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ショーン・コネリーさんの残した言葉【初代ジェームズ・ボンド】1930年8月25日~2020年10月31日

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「常に真実を話さなくちゃならない。 なぜなら真実を話せば、あとは相手の問題になる。」  スコットランド出身の元映画俳優。『007』シリーズの初代ジェームズ・ボンド役で有名。公称身長188cm。

デンゼル・ワシントンさんの残した言葉【俳優】1954年12月28日~

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「Success? I don’t know what that word means. I’m happy. But success, that goes back to what in somebody’s eyes success means. For me, success is inner peace. That’s a good day for me.」 (成功?その言葉の意味がわかりません。私は満足しています。しかし、成功とは、人によって意味合いが違います。私にとって、成功は心の平安です。今日は良い日だ。) 「世の中に変化をもたらす事を熱望して下さい。」 「その願望が良いものであるならば叶えられます。」 「心の底にある願望、何かをしたいと思う気持ち、人の為、成長の為、生活していく為に何かしたいと思う願望、それは既にあなたのものであると示す為の、予め神から送られた証拠であります。」 「どれだけのお金を稼ごうと、死後それを持っていくことはできないのです。」 「行ったという『動作』と前に進んだという『進歩』は混同しやすいものです。」 「成功者達は皆、大変な努力をしています。」 「計画なくして成功なし。」 「枠に捉われるな。」 「失敗を恐れるな。」 「情熱を持てることをして下さい。」 「あなたの物になる全てに前もってお礼を言ってください。 」 「励み続け、目標を持ち続け進歩し続けてください。」 「目標を達成する為には自制と一貫性が必要です。」 「夢を持ってください。併せて目標も持ってください。」 「人生は一度きり。」 「私は守られ、導かれ、正されました。」 「全ては神からの恵みであります。」 「何をするにも神を一番に。」 「神を一番にしなさい。」 アメリカ合衆国ニューヨーク州マウントバーノン出身の俳優、映画監督、映画プロデューサー。これまでに2回アカデミー賞に輝いているほか、ベルリン国際映画祭でも2度の男優賞を受賞、さらに舞台では、トニー賞演劇主演男優賞を受賞している。

ダックス・シェパードさんの残した言葉【俳優】1975年1月2日 ~

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「Success is just a war of attrition. Sure, there’s an element of talent you should probably possess. But if you just stick around long enough, eventually something is going to happen.」 (成功は消耗の戦いにすぎません。もちろん、才能も必要です。しかし、十分に長く続けることで何かが起こるでしょう。) アメリカ合衆国の俳優。 ミシガン州ミルフォード出身。カリフォルニア大学ロサンゼルス校で学んだ。

