石坂洋次郎さんの残した最後の言葉【小説家】1900年1月25日~1986年10月7日
「これでよし」 (最後の言葉) 日本の小説家。青森県弘前市代官町生まれ。慶應義塾大学国文科卒。戸籍のうえでは7月25日生まれになっているが、実際は1月25日生まれ。 葛西文学への反撥から健全な文学を志し、『海を見に行く』で注目され、『三田文学』に掲載した『若い人』で三田文学賞を受賞。しかし、右翼団体から圧力をうけ、教員を辞職。戦時中は陸軍報道班員として、フィリピンに派遣された。 戦後は『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化され大ブームとなり、「百万人の作家」といわれるほどの流行作家となり、多くの作品が映画・ドラマ化された。1966年、「健全な常識に立ち明快な作品を書きつづけた功績」が評価されて第14回菊池寛賞を受ける。しかし石坂自身は「健全な作家」というレッテルに反撥し、受賞パーティの席上で「私は私の作品が健全で常識的であるという理由で、今回の受賞に与ったのであるが、見た目に美しいバラの花も暗いじめじめした地中に根を匍わせているように、私の作品の地盤も案外陰湿なところにありそうだ、ということである。きれいな乾いたサラサラした砂地ではどんな花も育たない」と語った。 還暦を超えてなお人気作を量産していたが、1971年にうら夫人が亡くなったことがきっかけで執筆意欲を失いだし、当時連載していた作品を最後に執筆活動から遠ざかり、以後は自身の旧作の改訂や回顧録、随筆などを時折記す悠々自適の生活に入る。1976年に朝日新聞へ隔週連載された「老いらくの記」は往年の読者を中心に反響を呼び、健在ぶりを示す。翌1977年には戦時中に執筆しながら連載途中で中絶していたフィリピン従軍記「マヨンの煙」に未発表原稿を加え、綿密な校訂を経て出版。30余年ぶりに陽の目を浴びせた。