十は働き盛り、九十になって迎えが来たら、百まで待てと追い返せ。」 「私は他人が掛物とか屏風とか、その他の書画骨董に金を出すと同様に、慈善事業に金を費やすことをもって一種の道楽と思うているくらいである。」 「親から子に対して孝を励めよと強ゆるのは、かえって子を不孝の子たらしむるものである。」 「長所を発揮するように努力すれば、短所は自然に消滅する。」 「不言実行と共に、また有言実行も大いによろしい。」 「得意時代だからとて気を緩さず、失意の時だからとて落胆せず、常操をもって道理を踏み通すように心がけて出ることが肝要である。」 「反対者には反対者の論理がある。それを聞かないうちに、いきなりけしからん奴だと怒ってもはじまらない。問題の本質的な解決には結びつかない。」 「余はいかなる事業を起こすにあたっても、利益を本位に考えることはせぬ。この事業は起こさねばならず、かの事業は盛んにせねばならずと思えば、それを起こし、関与し、あるいはその株式を所有することにする。」 「有望な仕事があるが資本がなくて困るという人がいる。だがこれは愚痴でしかない。その仕事が真に有望で、かつその人が真に信用ある人なら、資本ができぬはずがない。愚痴をこぼすような人は、よしんば資本があっても大いに為す人物ではない。」 「数字算出の確固たる見通しと、裏づけのない事業は必ず失敗する。」 「限りある資産を頼りにするよりも、限りない資本を活用する心掛けが肝要である。限りない資本を活用する資格とは何であるか。それは信用である。」 「日本では人知れず善いことをするのが上である。自分の責任はもちろん、他人の責任までも追うことが武士道の真髄とされる。」 「大金持ちになるよりも、社会万民の利益をはかるために生きる方が有意義である

オードリー・ヘプバーンさんの残した言葉【女優】1929年5月4日~1993年1月20日

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「You go back. You search for what made you happy when you were smaller. We are all grown up children, really… So one should go back and search for what was loved and found to be real.」 (過去へさかのぼりましょう。小さかったときに何に幸せを感じたのかをさがすの。私たちはみんな成長した子供。本当に…。だから人は回想し、愛したものや気付いた現実を探し求めるべきなのです。) 「People, even more than things, have to be restored, renewed, revived, reclaimed, and redeemed; never throw out anyone.」 (人は、物以上に、回復して、新しくなり、生き返り、再生し、報われることが必要なの。決して、誰も見捨ててはいけません。) 「I don’t want to be alone, I want to be left alone.」 (一人ぼっちになるのはいやだけど、そっとしておいて欲しいの。) 「You can tell more about a person by what he says about others than you can by what others say about him.」 (人の評価は、他の人たちの意見よりも、その人が他の人たちについてどのように言っているのかでより分かるものです。) 「幸福のこんな定義を聞いたことがあります。『幸福とは、健康と物忘れの早さである』ですって! わたしが思いつきたかったくらいだわ。だって、それは真実だもの。」 「The most important thing is to enjoy your life – to be happy – it’s all that matters.」 (何より大事なのは、人生を楽しむこと。幸せを感じること、それだけです。) 「母から一つの人生観を与えられました。他者を優先しないのは、恥ずべきことでした。自制心を保てないのも、恥ずべきことでした。」 「愛は行動なのよ。言葉だけではだめ