渡哲也さんの残した言葉【西部警察】1941年12月28日~2020年8月10日

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「耐えることが人生。」 「お前怒るなよな。見舞いには花が相場なんだがあいにくないんでな。少ないけどこれ取っとけ。」 (共演していた苅谷氏の夫人が入院し、お金に困っているという話を聞き、撮影終了後に苅谷氏を呼び止めて、お金の入った封筒をさしだした時の言葉) 「お前、松竹梅はシャレできくけどな、お前になんでテツって呼ばれなくちゃいけねんだ。」 (番組で事前に「テツ」と言われたら本気で怒ってみせてほしいと頼まれた際に拒んでいたが、激怒した際の言葉) 「よくいえば人がいいといえるんでしょうけど、優柔不断、非常にダメ男ですよ。」 「いつも自分らしく生きたいと思っている。飾るのはいやだ。それで人との和が保てたら、最高だと思う。俺が最も大切にしているのは、人と人との関係だ。」 「ばあさんが過保護にしてるから、僕は厳しく育てようと思っています。しかし、男もガキができるとおしまいですよ。冒険できなくなるしね。」 (子育てについて) 「何を考えていたかって、みんなに聞かれますけど、僕はのん気ですからねぇ。人に迷惑をかけたことは辛かったですけど、僕自身はのんびりしてましたよ。」 (闘病生活について) 「今の日本映画のプロデューサーは、どんな映画を作って公開するかは二の次三の次。向こう1年間、映画館の空いたスケジュールを埋める事しか考えていない。明らかに、完成度の低いシナリオのままクランクインしている。」 「アクションと怪我は紙一重、やるっきゃありません。」 「アクション映画をやりたい、自分のキャラクターを活かしてくれるのは東映を置いて他にない。」 「当時だから実現できた。静岡駅前に、石原さん(石原裕次郎)がヘリコプターで降り立ってきた...本当なんですよ。(緊急時以外、市街地へ着陸)もう、許可が下りることは無いでしょう。」 (テレビシリーズ「西部警察」「大都会」の演出について) 「若い方々と一緒にお芝居をして、感じ合い、吸収し合えるものがあるといいなと思っています。」 「石原さん(石原裕次郎)が泣きながら語りかけてくるんですね。『弟のように思っていた。』というようなことを。当時を思うと、わたしも年齢的にちょうどいい頃で、各映画会社からいろいろな映画の誘いがあったんですね。ただこの西部警察があったこ

ジェームス・ディーンさんの残した最後の言葉【伝説の映画スター】1931年2月8日~1955年9月30日

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「まだまだ自分の何分の一も知っちゃいない。だから生きることにせっかちなのさ。」 (事故死一週間前に友人に言った言葉。) (最後の言葉) アメリカの俳優。身長170cm。ジミー・ディーンとも呼ばれる。代表作は「エデンの東」 ロサンゼルスの退役軍人病院に勤める歯科技工士の父ウィントン・ディーンと母ミルドレッド・ウィルソンのもとにインディアナ州マリオンで生まれる。しかし、父母は行きずりの恋から始まった婚前妊娠だったことから、父のウィントンは息子のジェームズの誕生を喜ばなかったという。反対に、父親に無視される事となったジェームズにミルドレッドは深い愛情を注いだという。ジェームズが9歳の時ミルドレッドが卵巣がんで亡くなると、ウィントンはフェアマウントで農場を営む姉夫婦に彼を預け、そこで育てられた。 高校時代から演劇に興味をもち、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の演劇科で学んだ。舞台やコマーシャルなどに出ていたが、更に俳優としてのキャリアを追い求めるために中退、ニューヨークに移った。そこで1950年代の『Kraft Television Theater』、『Danger』や『General Electric Theater』のようなテレビ番組の何編かに出演した。この頃よりジェームズはアンドレ・ジッドの『背徳者』に心酔してハリウッドへ行き、映画スターとなることを夢見るようになる。 『底抜け艦隊』等の映画の端役をいくつかこなした後、1955年に『エデンの東』のキャル・トラスク役で初めて主役を演じて認められた。彼はこの役でアカデミー賞の主演男優賞にノミネートされた。この後、続けざまにその年の『理由なき反抗』で主役を、『ジャイアンツ』で準主役を演じ、またもやアカデミー賞にノミネートされることになる。 『ジャイアンツ』の撮影終了1週間後の9月30日、ジェームズはサリナスで行われるレースに向かうために同乗者の自動車整備士ラルフ・ウッタリックと共に、愛車であるシルバーのポルシェ・550/1500RSでカリフォルニア州の州道を走行中、午後5時15分にショラム近郊にある州道46号線と41号線の東側の分岐点で、交差点を転回していたフォードに衝突した。ウッタリックは車外に投げ出されて骨折、フォードの運転手も軽傷で済んだが、ジェームズは首の骨を含む複雑骨折、

