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梅原竜三郎さんの残した言葉【日本洋画界の重鎮】1888年3月9日~1986年1月16日

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「美しい光や色彩に感動すれば、何度でも同じ絵を描く。」 「生者は死者の為に煩わさるべからず。」 「葬式の類は一切無用のこと。 弔問、供物の類はすべて固辞すること。 生者は死者のためにわずらわさるべきにあらず。」 (遺言) 日本の洋画家。京都府京都市下京区生まれ。1914年までは梅原 良三郎を名乗った。 ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術・琳派・南画といった日本の伝統的な美術を自由奔放に取り入れ、絢爛な色彩と豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を展開。昭和の一時代を通じて日本洋画界の重鎮として君臨した。

ナポレオン・ボナパルトさんの残した最後の言葉【皇帝】1769年8月15日~1821年5月5日

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「私はイギリスの暗殺者に殺されるのだ。私の骨はセーヌ河のほとりに埋めてくれ」 (遺言) 「神よ、フランス国民、私の息子、軍隊の先頭」 (左目から涙をこぼしながら) (最後の言葉) 「Josephine…」 (ジョゼフィーヌ…) (最後の言葉) 革命期のフランスの皇帝・革命家である。ナポレオン1世としてフランス第一帝政の皇帝にも即位した。 フランス革命後の混乱を収拾し、軍事独裁政権を樹立した。 大陸軍(グランド・アルメ)と名づけた巨大な軍隊を築き上げて、フランスでの王政の復活を企図する王党派とのナポレオン戦争を戦い、幾多の勝利と婚姻政策によって、イギリス、ロシア、オスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置いたが、最終的に対仏大同盟との戦いに敗北し流刑地のイギリス領セントヘレナにて没した。

左幸子さんの残した遺言【女優】1930年6月29日~2001年11月7日

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「命懸けでやりなさい」 (妹(左時枝)への遺言) 日本の女優。富山県下新川郡朝日町出身。本名、額村幸子。 妹は同じく女優左時枝。元夫は映画監督の羽仁進。娘はエッセイストの羽仁未央。 私生活では、1959年に映画監督の羽仁進と結婚。1964年に長女・未央を出産。しかし、1973年に羽仁が未央を連れてアフリカに長期撮影旅行に出かけた際、これに未央とともに同行した左の実妹(四女)で当時羽仁のマネージャー務めていた額村喜美子と不倫関係にあったことを人づてに知り、ショックを受け自殺を図るが事なきを得た。このこともあり1977年、離婚し未央は父側に付き、羽仁はその4ヶ月後の11月8日、喜美子と再婚した。 1985年、胃癌のため胃の一部を切除するも体調が回復せず長く療養生活を送る。1991年に舞台『糸女』でカムバックを果たしたが、その後はバラエティ番組へのゲスト出演が活動の中心になっていった。晩年は『快傑熟女!心配ご無用』のレギュラーパネリストとして出演している。

田宮五郎さんの残した遺言【俳優】1967年1月13日~2014年11月6日

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「支えてくれる方がいるのは宝物ですよ。」 (遺言) 日本の俳優。本名、柴田 英晃。旧芸名、田宮 英晃。 東京都出身。東京農業大学農学部畜産学科卒業。身長186cm。体重85kg。スリーサイズはB97・W87・H104。靴のサイズは29cm。趣味・特技はトロンボーン、ピアノ。 父は俳優の田宮二郎。母は元女優の藤由紀。兄は俳優・教師の柴田光太郎。離離婚歴あり。芸名の姓は父親の芸名「田宮二郎」、名は父の本名「吾郎」にちなんでいる。また、父・田宮二郎の代表作『白い巨塔』での役名が「財前五郎」であることも意識されていると言われるが、関連は全く無い。 2006年2月、高瀬プロダクションに所属、芸能界入りし、同年7月1日、NHK土曜ドラマ『人生はフルコース』で芸能界にデビュー。2007年3月、ABeBe(現・アベベネクスト)に移籍。2011年、キャストパワーに移籍。主にテレビドラマで活躍。 目の表情、ゆっくりした話し方など父・二郎の面影を髣髴とさせる。またその容貌も、父親譲りの甘いマスクにニヒルな影を漂わせ、186cmという長身に恵まれて、多くの体験を積み人間的深みを得た俳優としてこれからが大いに期待されていたが、2012年4月にくも膜下出血で倒れ、病気療養の末に2014年11月6日に急死。享年47。

