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内海桂子さんの残した言葉【漫才界の大御所】1922年9月12日~2020年8月22日

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「将来に不安?そんな暇があったら動きなさいよ。人は動けば金になる。」 「人って、自分が置かれた境遇を嘆いたり、泣きごとを言ったり、ふてくされたりするけど、そんな暇ないのよ。生きていくためには仕事して稼がないといけないし、仕事は人に教えられるものでもない。まわりの人の様子を見ながら憶えて、頭を働かせる。(一緒に働く)彼らを見てれば、次に何をしなきゃいけないかは、わかるもの。」 「どんなところでも、自分の意志であろうがなかろうが、そこに雇われたからには、役に立たないと居づらくなる。」 「泣きごとを言う暇があったら、まず動いてみる。そうすると、何か新しいことが起こるものよ。」 「小学3年の時に東京・神田にあるおソバ屋さんに奉公に出ました。以来80年、私は自分でお金を稼いできました。学問なし、師匠なし。世間様のこと、芸のこと、お金のこと、すべて見よう見まねで勉強してきました。人が失敗すれば、気をつける。人がうまくいけば、より良いものをと工夫する。私、怒られるのが大嫌いだったから、周りを見てきたんです。」 「今も浅草で都々逸などを披露しています。ゲストの方と漫才をやることもあります。同じネタでも全く違う雰囲気になるし、相手を思う心ひとつで、最高にも、最悪にもなる。それが芸も人生も、面白いところね。」 「相方の好江ちゃんとギクシャクしていたとき、マセキ芸能社の社長とリーガル万吉師匠が『時の氏神様』になってくれ、仲を取り持ってくれたんです。そこで『コンビ永続法』を教えてもらいました。その中に『相手の立場でまず動く』という言葉がありました。相手のことを見て配慮して、先回りして動いてあげる……。確かに、それぐらいでちょうどいいのよ。舞台ではお客様の様子を見て、相方を考える。あたしと相方とお客様。三角形で話すのが漫才。最近の子はお客様を無視して2人で話しているのは困るわね。」 「好江ちゃんとコンビを組んだとき最初は相当きつく当たりました。そのとき彼女は何もできなかったので、『ばか』とか『間抜け』とか言いました。でも、あたしゃ江戸っ子だから、そう言っても『こうだからダメなんだよ』とちゃんと理由も説明しましたよ。」 「これまで10人以上と漫才をしてきたけど、一番長かったのが好江ちゃん。彼女とコンビを組んだのは、終戦から5年たった1950...

夢路いとし さんの残した言葉【いとし・こいし】1925年3月27日~2003年9月25日

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「二番手三番手のつもりでやってきたのが長くやれたコツ」 実弟である相方・喜味こいしとのしゃべくり漫才コンビ夢路いとし・喜味こいしで上方演芸界にその名を知られる漫才師である。本名、篠原 博信。

新山ひでや さんの残した言葉【漫才師】1945年12月25日~2019年8月23日

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「最高最幸!」 プロモーション・ススム、漫才協会、落語芸術協会所属の夫婦漫才師、新山ひでや・やすこ のメンバー。 新山ひでや・えつやで民謡を取り入れた漫才で活躍していたが、1993年、突然えつやが脳血栓に倒れ、急遽妻のやすことコンビを組む。やすこと組んだ際のネタは主に替え歌や川柳を織り交ぜた漫才である。 そのコンビ誕生の経緯から、「漫才一筋の夫を支え献身愛 初舞台秘話」「主婦が突然漫才師」「人情夫婦漫才」などのタイトルでドキュメンタリー番組で採り上げられた。

