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ノーマン・ビンセント・ピールさんの残した言葉【ポジティブシンキング】1898年5月31日~1993年12月24日

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「今日できることを、わざわざ明日にのばすことがないようにすること。一つ一つは簡単な仕事、いつでもできる仕事であっても、それが積み重なると大変です。少しずつ片付けていけば、意外に多くのことができるものです。」 「何か間違ったことから成功を引き出そうとしてはならない。その考え方が道徳的にも精神的にも倫理的にも正しいかどうかを確かめなさい。間違ったことから正しい結果を導き出すことは絶対に不可能である。」 「何事も受け入れることを身につけるのです。天からどんな恵みがもたらされるかを考えず、どんな恵みでも受け入れる気持ちをもって、信じて待つことです。」 「祈りで何が大切かというと、それはまず『信じること』である。信じることはむずかしい。疑うのは簡単だ。誰にだってできる。頭をつかう必要もないし、修練が必要なわけでもない。でも疑いを捨てて信じるには、強い意志と気力が必要だ。それができたとき、祈りは通じる。」 「常に『今』何をなすべきかを考えよ。『今』生きている幸せ、自分が好きな事柄を自分の資産として計上せよ。すると、貴重な時間を一刻も無駄にするわけにはいかないことがわかるだろう。」 「もしもあなた方が進んで努力をするならば、あなた方自身が変化し、人望のある、人に好かれ尊敬される人間に必ずなれるものである。」 「なによりも、幸福であることを恐れないようにしよう。美しいものを喜び、愛そう。愛する人びと、また、あなたを愛してくれる人々を信じることを恐れないようにしよう。」 「自分のことよりも大きなことに自分を投入すればするほど,ますます多くの力を得るようになる。」 「自信を深めようと思うなら、忘れてはならない二つの大切な考えがある。第一は、自分はこのような人間であると考えていることと、実際にあなたがどんな人間かということは、つねに一致しているということである。第二は、あなたは、もてる能力をまだ十分に発揮しきっていないということだ。」 「人は過去の苦しみから逃れて生きる権利をもっています。」 「私たちは何かを決めるときに人に相談しますが、一番頼れる相談相手は、実は自分自身なのです。私たちの奥深くの”頭の声"は、いつでも相談に乗ってくれるでしょう。」 「もしもあなたが実際に自分自身の能力を認識するならば、あな

三船敏郎さんの残した言葉【世界のミフネ】1920年4月1日~1997年12月24日

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「スターになったって、挨拶も出来ないようじゃしょうがないでしょ。」 日本の俳優・映画監督・映画プロデューサー。本名は同じ。 中国・青島市の生まれで、軍隊生活を送った後、1947年に東宝ニューフェイス第1期生として入社し『銀嶺の果て』で映画デビューした。 翌年の『醉いどれ天使』から黒澤明とコンビを組んで『羅生門』『七人の侍』『蜘蛛巣城』『用心棒』など計15本に主演したほか、岡本喜八監督『日本のいちばん長い日』、熊井啓監督『黒部の太陽』や、墨映画『価値ある男』、米映画『グラン・プリ』、『太平洋の地獄』、米ドラマ『将軍 SHOGUN』、仏映画『レッド・サン』といった海外映画にも多く出演した。黒澤が世界的な監督になるとともに、三船も国際的なスターとなり、日本では世界のミフネ、英語圏では、The WolfやThe Shogunなどと呼ばれ、世界中の映画関係者に影響を与えた。 栄典及び称号に、芸術選奨・勲三等瑞宝章・紫綬褒章・川喜多賞・芸術文化勲章・ロサンゼルス市名誉市民・カリフォルニア大学ロサンゼルス校名誉学位。1961年と1965年にヴェネツィア国際映画祭 男優賞を受賞した。 元俳優で映画プロデューサーの三船史郎は本妻との、タレントの三船美佳は内縁の妻との間にもうけた子供。