オスカー・ワイルドさんの残した言葉【早すぎた美の殉教者】1854年10月16日~1900年11月30日

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「Always forgive your enemies; nothing annoys them so much.」 (敵のことは常に許してやるがいい。 これほど相手をいらつかせるものはないのだから。 ) 「Imagination was given to man to compensate him for what he is not, and a sense of humor was provided to console him for what he is.」 (想像力は、人間に無い物を補うために与えられた。そしてユーモアは、人間が持っている物とうまくやっていくために与えられた。) 「I adore simple pleasures. They are the last refuge of the complex.」 (私は単純な楽しみごとが好きだ。それらは複雑な人間にとって最後の避難所である。) 「Children begin by loving their parents. After a time they judge them. Rarely, if ever, do they forgive them.」 (子供は最初は親を愛するが、やがて親を裁くようになる。許すことはまずめったにない。) 「But what is the difference between literature and journalism? Journalism is unreadable and literature is not read. That is all.」 (文学とジャーナリズムの違いは何だろうか。ジャーナリズムは読むに耐えない。文学は読む人がいない。それがすべてだ。) 「戦争が邪悪だと認められている限り、戦争は常にその魅力を持つだろう。これが卑俗なものだと考えられる時は、戦争は一時的なものに終わるであろう。」 「Find expression for a sorrow, and it will become dear to you. Find expression for a joy, and you intensify its ecstasy.」 (悲しみの表現を身につけると、あなたにとって貴重なものとな

コービー・ブライアントさんの残した最後の言葉【スーパースター】1978年8月23日~2020年1月26日

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「この町(ロサンゼルス)を見ながら、一緒に成長したことは素晴らしいことだった。僕は凄く感謝の気持ちがある。僕はこの町にしてもらったことに対して、まだ何一つ返していないんだ」 (最後の言葉) アメリカ合衆国のバスケットボール選手。ペンシルベニア州フィラデルフィア出身。NBAのロサンゼルス・レイカーズ一筋で活躍した。ポジションはシューティングガード。身長198cm、体重96.2kg。

コービー・ブライアントさんの残した言葉【スーパースター】1978年8月23日~2020年1月26日

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「Those time you get up early and work hard, those time you stay up late and work hard, those time you don’t feel like working, you are too tired, you don’t wanna push through but you do it anyway. That is actually the dream. That’s the dream. That’s not destination, that’s journey.」 (早起きしてハードワークするとき。遅くまで起きてハードワークするとき。働く気にならずとても疲れていて、何もしたくないけど、とにかくやり遂げたとき。それこそが夢なんだ。夢とは「目的地」ではなく、その「旅路」のことなんだ。) ※永久欠番のセレモニー中、スピーチの締めくくりとして、「夢」について語ったコービー・ブライアント。 「Life is too short to sit around and hold grudges. It doesn’t make any sense to do it.」 (人生は座って誰かを恨んでいるには時間が短すぎる。そんなことをする意味はどこにもない。) 「Passion is the fuel for success.」 (情熱は成功のための燃料だ。) 「Dedication sees dreams come true.」 (献身が夢を叶える。) 「If you don’t believe in yourself, no one will do it for you.」 (もし自分が自分自身を信じなかったら、誰が自分を信じてあげられるというのか。) 「I’m playing against great players, playing against the best in the world. The competition – that’s what I’ve always wanted.」 (僕は素晴らしい選手たち、最高の選手たちと戦い続けている。競争_これこそが僕の欲するものだ。) 「Everything negative – pressure, challe