芥川比呂志さんの残した最後の言葉【劇団四季の名付け親】1920年3月20日~1981年10月25日

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「おまえはおれに遠慮してコーヒーを飲まないようだけど、飲んでいいんだよ。」 (コーヒーの大好きな彼であったが、肺結核と診断されて以来、30年間、健康のため1回も口にしなかった。奥さんも夫の前では、決してコーヒーを飲まなかったという。) (最後の言葉) 日本の俳優、演出家。 東京府東京市滝野川区田端出身。作家・芥川龍之介の長男。母は海軍少佐の塚本善五郎の娘・文。妻は、龍之介の次姉・ヒサの長女で、従姉にあたる芥川瑠璃子。

梅宮辰夫さんの残した言葉【辰兄】1938年3月11日~2019年12月12日

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「これは僕の持論だけど、もしもの時にはそれが自分の『寿命』だと受け入れた方がいい。そう考えれば、冷静に物事を判断できるようになるし、むしろ治療に専念する気持ちが湧いてくる。」 「医学のお蔭で僕は生き続けることができた。親父が医者だったことも影響していると思います。」 「信頼のおける医者の説明に耳を傾けて覚悟を決めたら、すべてを委ねる。」 「僕も俳優としての本分を全うしたい。無理かもしれないけど…、それこそが僕に与えられた最後の仕事。」 「僕の場合はまず、がんを踏み潰してやるといった気負いはなるべく持たない。」 「人工透析を30年、40年と続けている患者さんには本当に頭が下がる思いですよ。80歳まで人工透析をせずに生きてこられたことを、僕はありがたく思わなければならない。」 「僕が闘病について洗いざらい話すことで、正に今、がんに直面して悩み、傷つき、希望を失いかけている人やその家族にエールを送りたい。」 「人生で6度ものがんに打ち克って、この年齢まで生きてこられた。」 「正直なところ、自分の『がん』について語るのは気が進まなかった。」 「人間って二面性も三面性もあるのが当たり前。心で何を考えているかわからないのが人間ですよ。だからこそ悪役は人間らしいんじゃないですかね。」 「芸能界に入った頃はヤクザになりたいと思ってた(笑)~中略~ 55年も前のことなので勘弁してくださいね(笑)。」 「(高倉健さんについて)俳優と思って見ていない。兄さん、兄貴なんです。」 「帽子は似合わないんですよ、顔がデカいせいか。」 「アイツら(逝った仲間)の分も含め、頑張っていくしかない。」 「(松方)弘樹も含め、仲間が一人ずつ自分から去っていくのはこれは仕方がないことだよ。だけど精神的にはつらい。」 「昭和の映画俳優のプライドだけは捨てないで、通用しなくてもいいので、まだまだ昭和の俳優が生きているよと思われるぐらい、目障りでいたいと思います。」 「石原裕次郎や高倉健、菅原文太、それに松方弘樹…。どいつもこいつもみんな素敵な、魅力的な奴らばかりだったよ。」 「僕のいい加減さは直ってないが、今さら直す気持ちもない。」 「この人(松方弘樹)は自分と正反対。」 「俳優はCMに出演することじゃなく、芝居を見せるのが仕事。」 「俳優が俳優らしく生きられた昭和の芸能

