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伊藤博文さんの残した言葉【初代内閣総理大臣】1841年10月16日~1909年10月26日

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「大いに屈する人を恐れよ、いかに剛にみゆるとも、言動に余裕と味のない人は大事をなすにたらぬ。」 「本当の愛国心とか勇気とかいうものは、肩をそびやかしたり、目を怒らしたりするようなものではない。」 「国の安危存亡に関係する外交を軽々しく論じ去つて、何でも意の如く出来るが如くに思ふのは、多くは実験のない人の空論である。」 「いやしくも天下に一事一物を成し遂げようとすれば、命懸けのことは始終ある。依頼心を起こしてはならぬ。自力でやれ。」 「今日の学問はすべて皆、実学である。昔の学問は十中八九までは虚学である。」 「お前に何でも俺の志を継げよと無理は言はぬ。持って生まれた天分ならば、たとえお前が乞食になったとて、俺は決して悲しまぬ。金持ちになったとて、喜びもせぬ。」 「たとえここ(英国)で学問をして業が成っても、自分の生国が亡びては何の為になるか。」 「われわれに歴史は無い。我々の歴史は、今ここからはじまる。」 「私の言うことが間違っていたら、それは間違いだと徹底的に追及せよ。君らの言うことがわからなければ、私も君らを徹底的に攻撃する。互いに攻撃し議論するのは、憲法を完全なものにするためである。くり返すが、長官だの秘書官だのという意識は一切かなぐり捨てて、討論・議論を究めて完全なる憲法をつくろうではないか。」 「現在の日本は地平線から出たばかりの太陽である。暁の雲から出たばかりの太陽は光が弱く、色も薄い。だが、その太陽はやがて中天までくると、全天に輝きわたる。これと同じように、日本もまもなく世界に雄飛し、日の丸の旗は尊敬の念を持って世界の人々から見られるようになるだろう。」 「誰が撃ったのか。森(秘書官)も撃たれたのか。」 日本の武士、政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。 諱は博文。幼名は利助、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔とし、さらに春輔と改名した。号は春畝で、春畝公と表記されることも多い。また小田原の別邸・滄浪閣を所持していたことから滄浪閣主人を称して落款としても用いた。 周防国出身。

伴淳三郎さんの残した言葉【バンジュン】1908年1月10日~1981年10月26日

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「若いうちにうんと貧乏を味わいなさい。そして苦しみなさい。悩みなさい。」 昭和期のコメディアン、俳優。息子はスタイリストの山本康一郎。愛称は「バンジュン」。 1951年頃から当時同棲中の清川虹子の仲介により新東宝の斎藤寅次郎監督の一家に入って、本格的に映画に復帰する。1951年、斎藤寅次郎監督、高田浩吉主演の『吃七捕物帖・一番手柄』に出演した折、「アジャジャーにしてパーでございます」が大ウケし、それを短くした「アジャパー」が大流行。 1953年には、主役映画『アジャパー天国』が斎藤寅次郎監督で作られるにいたり、「バンジュン」の愛称で主演映画が次々と封切られる売れっ子スターとなる。

桑名正博さんの残した言葉【ミュージシャン】1953年8月7日~2012年10月26日

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「人類の最終兵器、それはあんたの心やで!!」 日本のミュージシャン・俳優、実業家。 その荒っぽい言動や、不祥事による逮捕で騒がれたことがあることから破天荒なイメージが先行しているが、実際には行動的な社会活動家として多くの足跡を残しており、障害のある子供への支援事業や、海外の戦地の子供たちへの支援活動やチャリティー或いは捨て犬の里親探しの財団を設立するといった地道な活動を約20年に渡ってコツコツと続けていた。晩年の音楽活動は社会貢献活動のために行っている傾向が強かった。本人のシャイな性格に加え、売名行為と中傷されることを嫌って社会活動を行っていることを積極的にアピールすることはなかったものの、生前の桑名のその姿勢や活動に賛同した西城秀樹、松本孝弘、河村隆一など多数の歌手仲間や芸能人が桑名のチャリティー活動に協力していた。

赤瀬川原平さんの残した言葉【前衛美術家】1937年3月27日~2014年10月26日

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「アキラメというのは人生的なものである。体験に基づくというか、体験の集積というか、いずれにしろ体に発するというか、体からじわりと湧き出る。それにひきかえ、シラケというのは、体験からのものとは違う。じーっと頭で考えさせられて、右も駄目、左も駄目、上に行ってもしょうがない、やる気がしない、シラける、というものではないのかな。」 「イエスとノーのあいだに真実が息づいている。」 「そもそも老人力とは、転んでもただでは起きない力のことである。というか、そもそも老人とは、人が間断なくゆっくりと転んでいく状態のことなのである。気がつけば少しずつ転んでいくのは人生の常。例外はない。時期のずれや度合いの違いはあるにしても、人類の全員がゆるゆると、やんわりと、気がつけば転んでいる状態なのだ。」 「ふつうは歳をとったとかモーロクしたとかあいつもだいぶボケたとかいうんだけど、そういう言葉の代わりに『あいつもかなり老人力がついてきたな』というふうにいうのである。そうすると何だか歳をとることに積極性が出てきてなかなかいい。」 「アバウトは健康にいい。」 「なるほどそうだったのかと思えるのが死の瞬間」 日本の前衛美術家、随筆家、作家。本名、赤瀬川克彦。純文学作家としては尾辻 克彦というペンネームがある。神奈川県横浜市中区本牧町生まれ。愛知県立旭丘高等学校美術科卒業。武蔵野美術学校油絵学科中退。 兄は直木賞作家の赤瀬川隼。姉の赤瀬川晴子は帽子作家。また、外交官の西春彦は父のいとこにあたる。