ナタリー・コールさんの残した言葉【シンガーソングライター】1950年2月6日~2015年12月31日

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「誰も支持してくれる人がいなければとてもつらい事。しかし夢を持っているならば毅然と立ち上がり突き進む。それはとても勇気のいる行為です。」 アメリカ合衆国のシンガーソングライター。ナット・キング・コールの実娘。 カリフォルニア州ロサンゼルス生まれ。子供の頃から歌手として活動し、1975年にデビュー。デビュー曲の「ジス・ウィル・ビー」はビルボード全米総合チャート6位のヒットを記録し、グラミー賞の最優秀R&B女性ボーカル賞、最優秀新人賞に輝く。 1976年に初来日を果たし、「Mr. Melody」が第5回東京音楽祭でグランプリを受賞。1977年には全米総合チャート5位、R&B部門1位に輝いた「I've Got Love On My Mind」等のヒットを飛ばす。しかし、1980年代に入るとセールスは大きく落ち込み、また麻薬中毒に陥って一時活動を休止するなど、不遇の時を過ごした。 1988年に「ピンク・キャデラック」のヒットで復活すると、翌1989年にはビルボードのR&B部門とアダルト・コンテンポラリー部門ともに第1位、全米シングルチャート第7位、全英オフィシャルチャートのシングルランキング第2位という殿堂に輝いた「Miss You Like Crazy」、さらに1991年には偉大な父ナット・キング・コールのカバー集「アンフォーゲッタブル (Unforgettable... with Love)」を発表。全米ポップチャートで5週1位というジャズ作品としては異例の大ヒットを記録し、グラミー賞の最優秀アルバム賞を受賞した。シングル「アンフォーゲッタブル」では、亡き父が歌った音源とのオーバーダブによる「共演」が大きな話題を呼び、この曲も同年のグラミー賞のソング・オヴ・ザ・イヤーに輝いている。

石坂敬一さんの残した言葉【伝説のロック・ディレクター】1945年8月25日~2016年12月31日

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「大学卒業後、東芝音楽工業に入社しました。当時は大きな会社ではありませんから、すぐにビートルズの担当になることができました。箱に詰められたレコードが送られてくると、新人の私が担いで倉庫まで運ぶのですが、『私がこのレコードを割ってしまえば、ビートルズは何もできない。自分が日本における運命を握っているんだ』と、入れ込んでいたのを覚えています。」 「東芝の常務から東芝EMIの社長になられた高宮昇さんからは、多くの面で教えられることがありました。とりわけ仕事に関しては、一途に、誠実に、さらに厳しくということを、高宮さんの背中から学んだ気がします。」 「音楽は非常に広がりのある芸術で、その背景には伝説や民話、言葉などの様々な要素が詰まっている。こうした研究をした上でビートルズの音楽を聴いてみると、彼らのインスピレーションや深い一面が理解できるような気がしました。」 日本の実業家・音楽ディレクターで、東芝EMI、日本ポリグラム~ユニバーサルミュージックで数々の実績を残し、経営に尽力した。日本レコード協会顧問。埼玉県出身。 2011年11月1日より、ワーナーミュージック・ジャパン代表取締役会長 兼CEOに就任。 東芝EMI在籍時には名物ディレクターとして名を知られ、洋楽制作部時代にはザ・ビートルズやピンク・フロイドを手がけ、邦楽制作本部時代には原田知世、薬師丸ひろ子、本田美奈子らを育てる。 クリエイションを米・豪で売り出し、日本のロックの海外進出の足掛かりを作った。 また、前・所属会社で実績が伸びなかったBOØWYや矢沢永吉を移籍させ、復活させたことでも知られる。

大滝詠一さんの残した最後の言葉【ミュージシャン】1948年7月28日~2013年12月30日

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「ママ、ありがとう!」 (最後の言葉) 日本のミュージシャン。 シンガーソングライター、作曲家、アレンジャー、音楽プロデューサー、レコードレーベルのオーナー、ラジオDJ、レコーディング・エンジニア、マスタリング・エンジニア、著述家、元Oo Records取締役など、多くの顔を持つ。 独自の音楽理論を持ち、1990年代に隆盛を誇った渋谷系のように他ミュージシャンからの引用が多いのが特徴。1950年代から1970年代にかけてのアメリカのポップス・ロック、イギリスのリバプールサウンド、日本の歌謡曲・演芸についての豊富な知識をもち、それらを駆使して制作される音楽トラックは、普通に聞こえても分析すると実は非常にマニアックであり、また、自作詞に関しては独特のおふざけが入っている。『ゴー・ゴー・ナイアガラ』時代にリスナーから「あなたには悩みというものがないのですか?」という投稿が送られてきたという。なお、作品はおおまかに分けると、メロディタイプと言われる歌もの、ノベルティタイプと言われるサウンド偏重ものの2種類に分かれる。 楽曲制作の念密さを語る一例として、ある人が大瀧に「あの曲は3つの曲からの剽窃ですね」と指摘し訊ねるたところ「その3つとあと2曲の5曲から出来てるけど、君は3曲しかわからなかったんだ」と大滝が言い返したという逸話(山下達郎がしばしばラジオでする話)や伊藤銀次がレコーディングに参加した際、有名曲のフレーズを音符を逆にして弾くのを強要されて唖然としたという。