北島秀一さんの残した遺言【ラーメン評論家】1963年1月1日~2014年9月1日

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「これで僕が死んだら、北島はラーメンのせいで死んだと言われてしまうだろうけれど、僕の病気とラーメンはまったく関係無いということを、僕が死んだ後に必ず伝えて欲しい。」 (遺言) 日本のフードライター、ラーメン評論家。元新横浜ラーメン博物館広報担当。 広島県広島市出身。広陵高等学校卒。進学のため上京、大学の通学路にあった熊本ラーメン桂花に魅せられる。大学卒業後、大手電機メーカーに就職、出張先でラーメンを食べまくる。新横浜ラーメン博物館のサイト「ラーメンネット」の参加が同博物館のスタッフの目に留まり、1997年、テレビ東京『TVチャンピオン』第4回ラーメン王選手権に出場。決勝戦で石神秀幸との激戦の末惜敗、準優勝。これを機にこの後、同番組の問題作成委員会に加わり、また週刊現代など多くの雑誌にラーメン評論を掲載、ラーメンジャーナリストの草分けとなった。同年12月から自身のラーメン食べ歩記サイト「電脳麺記」を開始。1999年同博物館に転職、広報などを担当していたが白血病を患い2003年退職した。 その後はフリーのラーメンジャーナリストとして、雑誌への寄稿やテレビ出演などで活動した。その他、川崎駅前のラーメン横断組織「川崎麺店会」の発起人になるなどの活動も行った。2004年6月には、日本国内の全ての都道府県のラーメン食べ歩きを達成した。また、日本ラーメン協会の設立メンバーの一人で、顧問を務めていた。

渥美清さんの残した遺言【寅さん】1928年3月10日~1996年8月4日

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「俺のやせ細った死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせてほしい」 (遺言) 日本のコメディアン、俳優。本名、田所 康雄。 愛称は、寅さん、風天(俳号)。代表作『男はつらいよ』シリーズで下町育ちのテキ屋で風来坊の主人公「車寅次郎」を演じ、「寅さん」として広く国民的人気を博した昭和の名優。没後に国民栄誉賞を受賞。

梅津正彦さんの残した遺言【ボクシングコーチ】1968年12月13日~2013年7月23日

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遺言インタビュー 健康な人には、僕のいまの気持ちは正直、わからないと思うんですよね……。余命があと30年あったはずが、突然、1年しかなくなった。僕の1日は、普通の人の30日分なんですよ。 だから、僕が子供と長く遊びすぎると、カミさんが『もう、いい加減にしなさい』と叱るけど、『お前はこれから子供と何十年も一緒にいられるんだろ? 俺はあとどれだけいられるかわからないんだぞ!』って、逆ギレですよ(笑)。 そんなわがままな亭主ですけれど、カミさんはいま、やれることは全部やってくれています。 そろそろ“死ぬ準備”もしておかなきゃと思っています。息子は5歳で、本当に可愛い盛りです。でも、来年の6歳の誕生日までは、自分が生きられるかわからない。ランドセルを背負う姿を見るまでは、と思ってはいるんですが……。 それで、息子の毎年の誕生日に贈る手紙を書いておこうと思って。6歳用、7歳用、8歳用…と20歳くらいまでね。ずっといま書いているんです。だって、死んじゃったら書けないですから(笑) いまも、実は健常者のふりをしているだけなんですよ。 やっぱり、俺は末期がん。だから、ときには本当に発狂したくなったりもするんです。それが、いまの偽らざる心境なんです。 ボクシングに、僕は人生を教えてもらいました。その素晴らしい世界を俺もまた誰かに伝えたくて、いままでやってきた気がします。そのなかで出会えたさまざまな人たちとの交流が、僕にとっては宝でした。 “本当にありがとう”。 僕はボクシングにそう言いたいですね。 日本のアクションディレクター、コーディネーター、ボクシングコーチ。山形県酒田市出身。 山形県立酒田東高等学校卒業。大学中退。高校でボクシングを始め、ソウルオリンピックを目指したが、怪我のため引退。 映画監督を志し松竹シナリオ研究所入所。松竹大船撮影所等で映画・テレビドラマ、野村芳太郎監督の戦争ドキュメンタリー作品、七人のおたくなどの助監督を務めた。その後ボクサーの経験を生かし、ボクシングコーチ、アクションディレクターとなる。映画・テレビ・CM・舞台等でボクシングやアクション指導をしながら、プライベートレッスン専門で梅津ボクシング倶楽部を主宰し、ダイエット指導等も行っていた。 男子では瀬川設男・西澤ヨシノリ・大曲輝斉・杉田竜平・柴田明雄・内山高志らのチーフトレーナー...