三浦春馬さんの残した言葉【俳優】1990年4月5日~2020年7月18日

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「人と人との繋がりは、何にも変えられないものなので、そこは大切にしたいです。」 「後悔って、本当に返ってきませんから。やらないまま後悔することだけは絶対にやってはいけないことだと思っているんです。」 「新しいことへの挑戦って、すごくウキウキするじゃないですか!」 「日本に限らず世界中で、一人ひとり、感覚や感じ方だって全然違うわけじゃないですか。だから、ときにはその人の感覚が理解できなくても受け入れる、受け入れようと努力をすることが大切なんだよ、と伝えたい。」 「わからないことは虚勢を張らずに、積極的に聞いていけたらって思います。『頼る』ことを恥ずかしがらずに、しっかり助けをもとめられるような、そんな大人でいたいですね。」 「やはり最大の壁は自分自身だなと思います。それは、『思考の壁』かもしれないし、枠に捕らわれずに大きく考えることかもしれないし、それを破壊することかもしれません。何かに傾倒する時間があっても良いのかなとも思います。」 「少し疲れてしまったというときは...。壊れてしまったらおしまいなので、今は休むことやインプットすることがすごく大切なときなんだなって、僕は思います。」 「今まで当たり前のように俳優という仕事は自分の中にありましたし、僕にはこれしか出来ないと思っていました。」 「大変な時や自分が挫折しそうな時に、自分を支えてくれるのは人だと感じるんです。もちろん自分自身強くなりたいっていう気持ちもわかります。でも、仕事をするにしても、遊ぶにしても、全部人との関係性の中で成立することなので...。出会う人を大切にすることを心掛けていきたいと、最近特に思います。」 「僕の仕事は、なにかを発信していくこと。その肉付けとなる体験をどんどん増やしていきたい。」 「芝居を通じて、消防士や救急隊員、医療関係の人達の働いている『想い』だったりとか、どういう信念を持って仕事を進めているのかということもきちんと理解して、きちんと感じた上で仕事に、芝居で表現していけたら、人としても成長出来るのかなと思っています。」 「母親に昔からずっと言われ続けています。人に思いやりをもって接し、ずっと素直な子でいてほしいって。愛の根本にあるのは、そういう思いやりの心じゃないでしょうか。」 日本の俳優、歌手。茨城県

ミルトン・バールさんの残した言葉【ミスター・テレビジョン】1908年7月12日~2002年3月27日

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「If opportunity doesn’t knock, build a door.」 (誰にもノックされないのなら、新しいドアを作ろう。) 「I live to laugh, and I laugh to live.」 (私は笑うために生き、生きるために笑う。) 「We owe a lot to Thomas Edison if it wasn't for him, we'd be watching television by candlelight.」 (我々はトーマス・エジソンに負う所が大きい。もし彼がいなかったら、我々はロウソクの灯りでテレビを見ている事だろう。) アメリカ合衆国の俳優・コメディアンである。 1950年代にアメリカ国内の家庭にテレビが進出し始めると、バール自身も自身の持ち前の芸であるヴォードヴィルを武器にテレビ界へ進出したちまちお茶の間でも人気を博すようになっていく。後にはそのテレビでの活躍から「ミスター・テレビジョン」という異名も持ち、1950年にプライムタイム・エミー賞を受賞している。1960年に入ると、テレビや映画における俳優としてのキャリアも順調に重ねたほか、『おかしなおかしなおかしな世界』などのコメディ映画への出演で役者としての地位も確実なものにした。また、役者以外にも本人役でウディ・アレン監督の『ブロードウェイのダニー・ローズ』へ出演したり、ティム・バートン監督の『ピーウィーの大冒険』などへのカメオ出演もしている。

ジョン・ウェインさんの残した言葉【ウエスタン・ヒーロー】1907年5月26日~1979年6月11日

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「男には逃げ出すことが出来ないこともあるんだ。」 「Ugly, stubborn, but want to be proud.」 (醜く、頑固で、しかし誇り高くありたい。) アメリカの俳優、映画プロデューサー、映画監督。「デューク」の愛称で呼ばれた。本名はマリオン・ロバート・モリソン。

クリストファー・リーさんの残した言葉【ホラー界のレジェンド】1922年5月27日~2015年6月7日

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「世界一の俳優とは、私の個人的な考えでは、ジョニー・デップだ。彼は挑戦することを恐れない。彼は何事をも恐れないのだ。」 イギリス出身の映画俳優。怪奇映画の大スターとして名を馳せ、90歳を超えても生涯現役で活躍した名優である。 出演作は250本以上にも上り、世界で最も多くの映画に出演した俳優としてギネスブックに記載されている。