大滝詠一さんの残した言葉【ミュージシャン】1948年7月28日~2013年12月30日

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「人生は暇つぶし。」 「今日生きているのだって途中だし、なんだって途中なんだから。一生未完で終わるわけですよ。」 「忙しいと思ったことは一度もないよ。だって、人に言われてやってることじゃないんだもの。」 「エヴェレストは高い エルヴィスは深い。」 「働いてはいないが遊んではいない。引いてはいるが、こもってはいない。」 「期待は失望の母である。」 日本のミュージシャン。 シンガーソングライター、作曲家、アレンジャー、音楽プロデューサー、レコードレーベルのオーナー、ラジオDJ、レコーディング・エンジニア、マスタリング・エンジニア、著述家、元Oo Records取締役など、多くの顔を持つ。 独自の音楽理論を持ち、1990年代に隆盛を誇った渋谷系のように他ミュージシャンからの引用が多いのが特徴。1950年代から1970年代にかけてのアメリカのポップス・ロック、イギリスのリバプールサウンド、日本の歌謡曲・演芸についての豊富な知識をもち、それらを駆使して制作される音楽トラックは、普通に聞こえても分析すると実は非常にマニアックであり、また、自作詞に関しては独特のおふざけが入っている。『ゴー・ゴー・ナイアガラ』時代にリスナーから「あなたには悩みというものがないのですか?」という投稿が送られてきたという。なお、作品はおおまかに分けると、メロディタイプと言われる歌もの、ノベルティタイプと言われるサウンド偏重ものの2種類に分かれる。 楽曲制作の念密さを語る一例として、ある人が大瀧に「あの曲は3つの曲からの剽窃ですね」と指摘し訊ねるたところ「その3つとあと2曲の5曲から出来てるけど、君は3曲しかわからなかったんだ」と大滝が言い返したという逸話(山下達郎がしばしばラジオでする話)や伊藤銀次がレコーディングに参加した際、有名曲のフレーズを音符を逆にして弾くのを強要されて唖然としたという。

宮尾登美子さんの残した言葉【小説家】1926年4月13日~2014年12月30日

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「人にしてあげたことはすぐに忘れないかん。してもろうとことは死ぬまで忘れるな。」 日本の小説家。高知県高知市生まれ。高坂高等女学校卒業。 作品のテーマは一貫して女性であり、自伝ものから出発して、さまざまな分野に新境地を開いている。徹底した取材で知られ、小説『きのね』では十二代市川團十郎をとりあげた産婆まで見つけ出し、聞き取り取材をもとにしている。 『東福門院和子の涙』など、歴史の中で弄ばれるはかない女性を描いた歴史小説が有名。一方で、『クレオパトラ』では、悪女や悲劇のヒロインとしてつくりあげられてきたこれまでのクレオパトラ像を否定して、新たな解釈で浮かび上がらせている。また一方で歴史的事実からは逸脱した解釈による創作も見られる。 2005年の大河ドラマ『義経』は、『宮尾本 平家物語』と『義経』が原作。2008年には『天璋院篤姫』が『篤姫』として大河ドラマ化されたほか、2009年から放送の『坂の上の雲』には外部諮問委員として参加している。