チェスター・ベニントンさんの残した遺言【ミュージシャン】1976年3月20日~2017年7月20日

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「私の子供たちの母親や保護者は、子供たちが定期的に継続的にお互いや私の配偶者の大家族を訪問することを後押しし、承認してほしい。子供たちが大きく、愛に溢れた家族の存在を知ることができるように」 (遺言) アメリカ合衆国の歌手。ロックバンド・リンキン・パークのボーカリストで、ストーン・テンプル・パイロッツの元ボーカリストでもある。 2000年代初頭の驚異的な成功にも関わらず、ベニントンはステージの外では多くの問題を抱えていた。もともと彼は病弱で、2001年のオズフェストの最中にドクイトグモに腕を噛まれてしまった。アルバム『メテオラ』の製作中にも健康に悩まされた。2003年夏には病気に倒れた。2007年10月にはメルボルンでのステージで舞台に飛び乗ろうとした時に手首に怪我を負ったが、演奏を続け、終了後すぐに救急救命室に運び込まれた。 驚異的なシャウトと、バラードでの魅力的な声が特徴だが、どうすればそのような声が出せるのかというインタビュアーの質問に対しては、「何でこんな声が出せるのか、自分でもよくわからない」と答えている。

相澤秀禎さんの残した遺言【サンミュージックプロダクションの創業者】1930年1月20日~2013年5月23日

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遺言 皆さん、日々のお仕事お疲れ様です。 皆さんには僕の病気治療で大変心配をかけました。とても申し訳なく思っています。 一日でも早く健康を取り戻し、また皆さんと一緒に仕事をしたいと治療に専念してきましたが、難しくなりました。 サンミュージックがスタートしてから46年間、今まで本当にたくさんのタレントさん、社員の皆さんに助けてもらい、今日までやってくることができました。 いろんな事がありましたが、全ての事がとても素敵な思い出になっています。 一人一人に会ってお礼を言いたかったのですが、それも叶わないようです。 皆さんと一緒に仕事ができたことは幸せでした。皆さんのおかげで楽しく素晴らしい人生を送ることができました。感謝しきれません。本当にありがとうございました。 僕がいなくなっても皆さんがサンミュージックを盛り立てていってくれる事をわかっているので安心しています。相澤正久社長、タレントの皆さん、社員の皆さんが一つになり、これからもサンミュージックの一員として、力を合わせて頑張って欲しいと願っています。皆さんはこの先もずっと僕の大事な家族です。皆さんの活躍をこれからも見守っていますね。 皆さんと出会えて一緒に仕事ができ本当に幸せでした。皆さん、ありがとう! 平成25年5月 サンミュージックグループ 会長 相澤秀禎  日本の実業家、芸能プロモーター。で初代社長。本名は相澤芳郎。自伝によれば姓名判断で上記の通称に改めたという。

車谷長吉さんの残した遺言【直木賞作家】1945年7月1日~2015年5月17日

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「私の遺体・遺物・遺産は、私の死後、誰もこれを継承・使用してはならない。遺物・遺産は凡て、これをゴミとして焼却すること。 人は俗物としていきながら、俗物でしかない自分を俯瞰する包越の視点を持たなければならない。」 (遺言状) 日本の作家、随筆家、俳人。本名、車谷 嘉彦。出生時は「くるまたに」だったが、祖父の一存で「しゃたに」と役所に登録されていた時期が長く、2007年、正式に「くるまたに」に戻した。筆名の「長吉」は唐代の詩人李賀にちなむ。妻は詩人の高橋順子、2017年に回想記『夫・車谷長吉』を刊行した。 兵庫県飾磨市出身。