林隆三さんの残した言葉【俳優】1943年9月29日~2014年6月4日

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「感情を込めないと、我々役者は」 日本の俳優及びナレーター。女優の青木一子は元妻。女優・声優の林真里花は長女、元俳優の林征生は長男。岸宏一は従兄弟。東京都新宿区四谷生まれ。 1961年に立教高等学校(現・立教新座高等学校)を中退後、1963年俳優座の俳優養成所に入り(第15期生)、1966年に卒業。 「三期会」を経て、何本か端役でテレビドラマに出演した後、 1970年に木下恵介・人間の歌シリーズ『俄』に初主演。 平賀源内の青春時代を描いた『天下御免』のヒットにより人気を得る。 1974年には映画『妹』(藤田敏八監督)で秋吉久美子と共演し、その演技は注目を集める。1977年、津軽三味線の名手である高橋竹山の若き日を描いた『竹山ひとり旅』に、新藤兼人監督に請われて主演。その鬼気迫る演技で第1回日本アカデミー賞で主演男優賞を受賞。一躍スターと認められる。

内田勝正さんの残した言葉【水戸黄門】1944年9月19日~2020年1月31日

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「おぬしもワルよのう。」 日本の俳優。別名義:内田 昌宏。浪曼劇場、竹内事務所を経て、最後の所属事務所はエ・ネスト所属。既婚。千葉県野田市出身。 名悪役として、「水戸黄門」や「大岡越前」などで活躍した。

カーク・ダグラスさんの残した言葉【ハリウッドの伝説】1916年12月9日~2020年2月5日

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「生まれる時代を間違えた!わしがあと30歳若けりゃな。」 「多くのアメリカ人が家庭でこう言われて育ったに違いいない。ユダヤ人を差別するのは仕方のないことだ。国のしきたりなのだ。しかし私はその差別のおかげで頑張れた。人はしょせん、自分で自分の背中を押すしかないのだ。」 アメリカ合衆国の俳優、映画プロデューサー。 映画「スパルタカス」「OK牧場の決斗」などで知られる。俳優のマイケル・ダグラスは息子。

三船敏郎さんの残した言葉【世界のミフネ】1920年4月1日~1997年12月24日

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「スターになったって、挨拶も出来ないようじゃしょうがないでしょ。」 日本の俳優・映画監督・映画プロデューサー。本名は同じ。 中国・青島市の生まれで、軍隊生活を送った後、1947年に東宝ニューフェイス第1期生として入社し『銀嶺の果て』で映画デビューした。 翌年の『醉いどれ天使』から黒澤明とコンビを組んで『羅生門』『七人の侍』『蜘蛛巣城』『用心棒』など計15本に主演したほか、岡本喜八監督『日本のいちばん長い日』、熊井啓監督『黒部の太陽』や、墨映画『価値ある男』、米映画『グラン・プリ』、『太平洋の地獄』、米ドラマ『将軍 SHOGUN』、仏映画『レッド・サン』といった海外映画にも多く出演した。黒澤が世界的な監督になるとともに、三船も国際的なスターとなり、日本では世界のミフネ、英語圏では、The WolfやThe Shogunなどと呼ばれ、世界中の映画関係者に影響を与えた。 栄典及び称号に、芸術選奨・勲三等瑞宝章・紫綬褒章・川喜多賞・芸術文化勲章・ロサンゼルス市名誉市民・カリフォルニア大学ロサンゼルス校名誉学位。1961年と1965年にヴェネツィア国際映画祭 男優賞を受賞した。 元俳優で映画プロデューサーの三船史郎は本妻との、タレントの三船美佳は内縁の妻との間にもうけた子供。

入川保則さんの残した最後の言葉【俳優】1939年11月10日~2011年12月24日

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「きょう集まりくださり、ありがとうございます。それでは、私は逝ってまいります」 (葬儀の参列者へ生前に吹き込まれたメッセージ) (最後のメッセージ) 「ありがとう」 (長男へ) (最後の言葉) 日本の俳優、司会者、声優、ナレーター、タレント。 学生時代から俳優活動を在阪のテレビにて開始。数年後に活躍の場を広げるために上京した。現代劇と時代劇の両方で、主に脇役として活躍。刑事ドラマや時代劇の悪役、男性的な役どころが多かったが、喜劇的な役も洒脱(しゃだつ)にこなしていた。初期と中期は地元関西でのタレント・俳優活動が多かった。