ジュディス・リッチ・ハリスさんの残した言葉【子育ての大誤解】1938年2月10日~2018年12月30日

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「大人の形成には遺伝子も仲間も重要だが、親は重要ではない」 「私たちの思いどおりに子どもを育て上げることができるという考えは幻想にすぎない。あきらめるべきだ。子どもとは親が夢を描くための真っ白なキャンパスではない。育児アドバイザーの言葉に気をもむことはない。子どもには愛情が必要だからと子どもを愛するのではなくて、いとおしいから愛するのだ。彼らとともに過ごせることを楽しもう。自分が教えられることを教えてあげればいいのだ。気を楽に持って。」 アメリカ合衆国の心理学者。親は子の発達にとって最も重要な要因であるという信念を批判し、それらを否定する証拠を提示した『子育ての大誤解』の著者である。 1970年代後半に、後年the journal Perception and Psychophysicsに載ることになる二つの論文の基礎となる数学的な視覚情報処理モデルを開発した。 1981年以降、ハリスは発達心理学のテキスト執筆に焦点を合わせた。1984年にロバート・リーバートと共同で『The Child』を、1992年には『Infant and Child』を執筆した。 1994年に、ハリスは子どもの発達について、家族よりもピアグループ(同年代の友人・仲間たちとの関係)に焦点を当てた新しい理論を提唱した。この理論は、基礎心理学における傑出した著作として1995年にアメリカ心理学会からジョージ・ミラー賞を受賞する論文の基盤となった。皮肉なことに、ジョージ・ミラーは1960年にハリスの「独創性と独立性」がハーバードの基準に合わないとして、ハリスを博士課程から除籍した心理学部長である。 ハリスの最も有名な業績は、1998年に出版された『子育ての大誤解』(邦訳は2000年)である。本書はハーバード大学の心理学者スティーブン・ピンカーの薦めによって書かれ、ピンカーは序文を書いている。ハリスはこの本で、人の人格が主に両親にどう育てられたかで決まるという考えに挑戦している。彼女は親の子育て環境の影響を示すと主張する研究を調べ、ほとんどの研究が遺伝的影響の考慮を怠っていると主張する。例えば、攻撃的な親から攻撃的な子が育ちやすいとしても、親の子育ての影響を支持する証拠とはならない。遺伝を通して攻撃性を受け継いでいるかも知れない。多くの養子は養父母の個性とわずかな相関関係しか示さず

山田耕筰さんの残した言葉【あかとんぼ】1886年6月9日~1965年12月29日

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「知識の極みのさきには、神秘の世界がある。神秘の扉を開いて光明の彼岸に達せんとするは、ただ感悟の力によるのみ。」 「作るのではなくて、生活から生む。というのが私の創作上の信条である。」 「新しい芽を育てる。これが人間のいちばん美しいところ」 日本の作曲家、指揮者。山田 耕作としても知られる。 日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した。日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた。 日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した。日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた。また、ニューヨークのカーネギー・ホールで自作の管弦楽曲を演奏、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やレニングラード・フィルハーモニー交響楽団等を指揮するなど国際的にも活動、欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家でもある。軍歌の作曲も多く手がけている。

戸田蔵人さんの残した言葉【車椅子のモトクロスライダー】1980年6月5日~2015年12月29日

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「また空を飛べるなんて夢のよう。 1度失なったから、明日は無くなるかもしれないのを分かっているから。」 「Hard work pays off right?? 努力は必ず報われるはず。じゃなくて報われるまで努力。どこまで出来るかですよね。」 日本のモトクロスレーサー。愛称はクラウディ。茨城県土浦市出身。 6歳からモトクロスをはじめ、17歳でプロに転向する。2003年に全日本モトクロス選手権国際A級125ccクラス 総合3位に入賞する。2008年6月に岩手県藤沢町のコースでヤマハとスズキの合同練習に参加した際に大事故で脊髄を損傷する。 その際、医師からは自力で歩くことができないことを宣告され、車いす生活を強いられるが、「絶対に歩けるようになる」と信じ、専門の医師を訪ねるなどして治療に当たる。その後は再起を誓い、車いすでも操縦ができるように改良した自分専用のモトクロッサーを製作し、体をモトクロッサーに縛り付けた状態で大会に出場した。 2015年12月29日、かすみがうら市内の私設サーキットでジャンプの練習中に、バイクが着地した際に出火し、体をモトクロッサーに縛り付けていたため逃げ遅れて大やけどを負い死亡した。35歳没。