大久保利通さんの残した遺言【維新の三傑】1830年9月26日~1878年5月14日

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済世遺言 維新の盛意を貫徹せんには三十年を期するの素志なり 明治元年から十年までは「兵事多くして則ち創業時間」たる第一期、明治十一年から二十年までは「尤(もっと)も肝要なる時間にして内治を整い民産を殖する」第二期、明治二十一年から三十年を「後進賢者の継承を修飾するを待つ」第三期。 日本の武士、政治家。位階勲等は贈従一位勲一等。 明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。また「維新の十傑」の1人でもある。 初代内務卿を務めるなど、内閣制度発足前の明治政界のリーダーであった。

山本功児さんの残した遺言【プロ野球選手】1951年12月25日~2016年4月23日

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「厳しくやってくれ。」 (横浜DeNA・高田繁GMへ息子を託す遺言) プロ野球選手・監督。ポジションは一塁手、外野手。左投げ左打ち。大阪府堺市出身。同じく元プロ野球選手の山本武白志は長男。

黒田官兵衛さんの残した遺言【戦国武将】1546年12月22日~1604年4月19日

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遺言 自分の死骸を博多の神父の所へ持ち運ぶこと 息子の長政が領内において神父たちに好意を寄せること。 イエズス会に2,000タエス(約320石に相当)を与え、うち1,000タエスを長崎の管区長に、1,000タエスを博多に教会を建てるための建築資金に充てること。 戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。 諱は初め祐隆、孝隆、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛、あるいは剃髪後の号をとった黒田 如水として広く知られる。

河島英五さんの残した遺言【シンガーソングライター】1952年4月23日~2001年4月16日

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「自分の思いだけでなく、人の誰かの思いを表現することも大事やぞ」 (娘へ) (遺言) 日本のシンガーソングライター、俳優。大阪府東大阪市出身。長女・河島あみるはタレント、次女・亜奈睦、長男・翔馬は歌手。公称身長184cm。

左とん平さんの残した遺言【俳優】1937年5月30日~2018年2月24日

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「俺が死んだら葬式はとことん盛大にやってくれ。」 (遺言) 日本の俳優・歌手・タレント。東京市王子区出身。しまだプロダクション所属。世田谷学園高校卒業。

ウンベルト・エーコさんの残した遺言【小説家】1932年1月5日~2016年2月19日

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「今後10年間は自分に関する学会を開催しないように。」 (遺言) イタリアの小説家、エッセイスト、文芸評論家、哲学者、記号学者。イタリア共和国功労勲章受章者。1980年に発表された画期的歴史小説『薔薇の名前』の著者として最もよく知られる。同作品はフィクションの記号論的分析、聖書分析、中世研究、文学理論の要素を盛り込んだ知的ミステリーである。

ヘンリック王配の残した遺言【デンマーク女王マルグレーテ2世の王配】1934年6月11日~2018年2月13日

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「妻の隣には埋葬しないでほしい」 (遺言) デンマーク女王マルグレーテ2世の王配。結婚前はフランスの外交官で、名前はアンリ・マリ・ジャン・アンドレ・ド・ラボルド・ド・モンペザ だった。

星野仙一さんの残した遺言【野球】 1947年1月22日~2018年1月4日

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「ここに来ると野球ファンというより中日ファンに小言を言いたいなと。こんなに(ファンで)いっぱいのナゴヤドームは最近、見たことがない。もっともっとドラゴンズを応援して下さい。甲子園も、仙台のコボスタもいつも満員ですよ。ここだけガラガラ。皆さん、ドラゴンズを応援してあげて下さい」 中日ファンへの遺言 日本のプロ野球選手・監督、野球解説者、タレント。 岡山県児島郡福田町出身。選手時代のポジションは投手。中日ドラゴンズ・阪神タイガース・東北楽天ゴールデンイーグルス監督を務めた。2008年には北京オリンピック野球日本代表の監督も務めた。2015年より死去まで株式会社楽天野球団取締役副会長を務めた。