川谷拓三さんの残した言葉【個性派俳優】1941年7月21日~1995年12月22日

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「ダイエットを継続できるような 強い心の持ち主は そもそもぶくぶく太らない」 日本の俳優である。本名:仁科 拓三。愛称は拓ボン。左利き。高知県安芸市出身。 大部屋俳優から上り詰め、昭和を中心に活躍した名優の一人。仁科貴は長男、仁科扶紀は長女、仁科熊彦は義父、岡島艶子は義母にあたる。大叔父に伊沢一郎がいる。 テレビ出演により、お茶の間で認知された当時は漫画の世界にも川谷をイメージモデルとしたキャラクターが数多く登場した。小山ゆう原作のボクシング漫画『がんばれ元気』では主人公・元気の通うボクシングジムの先輩・山谷勝三。林律雄・大島やすいち作による当時人気を博した刑事漫画『おやこ刑事』では『フィルムの証言』の挿話で登場する容疑者となる俳優・山谷拓二。小池一夫・神江里見作による異性に関心を持つ思春期の多感な中学生の日常を描いた『青春チンポジュウム』に登場する主人公三人組の中学生の一人・鈴木重信(ジューシン)など。

安藤昇さんの残した言葉【俳優】1926年5月24日~2015年12月16日

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「『男の品位』とは、言行の一致にして一念に殉じることを言う。つまり、『やる』と約束したことは命を取られてもやり抜く。『やらない』と言い切ったら、万金を積まれても微動だにしない。そして、事に臨んで弱音を吐かず、失敗したら無念の一語を呑みこんで潔く責任を取る。 これが『男の品位』だ。…… 価値観の多様化などともっともらしいことを世間では言うが、そうではない。『男の品位』は時代を超えて不変なのだ。」 「果報は寝たふりをして待て」 「ヤクザは辞めたが 男を辞めた覚えはない」 「相手に敵意がないことを示すのが礼儀。」 日本の元ヤクザ、俳優、小説家、歌手、プロデューサー。東京府豊多摩郡東大久保天神下出身。 愚連隊となった当初は新宿で勢力を拡大しようとしていたが、敗戦直後の新宿は古豪と新興勢力がひしめきあう激戦区であったため、やがて渋谷へ転進。当時の渋谷は、渋谷駅を世田谷方面からのターミナル駅として利用する学生が集まる、いわば「子供の町」であった。そのためか、1950年代半ばまでは警察も飲食店での揉め事に関知しない「無警察地帯」であったとされ、そこに目をつけたものと思われる。 トレードマークとして知られる左頬の傷は、1949年春の夕暮れどき台湾人の蔡という人物に銀座・並木通りとみゆき通りの交差点付近で言い掛かりを付けられ、喧嘩になりかかった際に「待ってくれ!上着を脱ぐから」と云うので律儀に待っていたところ、咄嗟に上着に隠してあった短刀で切り付けられた時のものである。 映画『網走番外地 吹雪の斗争』に出演した際、監督・石井輝男に無断で撮影現場を離れて帰ったことがある。石井は含むところもなく、安藤とこれ以降の映画でも仕事をしている。 俳優として出演していたのは専ら映画だったが、1970年にはテレビ時代劇『新・三匹の侍』にも主演している。監督を務めた五社英雄とは互いに義兄弟と認めた間柄であり、五社自ら自分の映画への出演を安藤に打診していたが、1974年、東映配給の映画『暴力街』において安藤は江川紘一役で主役を務めた。 唐十郎監督映画『仁侠外伝 玄界灘』撮影中に本物の拳銃を使い、監督とともに小田原署に逮捕される。安藤によればこれは宣伝のためで、捕まることが前提であったという。撮影現場には新聞記者も呼んでいた。 安藤は俳優として人気も実力もあったが、あま

