投稿

ラベル(著名人)が付いた投稿を表示しています

福田みどり さんの残した言葉【司馬遼太郎夫人】1929年~2014年11月12日

イメージ
「わからないから興味を持ちつづけることもできる。全部わかったら嫌になるもの。」 作家司馬遼太郎夫人で、司馬没後は、司馬遼太郎記念財団理事長に就いた。大阪府出身。旧姓・松見。 大阪樟蔭女子専門学校(現・大阪樟蔭女子大学)卒業後、1949年産経新聞社に入社し、まず「こども大阪」を担当、後に文化部に移動。婦人欄担当記者として活躍した。 1959年に同じ産経新聞社の記者だった福田定一(後の作家司馬遼太郎、翌1960年に直木賞を受賞)と結婚する。 1964年に同社を退社後は、夫を終生支え続けた。 1996年2月の司馬の死去をうけ、同年11月1日に司馬遼太郎記念財団を創設。

タケジロウ・ヒガさんの残した言葉【日系二世兵士】1923年7月22日~2017年10月7日

イメージ
「もともとは、物を壊す、人を殺す。それが目的。戦争は、私たち人々の欲がある限り、あるかもしれませんがね。戦争ほどばかばかしい人間の技はないと思います。」 「いじてぃめんそーれ」 (出てきてください!) アメリカ陸軍情報部の言語学兵。ハワイ移民2世で、アメリカ合衆国ハワイ州ワイパフ出身。 両親は沖縄県からハワイへ移民した日本人夫婦。生まれはハワイだが、2歳から少年期までを両親の出身地である沖縄本島の旧中城村(後の北中城村)島袋で過ごす。日中戦争開戦後に義勇兵の募集が開始されると、これに強く反発。1936年にハワイへ戻り、オアフ島ホノルルの姉夫婦のもとに身を寄せた。 しかし真珠湾攻撃後、アメリカ軍でもハワイの日系2世兵募集が開始され、日系人への風当たりが強かったこともあり、苦悩の末に兵に志願。MISの語学兵として日本軍の資料の翻訳、捕虜の尋問にあたった。太平洋戦争末期の沖縄戦(1945年)では、沖縄育ちの上に日本語にも強いことから、情報部隊の一員として同行を命じられ、沖縄の情報をアメリカ軍に提供する任務を負った。こうしてヒガは生まれ育った国を、それも沖縄を敵に回さざるを得なくなった。 沖縄上陸後は島内の壕を回り、壕に避難している県民たちに沖縄方言で投降を飛びかけ、県民たちの命を救った。尋問を命じられた捕虜たちの中には、小学校時代の恩師や同級生たちの姿もあった。同年のアメリカ合衆国による沖縄統治まで沖縄に滞在したが、その間、沖縄方言をはじめとする言葉のみを自分の武器と信じ、県民たちに対して決して銃を放つことはなく、投降を呼びかけ続けた。 ヒガたちのこうした活躍は決してすべての沖縄県民を救ったわけではなく、彼らの言葉を信じずに命を落とした県民も多く、戦火の犠牲となった県民は10万人以上にも昇ると見られている。とはいえ、MISの日系兵の存在がなければ犠牲者の数はそれ以上と見られていることも確かである。しかしながらMISの存在は情報工作などの性格上から極秘扱いされ、1970年代まで明るみに出ることはなかった。

浪越徳次郎さんの残した言葉【ジェット浪越】1905年11月15日~2000年9月25日

イメージ
「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」 香川県仲多度郡多度津町出身。指圧療法創始者。日本指圧協会元会長。 マリリン・モンローが新婚旅行で来日した際に、胃けいれんで体調を崩したモンローに素手で触って指圧した唯一の日本人である。このことについて浪越は「そりゃあもう、とにかく綺麗な方でしたよ。いつもより三倍くらい時間をかけてしまいました」と後にテレビ番組の中で述懐している。 他にも、モハメド・アリや吉田茂首相をはじめとした歴代の内閣総理大臣、A級戦犯を裁いた東京裁判のジョセフ・キーナン首席検事など、国内外の著名人を治療したことにより、日本はもとより全世界に指圧(SHIATSU)を普及させた。