入川保則さんの残した最後の言葉【俳優】1939年11月10日~2011年12月24日

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「きょう集まりくださり、ありがとうございます。それでは、私は逝ってまいります」 (葬儀の参列者へ生前に吹き込まれたメッセージ) (最後のメッセージ) 「ありがとう」 (長男へ) (最後の言葉) 日本の俳優、司会者、声優、ナレーター、タレント。 学生時代から俳優活動を在阪のテレビにて開始。数年後に活躍の場を広げるために上京した。現代劇と時代劇の両方で、主に脇役として活躍。刑事ドラマや時代劇の悪役、男性的な役どころが多かったが、喜劇的な役も洒脱(しゃだつ)にこなしていた。初期と中期は地元関西でのタレント・俳優活動が多かった。

国本武春さんの残した言葉【うなりやベベン】1960年11月1日~2015年12月24日

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「うなる門には 福来たる」 日本の浪曲師である。千葉県香取郡下総町出身。日本工学院専門学校演劇科卒業。父は天中軒龍月、母は国本晴美。日本浪曲協会所属。日本浪曲協会副会長であった。 浪曲師に曲師(三味線)が付くという従来型の浪曲にとどまらず、三味線の弾き語り(伝統的な浪曲では異端である)にギターのフレーズを取り入れた独自の奏法を開発し、ロック、R&B、ブルーグラスなど様々な音楽ジャンルで活動する。浪曲師として多くのCD・DVDを発表したほか、テレビドラマやバラエティ番組、アニメ番組での声優業など幅広い活動を見せた。 生前に「うなりやベベン」名義で出演していたNHK Eテレ『にほんごであそぼ』については「ご本人とご遺族の意向を尊重して『にほんごであそぼ』では、うなりやベベンは生き続けます」として、没後も国本の映像を使い続けることがアナウンスされた。

故人が残した名言集【12月24日】

国本武春さんの残した言葉【うなりやベベン】1960年11月1日~2015年12月24日 「うなる門には 福来たる」 日本の浪曲師である。千葉県香取郡下総町出身。日本工学院専門学校演劇科卒業。 父は天中軒龍月、母は国本晴美。日本浪曲協会所属。日本浪曲協会副会長であった。 浪曲師に曲師(三味線)が付くという従来型の浪曲にとどまらず、三味線の弾き語り(伝統的な浪曲では異端である)にギターのフレーズを取り入れた独自の奏法を開発し、ロック、R&B、ブルーグラスなど様々な音楽ジャンルで活動する。 生前に「うなりやベベン」名義で出演していたNHK Eテレ『にほんごであそぼ』については「ご本人とご遺族の意向を尊重して『にほんごであそぼ』では、うなりやベベンは生き続けます」として、没後も国本の映像を使い続けることがアナウンスされた。 入川保則さんの残した最後の言葉【俳優】1939年11月10日~2011年12月24日 「きょう集まりくださり、ありがとうございます。それでは、私は逝ってまいります」 (葬儀の参列者へ生前に吹き込まれたメッセージ) (最後のメッセージ) 「ありがとう」 (長男へ) (最後の言葉) 日本の俳優、司会者、声優、ナレーター、タレント。 学生時代から俳優活動を在阪のテレビにて開始。数年後に活躍の場を広げるために上京した。 現代劇と時代劇の両方で、主に脇役として活躍。刑事ドラマや時代劇の悪役、男性的な役どころが多かったが、喜劇的な役も洒脱(しゃだつ)にこなしていた。初期と中期は地元関西でのタレント・俳優活動が多かった。 三船敏郎さんの残した言葉【世界のミフネ】1920年4月1日~1997年12月24日 「スターになったって、挨拶も出来ないようじゃしょうがないでしょ。」 日本の俳優・映画監督・映画プロデューサー。本名は同じ。 中国・青島市の生まれで、軍隊生活を送った後、1947年に東宝ニューフェイス第1期生として入社し『銀嶺の果て』で映画デビューした。 翌年の『醉いどれ天使』から黒澤明とコンビを組んで『羅生門』『七人の侍』『蜘蛛巣城』『用心棒』など計15本に主演したほか、岡本喜八監督『日本のいちばん長い日』、熊井啓監督『黒部の太陽』や、墨映画『価値ある男』、米映画『グラン・プリ