鳳啓助さんの残した言葉【漫才師】1923年3月16日~1994年8月8日

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「わー大きな口に吸い込まれるぅ」 日本の俳優・漫才師。大阪府大阪市出身。 父は剣戟俳優の梅林良雄で、3歳の時に祖父の劇団で子役デビュー、1956年に自ら座付き作家を務めた「瀬川信子一座」の一員だった京唄子と出逢い、漫才コンビ「唄子・啓助」を結成。お馴染みの挨拶である「エーッ、鳳啓助でございます」や「ポテチン」「あら、言いそこ間違いよ」「君の事は忘れようにも思いだせない」などのギャグで人気を博した。その後、唄子と結婚するが、1964年に離婚後もコンビとしての活動を続け、「唄啓劇団」を旗揚げした。 その後、2度の結婚、「志織慶太」の名で脚本家としても活動。漫才師の活動以外では、俳優として多数の映画に出演。テレビでは『唄子・啓助のおもろい夫婦』の司会や、『お笑いスター誕生!!』に審査員として出演。特に『おもろい夫婦』では唄子との丁々発止の言葉のやり取りが番組の人気を博し名物となった。

星セントさんの残した言葉【漫才師】1948年1月16日~2004年7月22日

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「田園調布に家が建つ」 日本の漫才師。本名、村山 袈娑夫。1970年代に一世を風靡した漫才コンビ「星セント・ルイス」の1人。

今いくよ さんの残した言葉【漫才師】1947年12月3日~2015年5月28日

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「スポーツは勝ち負けがはっきり分かるけど、芸能は点数つかへんでしょ。それがおもしろいけど、怖いところでもあるわね。」 「ドロドロになってやってた姿知ってるし、ええ格好しても仕方ない。心をさらけ出して付き合えるのがいいんちゃう?」 今いくよさんは、京都市出身で、高校卒業後、会社勤務を経て、1970年に高校の同級生だった今くるよさんとともに女性漫才師の今喜多代さんに弟子入り。73年、女性漫才コンビ「今いくよ・くるよ」を結成した。男性中心の漫才界で、お互いの体型や派手なファッションなどをネタにし、体を張ったギャグや軽妙な掛け合いで人気を集め、80年代の漫才ブームに乗って一世を風靡(ふうび)した。1984 年上方漫才大賞の大賞など多くの賞を受賞し、女流漫才のパイオニアとしてテレビや舞台などで活躍、長年にわたって幅広い人気を集めた。

今いくよ さんの残した最後の言葉【漫才師】1947年12月3日~2015年5月28日

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「くるよちゃん、100歳まで一緒に漫才しよな。」 (相方へ) (最後の言葉) 今いくよさんは、京都市出身で、高校卒業後、会社勤務を経て、1970年に高校の同級生だった今くるよさんとともに女性漫才師の今喜多代さんに弟子入り。73年、女性漫才コンビ「今いくよ・くるよ」を結成した。男性中心の漫才界で、お互いの体型や派手なファッションなどをネタにし、体を張ったギャグや軽妙な掛け合いで人気を集め、80年代の漫才ブームに乗って一世を風靡(ふうび)した。1984 年上方漫才大賞の大賞など多くの賞を受賞し、女流漫才のパイオニアとしてテレビや舞台などで活躍、長年にわたって幅広い人気を集めた。

横山エンタツさんの残した最後の言葉【漫才師】1896年4月22日~1971年3月21日

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「もう要らん!」 (酒を戻したエンタツに、家人の「(酒を)持ってきましょうか?」と尋ねられ) (最後の言葉) 大正・昭和期の漫才師・俳優。本名:石田 正見。花菱アチャコとのコンビによって、それまでの「萬歳」に代わる現在の「しゃべくり漫才」のスタイルを発明し、今につながる漫才の形式の基礎を作った。漫才作家秋田實のよき相談者として上方漫才、喜劇の興隆に大きく貢献した。

喜味こいし さんの残した言葉【漫才師】1927年11月5日 ~2011年1月23日

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「戦争して何がのこるンや」 日本の漫才師、俳優。実兄の夢路いとしと共に漫才コンビ夢路いとし・喜味こいし」のツッコミとして活躍した。本名、篠原 勲。