酒井雄哉さんの残した言葉【比叡山の大阿闍梨】1926年9月5日~2013年9月23日

イメージ
「大事なのは『いま』そして『これから』なんだ」 「すぐに分からなくていい。時間がかかってもいいから、自分が実践してみたことや体験したことの意味を、大切に考え続けてみる。『ああ、あれはそういうことなのかもしれない・・・』と思ったとき、自分のものになっているのに気づく。」 「余計なことを考えず、今、目の前にあることを一生懸命やるという気持ちだけをもっていればいい。そしてひとつ道を見つけたら、生涯それで生きていくと決める。腹をくくっていれば動揺したり迷ったりすることはない。」 「今までこれだというものを見つけられなかった人は、今からでも『これをやろう』と決めて進んでいけばいい。大事なのは年齢じゃなくて、決めたことをやり続けること。」 「いま良いことをしても、その結果は今日すぐに来るかもしれないし、三代くらい後かもしれない。でも、それは早いか遅いかの違いで、いました行いの結果が必ずあらわれると思うと、前向きになれる。いま良いことをしていけば、未来は変わっていくかもしれない。」 「生き残ったのは、生き『残された』ということ。生き残るんじゃなくて、生き『残される』ものなのかもしれないな。」 「今日のできごとは今日でおしまい。『一日が一生』という気構えで生きていくと、あんまりつまらないことにこだわらなくなる。」 天台宗の僧侶。比叡山延暦寺の千日回峰行を2度満行した行者として知られる。天台宗北嶺大行満大阿闍梨、大僧正、比叡山一山 飯室谷不動堂長寿院住職を務めた。

酒井雄哉さんの残した最後の言葉【比叡山の大阿闍梨】1926年9月5日~2013年9月23日

イメージ
「それがねえ、なんにも、思い出さないねえ……。欲がなんにもなくなっちゃったの。なんにもないんだな。人間って、なにか持っているつもりでいて、なにも持っていないんだな……」 (いま、どんなことが頭に浮かぶかと聞かれて) (最後の言葉) 「思考力がなくなってきたんだよなあ。痛みもなんもないんだよ。人間の体はうまくできてんねえ」 (最後の言葉) 天台宗の僧侶。比叡山延暦寺の千日回峰行を2度満行した行者として知られる。天台宗北嶺大行満大阿闍梨、大僧正、比叡山一山 飯室谷不動堂長寿院住職を務めた。

横井庄一さんの残した言葉【大日本帝国の陸軍軍人】1915年3月31日~1997年9月22日

イメージ
「恥ずかしいけれど、帰って参りました」 日本の陸軍軍人、評論家。最終階級は陸軍軍曹、栄典は勲七等青色桐葉章。 太平洋戦争終結から28年目、アメリカ領グアム島で地元の猟師に発見された残留日本兵として知られる。

谷口稜曄さんの残した最後の言葉【長崎原爆の被爆者】1929年1月26日~2017年8月30日

イメージ
「核兵器を持っていない国が、持っている国を包囲し、一日も早く核兵器をなくす努力をしてもらいたい」 (最後のメッセージ) 長崎原爆を体験した被爆者のひとり。1929年に福岡県で生まれる。 1945年(昭和20年)8月9日、16歳のとき自転車に乗って郵便物を配達中、爆心地から1.8km地点の長崎市東北郷(現:長崎市住吉町)で被爆。原爆の爆風で自転車は大破し、激しい熱線により背中と左腕に大火傷を負う。そのまま徒歩で200mほど先の三菱重工長崎兵器製作所住吉トンネル工場へ避難し、機械油で体を拭いてもらうなど簡単な手当てを受け、近くの山へ避難する。2晩過ごした後、道ノ尾駅から救援列車に乗せられ諫早へ赴くも、諌早国民学校の救護所では満足な治療が受けられず、2日後に長与の遠縁の親戚の家に運ばれ静養。9月10日頃、治療のため、勤め先の本博多郵便局近くの新興善国民学校に開設されていた救護病院に運ばれる。 11月、大村の海軍病院(現在、独立行政法人国立病院機構長崎医療センター)へ移送され、3年7か月後やっと退院する。 1949年3月20日に退院する。しかし、その後もたびたび皮膚の移植手術等の治療を受ける。戦後、原爆によって被害を受けた自らの体験をもとに、核兵器廃絶のための活動を続けた。