毛利子来さんの残した言葉【たぬき先生】1929年11月27日~2017年10月26日

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「生命とは身体だけではない。その人の存在がまわりの人々にどう思われているか。歴史の人もそうでしょ。」 「病気が一番治らないのは安静にすること。70過ぎたら健康診断はいらない。」 「子供は楽しくなると元気になる。」 「子供は、身体や気持ちを素直に表現する。でも大人はウソをつく。」 「よい親でなくとも子は育つ」 日本の小児科医。子供・障害児に関する著書を多数刊行している。 千葉県生まれ。父は内科医、名前は、詩経の中の「霊台」の箇所に出てくる成語から取られたもの。帝が民の楽しみのために霊台の建設を企てて呼びかけたところ、女子どもまでもがやってきたというくだりから取られたもので、「子どももやって来る」の意。ふつう、「子来」を「たねき」と読んでもらえないので、自ら「たぬき先生」と称している。父親は第二次世界大戦の終了3日前に戦場で拳銃自決。戦時中、岡山県の母方の祖父母に預けられるが、祖父は病死し、祖母も重症の火傷。苦労して、岡山医科大学(現・岡山大学医学部)を卒業。医師になってからは、大阪の社会的に底辺にある人たちの診療所などで勤務。そうした診療所の看護婦をしていた女性と結婚。その後東京に移り、原宿で小児科医院を開業。 幼児・子どもの見方、援助の仕方などについての世間の考え方を正し、そのための啓蒙に力を注ぐ。同様の活動に殉じたヤヌシュ・コルチャックを尊敬しており、NHK・BS「わが心の旅」という番組で、1996年コルチャック先生の足跡を追って、ポーランド、ワルシャワを訪れた彼の旅の記録が放送された。雑誌「小さい・おおきい・よわい・つよい」(ジャパンマシニスト社)の編集者代表、「ワクチントーク・全国」のアドバイザー的存在でもある。友人で、同様の活動を展開している人物に山田真がいる。1987年、『ひとりひとりのお産と育児の本』で毎日出版文化賞受賞。 ルソーの『エミール』に倣った『新エミール』と、その続編で小説仕立ての『エミールとソフィ』なども書いている。

篠沢秀夫さんの残した言葉【フランス文学者】1933年6月6日~2017年10月26日

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「実務時代にはコツコツと毎日というやりかたはできませんでした。今は毎日同じ仕事を少しずつ」 「今ある姿を楽しむ古代の心に達しました。かくすことはない」 「『遊び』の語源は、漢字にすれば『足霊』となる表現だと聞いた。足を使って、この世とあの世を行ったり来たりすることなのだ。古代の心は奥床しい。」 日本のフランス文学者。学習院大学名誉教授。東京都中央区銀座出身。血液型はAB型。趣味は乗馬。 大学生時代から俳優の児玉清と親交が深く、元々は自分も役者志望だったことがあった。しかし児玉に比べて自分は見劣りし、ブロマイドが売れないとして役者にはなれないと思い、学者になったと言う。

故人が残した名言集【10月26日】

篠沢秀夫さんの残した言葉【フランス文学者】1933年6月6日~2017年10月26日 「実務時代にはコツコツと毎日というやりかたはできませんでした。今は毎日同じ仕事を少しずつ」 「今ある姿を楽しむ古代の心に達しました。かくすことはない」 「『遊び』の語源は、漢字にすれば『足霊』となる表現だと聞いた。足を使って、この世とあの世を行ったり来たりすることなのだ。古代の心は奥床しい。」 日本のフランス文学者。学習院大学名誉教授。東京都中央区銀座出身。血液型はAB型。趣味は乗馬。 大学生時代から俳優の児玉清と親交が深く、元々は自分も役者志望だったことがあった。しかし児玉に比べて自分は見劣りし、ブロマイドが売れないとして役者にはなれないと思い、学者になったと言う。 毛利子来さんの残した言葉【たぬき先生】1929年11月27日~2017年10月26日 「生命とは身体だけではない。その人の存在がまわりの人々にどう思われているか。歴史の人もそうでしょ。」 「病気が一番治らないのは安静にすること。70過ぎたら健康診断はいらない。」 「子供は楽しくなると元気になる。」 「子供は、身体や気持ちを素直に表現する。でも大人はウソをつく。」 「よい親でなくとも子は育つ」 日本の小児科医。子供・障害児に関する著書を多数刊行している。 千葉県生まれ。父は内科医、名前は、詩経の中の「霊台」の箇所に出てくる成語から取られたもの。帝が民の楽しみのために霊台の建設を企てて呼びかけたところ、女子どもまでもがやってきたというくだりから取られたもので、「子どももやって来る」の意。ふつう、「子来」を「たねき」と読んでもらえないので、自ら「たぬき先生」と称している。 赤瀬川原平さんの残した言葉【前衛美術家】1937年3月27日~2014年10月26日 「アキラメというのは人生的なものである。体験に基づくというか、体験の集積というか、いずれにしろ体に発するというか、体からじわりと湧き出る。それにひきかえ、シラケというのは、体験からのものとは違う。じーっと頭で考えさせられて、右も駄目、左も駄目、上に行ってもしょうがない、やる気がしない、シラける、というものではないのかな。」 「イエスとノーのあいだに真実が息づいている。」 「そもそも老人力とは、転んでもただでは起きない力のことで