ポール・ウォーカーさんの残した最後の言葉【ワイルド・スピード】1973年9月12日~2013年11月30日

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「ドライブに行こうぜ。」 (最後の言葉) アメリカ合衆国カリフォルニア州出身の俳優。身長188cm。ブラジリアン柔術茶帯。主な作品に、『ワイルド・スピード』シリーズ等がある。 1990年代後半から、映画にキャスティングされるようになり、ルックスからティーン映画への出演が多くなる。1999年の『バーシティ・ブルース』、『シーズ・オール・ザット』あたりからティーンの間で注目され、2001年ヴィン・ディーゼルと共に出演したアクション映画『ワイルド・スピード』が大ヒットし、世界的にも知られる俳優へと成長。続編にも出演(ただし3作目を除く)。『ワイルドスピード』第7作の撮影が進む中で事故に遭った。 元ガールフレンドとの間に1998年に生まれた一人娘がいるが、結婚はしていなかった。 大の自動車好きでもあり、ワイルドスピードシリーズに登場したトヨタ・スープラや日産・スカイラインGT-Rを、実生活でも所有していた。

菅原文太さんの残した言葉【俳優】1933年8月16日~2014年11月28日

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「オレもぐうたら人間でね、本質は。仕事のないときは家でゴロゴロしている。たかだか人間、気軽にやったほうがええわな。」 「考えてみりゃあ人間なんか生きていること自体がバクチのようなもん。」 「政治の役割はふたつあります。一つは、国民を飢えさせないこと、安全な食べ物を食べさせること。もう一つは、これが最も大事です。絶対に戦争をしないこと!」 「沖縄の風土も、本土の風土も、海も山も空気も風も、すべて国家のものではありません。そこに住んでいる人たちのものです。」 「アメリカにも、良心厚い人々はいます。中国にもいる。韓国にもいる。その良心ある人々は、国が違えど同じ人間だ。」 「戦後の日本はすべてがモノとカネに結びついてきた。そこが変わらないとな。」 「本来、人の命を養うための営みが、利益や効率を追い求めて、いつの間にか商業や工業のようになってしまった。」 「スネに傷を持たない人間なんていないじゃないか。どこかで間違いのひとつやふたつ犯している。真っ白な無謬な人間なんていない。」 「今の世の中は人間をテレビ画面くらいの小さな枠に収めようとする。俺たちが生きてきた映画の枠は大きなスクリーンだったから、誰でも受け入れた。」 「ヘンクツや異端者と呼ばれてもいいじゃないか。変わり者の生き方の方が面白いよ。」 日本の俳優、声優、ラジオパーソナリティ・農業従事者である。愛称は文ちゃん・文太兄い。 父は洋画家、詩人の狭間二郎。妻は菅原のマネージャーを務めており、長男は菅原加織。他に娘が2人いる。宮城県仙台市出身。 東映に移籍はしたものの、ほとんどセリフの付かない役ばかりで、役を貰えないかと新東宝仲間である石川義寛監督の下宿を訪ねることもあったといい、東映京都撮影所作品『怪猫呪いの沼』(1968年)での端役も、石川監督が気の毒がって起用したものだったという。翌1969年(昭和44年)の『現代やくざ 与太者の掟』が、東映での初主役作となる。この『現代やくざ』シリーズは1972年(昭和47年)まで続く作品群で、ヤクザを美化した従来の任侠映画ではなく、現実的な「ワル」を主人公にしたものであり、後の実録映画の先駆けとなった。また、同年には『関東テキヤ一家』シリーズ、1971年(昭和46年)からは『まむしの兄弟』シリーズに主演。 1973年(昭和48年)から始まった『仁義なき