B.K.S.アイアンガーさんの残した言葉【アイアンガーヨーガ創始者】1918年12月14日~2014年8月20日

イメージ
「Live happily, and die majestically. It means a happy death.」 (幸せに生きなさい。そして、堂々と死を迎えなさい。それは幸せな死だ。) インドの人物で、アイアンガーヨーガの創始者。数々のヨーガ修行や哲学の決定版となる本を著作し、全世界では数百万人ほどの生徒や信奉者がいる。 アイアンガーは1952年に世界的に有名なヴァイオリニストのイェフディ・メニューインと出会い、友人になった。その後、メニューインの手配により、ロンドン、スイス、パリなど世界各地でヨーガを教えることになった。そして1966年にアイアンガーは『ハタヨガの真髄』 (Light on Yoga) を著作し、それが国際的なベストセラーとなった。次第にアイアンガーヨーガはアメリカやヨーロッパで最も練習されるヨーガのひとつとなった。

桜井真一郎さんの残した言葉【スカイラインの父】2011年1月17日

イメージ
「自分で設計したクルマは、人がケガをする前に設計者のお前が乗れ、と言うことですよ。正直いって怖かったけど、もし間違って死ぬなら自分が先だという思いでマシンに乗り込みました。歴代のスカイラインはもちろん、レーシングカーも私が最初にステアリングを握ったんです。自分で走らせてみないと、クルマの素性が分からないし、味付けもできません」 日本の自動車技術者。株式会社エス・アンド・エス エンジニアリング取締役会長。神奈川県出身。戸籍上の氏名は、櫻井 眞一郎。 旧プリンス自動車工業時代より日産自動車時代に渡るまでスカイラインの開発に携わる。

小野田寛郎さんの残した言葉【大日本帝国の陸軍軍人】1922年3月19日~2014年1月16日

イメージ
「世の中には出来そうにないことでも、やらなければならないことがあるし、できることでもやってはいけないことがある。」 「この判断基準こそが、その人の価値を決める。」 「生まれた時は自我ばかり、生きるためには自制と自律がなければ。」 「豊かさは自分の心で感じるもの。不便さは何とでもなる。最後は自分の五体で何とかなる。」 「やってしまったことは『しかたがない』。これからどうするかだ。くよくよ負け犬になってしまう。負け犬は遠くから吠えるだけで向かってこない。」 「計画どおりにいかないことは沢山あるが、思い通りにはいくものだ。不満などどうってことはない。自分の満足度を少し変えればよいのだから。」 「過去は捨てることはできない。現在は止めることができない。しかし、未来は決めることができる。」 「自分では『どうすることもできない』と思っていることでも、本当は『どうにかしよう』としていないだけではないか。」 「コンパスは方向は教えてくれるが、川や谷の避け方は教えてくれない。」 「コンパスばかり見ていると川や谷に落ちてしまう。自分で考えて判断しなければ。」 「若い意気盛んな時に、全身を打ち込んでやれたことは幸せだったと思う。」 「疲れている時、怪我をしている時は、弱気になってしまう。満腹な時、体調の良い時は、油断をする。」 「汚名は恐れない。いつか晴れるから。結果を恐れる。どうしようもないから。」 「反省はさせられるものではなく、自分でみずからするもの。」 「約束の時間に遅れれば、その時間の分だけ待たせた人の人生を無駄にさせる。約束を守れない人は信用されず、自分の人生を無駄にすることになる。」 「馬鹿な人は嫌いだ。馬鹿な人とは頭のわるい人のことではない。自分勝手で思いやりや常識のない人のことだ。人は一人では生きられないのだから。」 「戦いは相手次第。生き様は自分次第。」 「礼儀は挨拶ではない。家庭や社会で筋道をつけること。」 「自制や自律は筋肉と同じ。鍛練すれば強くなり放っておくと、生まれた時の自我に戻ってしまう。」 「叱りすぎてもだめ、褒めすぎてもだめ。叱りすぎると叱った人が慢心し、褒めすぎると誉められた人が増長する。それでも、子供たちは叱るより誉めてやりたい。」

お龍さんの残した言葉【坂本龍馬の妻】1841年7月23日~1906年1月15日

イメージ
「龍馬はひと息に一升五合を呑み乾せば、息を吐く事虹の如し」 お龍こと、楢崎 龍は、江戸時代末期から明治時代の女性。名は一般にお龍と呼ばれることが多い。 中川宮の侍医であった父が死んで困窮していた頃に坂本龍馬と出会い妻となる。薩長同盟成立直後の寺田屋遭難では彼女の機転により龍馬は危機を脱した。龍馬の負傷療養のため鹿児島周辺の温泉を二人で巡り、これは日本初の新婚旅行とされる。