宮川ひろ さんの残した言葉【るすばん先生】1923年3月15日~2018年12月29日

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「春が来るから 冬もいいんさ いいんさ」 日本の児童文学作家。群馬県出身。金華学園教員養成所卒業。 長男は児童文学研究者の宮川健郎。 坪田譲治の講演を聴いたことで文学を志し、1965年に日本児童文学者協会が開講した「新日本童話教室」に参加[。 同人誌『どうわ教室』をあまんきみこらと創刊したほか、雑誌『びわの実学校』に作品を投稿した。この時期には今西祐行の指導を受けていた。 1969年、『るすばん先生』でデビュー。小学校教員時代には産休補助教員を務めた経験があり、『るすばん先生』は産休補助教員を題材とした作品である。 学校や家庭など、日常の風景の中で子どもが大人と接し、お互いが時に相手を支えながら成長していくと評されている。古田足日は「現代のおとなの文学には、日常生活のこまごまとした悩みをどうとらえるかという読者の要求に応えていない広大な空白があり、その空白の一部を宮川作品や他の児童文学作品が埋めている」と記した。

横溝正史さんの残した辞世の句【小説家】1902年5月24日~1981年12月28日

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「どん栗の落ちて虚しきアスファルト」 (辞世の句) 日本の小説家、推理作家。本名は同字で「よこみぞ まさし」である。当初は筆名も同じ読みであったが、誤読した作家仲間にヨコセイと渾名されているうちに、セイシをそのまま筆名とした。兵庫県神戸市東川崎生まれ。 金田一耕助を探偵役とする一連の探偵小説で知られる。また、薬剤師の免許を持っていた。 1968年、講談社の『週刊少年マガジン』誌上で、影丸穣也の作画により漫画化された『八つ墓村』が連載されたことを契機として、注目が集まる。同時に、江戸川乱歩、夢野久作らが異端の文学としてブームを呼んだこともあり、横溝初の全集が講談社より1970年から1976年にかけて刊行された。また、1971年から、『八つ墓村』をはじめとした作品が、角川文庫から刊行され、圧倒的な売れ行きを示し、角川文庫は次々と横溝作品を刊行することになる。少し遅れてオカルトブームもあり、横溝の人気復活もミステリーとホラーを融合させた際物的な側面があったが、映画産業への参入を狙っていた角川春樹はこのインパクトの強さを強調、自ら陣頭指揮をとって角川映画の柱とする。

高峰秀子さんの残した言葉【昭和を代表する大女優】1924年3月27日~2010年12月28日

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「人間は一人では、生きることも死ぬこともできない。」 「現場で働く人間にとって、何より嬉しいのは、同じ現場の人間に慕われること。」 日本の女優、歌手、エッセイスト。本名は松山 秀子、旧姓は平山。愛称は「デコちゃん」。 子役から大人の女優へ成長、戦前・戦後を通じて半世紀にわたり日本映画界で活躍した女優の1人。1929年に松竹蒲田撮影所で子役デビューし、天才子役スターとして活躍。 子役から大人の女優へ成長、戦前・戦後を通じて半世紀にわたり日本映画界で活躍した女優の1人。1929年に松竹蒲田撮影所で子役デビューし、天才子役スターとして活躍。ハリウッドの名子役シャーリー・テンプルとも比較されるほどの天才子役ぶりで名を馳せた。その後東宝、新東宝を経てフリーとなる。木下惠介、成瀬巳喜男監督作品に常連出演したほか、小津安二郎、豊田四郎、稲垣浩、五所平之助など日本映画界を彩る巨匠監督の名作に数多く出演した。1979年(昭和54年)に女優を引退し、その後はエッセイストとして活動。主な出演作品に『カルメン故郷に帰る』『二十四の瞳』『浮雲』など。著書に自伝『わたしの渡世日記』など。夫は映画監督の松山善三。

杉原輝雄さんの残した言葉【レジェンド】1937年6月14日~2011年12月28日

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「一生懸命にならな損、諦めたらあかん」 「一度気を抜いたゴルフをすると、それが癖となって、いざという時に悪さをしてしまうんや」 「苦しいときに我慢するのは普通の我慢、本当の我慢はここがチャンスだという時に心を逸らせない我慢である」 大阪府茨木市出身のプロゴルファーである。約50年に渡って現役を続行してきた存在感の大きさから、日本プロゴルフ界のドンと呼ばれた。永久シード権獲得者である。 優勝回数は国内男子プロとしては尾崎将司、青木功に次ぐ歴代3位だが、ツアー施行後はいわゆる「AON時代」(青木、尾崎、中嶋常幸の3人の頭文字を取った呼称)に突入していたため、レギュラーツアーにおいて賞金王(賞金ランキング1位)を獲得したことがない。

レミー・キルミスターさんの残した言葉【モーターヘッド】1945年12月24日~2015年12月28日

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「安全な策を取る人間は新しいものを理解したがらない。自分の世界観がひっくり返るのが怖いんだ。」 「何十年も続けていた習慣を止めれば、誰でも文句を言うものさ(笑)」 「俺達には何のプランもない。俺達がやることには何の理由もないんだ。俺たちは“理由や理屈のあるバンド”じゃないんだ。ただ出掛けていってやるだけだ。」 「嫌なヤツらってのは国際的に存在する。」 「俺は客席にいる女の子達を見るのが大好きだよ。」 「可能な限り速いソロを弾くだけの奴らのことは、俺は認めないよ。あいつらは、ただスケールの練習だけを繰り返し、そして物凄く速く弾くだけだ。」 「普段のライヴも若いファンは沢山来るよ。俺達の姿を見ずに音だけ聴いてたら、若い奴らがやってると思えるような音だろ?」 「俺は良い人生を送ってきたし、だからこそ今でもこの仕事をやっている。俺は多分ツアー中に死ぬことになるだろう。何らかのやり方で。」 「俺は1つの所に立ち止まってはいられないタチなんだ。昔の音楽も楽しむけど、新しい音楽も目一杯楽しみたい。ずっと同じことはやってられない。」 「俺達には何のプランもない。俺達がやることには何の理由もないんだ。俺達は“理由と理屈のあるバンド”じゃないんだ。ただ出掛けて行ってやるだけだ。」 「音楽は副業だと言っておく。音楽をやり始めたのも、そもそもは女の尻を追いかけるためだった。本当だ!(笑)」 「どうせ死ぬなら好きなことをして死んだ方がいいじゃないか!アッハッハ!」 「良い子供というのは、親に従わない子供のことだ。年上だというだけで親がすべて正しいなんて、馬鹿な考え方だよ。」 「20世紀はもっと楽しかったと感じてる。今の時代、くだらないルールだらけで最悪だ。」 「俺は俺らしい人生を生きている。これまでずっとそうしてきた。自分がやりたくもないことをやりだしたら死ぬほど惨めになるだろうよ!好きなことをやってから死ぬ方がマシさ。」 「ある年は早く月日が流れるし、ゆっくりな年もある。君の人生と同じだ。2週間のように感じる日もあれば、たった30分のように感じる日もある。誰の人生も同じ。MOTORHEADの25年もな。」 「俺には、他のことをやる能力も技術も全くないんだ。だから、何か別のことをやっていたとしても、不正なことじゃないかな。ドラッグかセックスに関係があることかも

デビー・レイノルズさんの残した最後の言葉【雨に唄えば】1932年4月1日~2016年12月28日

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「キャリーと一緒にいたい」 (最後の言葉) アメリカ合衆国テキサス州エルパソ出身の女優、歌手、声優。出生名はMary Frances Reynolds。娘のキャリー・フィッシャーさんが死去した、その翌日に死去。 ワーナー・ブラザースの映画2本で端役を演じた後、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーと契約。1950年にフレッド・アステアの映画に出演。その2年後、ジーン・ケリーのミュージカル『雨に唄えば』に抜擢され、一躍スターとなった。1957年、『タミーと独身者』の中で歌った主題歌「タミー」が全米5週連続1位の大ヒットとなり、アカデミー音楽賞にノミネートされる。 その後も『年頃ですモノ!』『恋に税金はかからない』『ママは二挺拳銃』などのヒット映画に多く出演し、タイタニック号の生存者で実在のモリー・ブラウンを演じた1964年の『不沈のモリー・ブラウン』ではアカデミー主演女優賞にノミネートされた。 また1960年代マネー・メーキング・スターの5位に2度選出されるなど、人気女優の一人として長い期間活躍した。

キャリー・フィッシャーさんの残した言葉【レイア姫】1956年10月21日~2016年12月27日

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「歳を重ねるにつれ、収入はスリムになっていくけれど、人は違う」 「恨み辛みというのは、毒を飲んで相手が死ぬのを待つのと同じようなもの」 「私の人生がこれほど面白味のないものでも、それはそれで本来の姿でしょう。でもそれは受け入れられないわね」 「有名人一家に育ったから、プライベートの生活はまるでなかった。どうせ公になるのなら、どこかの誰かが勝手に想像したものではなくて、実際に私が経験した通りに報じて欲しいわね。恥ずかしい思いをさせられるのはごめんだわ」 「最近学んだのは、ひっきりなしにつぶやいて、次々と誤解を生み出す方法だけね」 「歳をとっていくのは嬉しいことではないわ。でも避けられないことでしょ?」 「自分がどんなにクレイジーかってことは、自分がよく心得ているつもりだわ」 「成功してよかったのは、収入が増えたことと、あちこちを旅していろいろな人たちと出会えたことね。逆によくなかったのは、やっぱりお金と旅行と人間関係ね」 「基本的に私は世渡り上手だと思う。ただ残念なことに渡り歩いているのはロデオ・ドライブなんだけど」 「即座に得られる喜びというのは、得るまでに時間がものすごくかかるもの」 「地獄を見てこそ、そこからじわじわと本当の幸せを感じられることもあるのよ」 「これまで自暴自棄に陥ることはなかったわ。たぶんそれはドラッグのおかげね」 「ルーカス監督には、『宇宙空間には下着なんてないんだから、衣装にブラはなし』って言われたの」 「あなた(ジョージ・ルーカス)は丸々3年間、私の肖像権を握っている。だから私が鏡に映る自分の姿を見るたびに、あなたへ数ドルずつ小切手を切らなければならないの」 「こんにちは!私はハン・ソロの夫人でアル中です。アル中になった原因はジョージ・ルーカスに人生をボロボロにされたからです」 「私は防空壕の中で他のみんなを励ましているような人間よ」 「歳をとったセレブがどうなるか知ってる?くたばるかヴェガスへ行くかよ」 「誰でも他人の人生を狂わせる可能性はあるわ。私はただ、他の人よりもその程度が大きいだけなの」 「映画は夢よ!潜在意識に訴えかけるのよ。才能豊かで独立心が強く、賢明な兵士や戦士、そして支配者とまではいかない女将軍としてのレイア姫は、誰でも演じることができるわ。でもすべての女性の偏見を克服して真の女性支配者