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北の湖さんの残した言葉【不沈艦】1953年5月16日~2015年11月20日

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「よく、一つ一つ確実にとか、初心わするべからずと言った事を言う人もいます。 ありきたりではあるけど、確かに大切なこと。ありきたりだからこそ、大切なこと。」 「強くならなくても人間は頑張るのが当たり前、 人間誰でも頑張るのが一番」 「自分が負けた時に相手から手を貸されたら屈辱だと思うから、自分も相手に手を貸すことはしない」 「結婚とは幸せと言う名の財宝を探す旅である」 「勝つためには、とにかく前に一歩でもでる」 「私の場合は『考えない』。これがよかったんじゃないかと、今にすれば思うんです。まずは三段目に上がろうとか、ひとつひとつそういう目標を持って、相撲を取っていった。先輩たちの行動を見て、付いていくことで精一杯ですから、その頃の思い出というもの自体がほとんどない。目の前のことに必死だったんだと思います」 「 (観客から) 負けろと言われていた頃はこっちも燃えて来る性格だから良かったのだが、引退間際になって頑張れと言われた時は自分でも情けなかった。そのために勝ちたいという意欲も薄れてきてしまっていた」 北海道有珠郡壮瞥町出身の元大相撲力士。第55代横綱。本名は小畑 敏満。血液型はAB型。元日本相撲協会理事長。息子は俳優の北斗潤。 新弟子時代から引退に至るまで人と比べず自分を目標にすること、そして考えないことを心掛けていた。中学卒業間際に幕下まで昇進したことで、何か特別な思いがあったのではないかと質問されることは少なくないが、これに対しては「私の場合は『考えない』。これがよかったんじゃないかと、今にすれば思うんです。まずは三段目に上がろうとか、ひとつひとつそういう目標を持って、相撲を取っていった。先輩たちの行動を見て、付いていくことで精一杯ですから、その頃の思い出というもの自体がほとんどない。目の前のことに必死だったんだと思います」と述べている。考えないようにするためにビデオ研究はただの一度もしなかったという。 北の湖は引退後、「 (観客から) 負けろと言われていた頃はこっちも燃えて来る性格だから良かったのだが、引退間際になって頑張れと言われた時は自分でも情けなかった。そのために勝ちたいという意欲も薄れてきてしまっていた」と述懐している。 北の湖は地位を上げるごとに「守り」に入り重圧を受けて稽古がきつく感じるようにな

輪島大士さんの残した言葉【第54代横綱】1948年1月11日~2018年10月8日

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「俺はもう少し頑張る。よく頑張ったね、お疲れさまと言いたい」 (北の湖理事長へ弔いの言葉) 「黄金の左腕? 野球じゃあるめえし。」 石川県七尾市出身で花籠部屋所属の元大相撲力士、第54代横綱、全日本プロレス所属の元プロレスラー、元タレント。本名は輪島 博。血液型はA型。大相撲時代は身長185cm、体重132kg。ニックネームは蔵前の星・黄金の左、現役引退後はワジー。 大相撲の歴史上でも、輪島のみが幕下付出初土俵で横綱に昇進し、学生相撲出身唯一の横綱であり、横綱昇進後も本名を四股名にしていた横綱となっている。右手の引きが強いこともあって左の下手投げを得意とし、左前ミツを引き右からおっつけて寄る相撲も武器であった。トレードマークの金色の廻しとかけて「黄金の左」と言われ一世を風靡した。下手投げを得意とする力士は大成しないというジンクスを破っている数少ない例であった。当時の大相撲では「力士は走ると腰が軽くなる」と言われていたが、輪島は通常のスポーツ選手と同じように積極的にランニングを行い(元祖は玉の海らしい)、「稽古」を「練習」と呼ぶなど、あらゆる面で型破りだった。こういった点から「相撲を取るために生まれてきた男」「天才」という声もあった。 横綱土俵入りについては、脇が空いて前屈みの姿勢でせり上がるなどの批判もあったが、徐々に落ち着いた土俵入りとなり、テンポの早い北の湖とは好対照であった。後年になって輪島以降、下段の構えで掌が真下を向く傾向が顕著になったとやくみつるが考察している。 ユルフンの力士として知られており、上手投げを打たれても廻しが伸びて効かなかった。

若乃花(初代)さんの残した言葉【土俵の鬼】1928年3月16日~2010年9月1日

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「相撲道は辛抱して自分で切り開いていくもの、誰も手とり足とり教えてくれはしない。15尺の土俵。あの中にはなんでも落ちている。女房、金、ダイヤモンド、全てがある。全人生がある。」 青森県弘前市青女子出身で、入門当時は二所ノ関部屋に所属した大相撲力士、第45代横綱。身長179cm、体重107kg。血液型はB型。弘前市名誉市民。土俵の鬼と呼ばれた。戦後最軽量横綱である。 引退後二子山部屋を創設し、弟である大関・初代貴ノ花(のち藤島→二子山)、横綱・2代若乃花(のち間垣)、横綱・隆の里(のち鳴戸)、大関・若嶋津(のち松ヶ根→二所ノ関)らを育て、日本相撲協会の理事長も務めた。

琴桜さんの残した最後の言葉【猛牛】1940年11月26日~2007年8月14日

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「土俵に戻って欲しい」 (朝青龍へ) (最後の言葉) 鳥取県東伯郡倉吉町出身の元大相撲力士。第53代横綱。本名は鎌谷 紀雄。 1973年1月場所も14勝1敗で連覇を果たし、場所後に第53代横綱へ昇進した。横綱昇進時の年齢(32歳2ヶ月)は現在の横綱審議委員会の「2場所連続優勝を原則とする」の規定が定められた年6場所制における最高齢で、「遅咲きの桜、ようやく満開」「姥桜の狂い咲き」とも呼ばれた。

板井圭介さんの残した言葉【八百長告発の元小結】1956年3月21日~2018年8月14日

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「いま、ガチンコでぶつかり合って一番強いのは間違いなく稀勢の里。昇進で自信をつけ、さらに強くなるはずです。かつての師匠であるガチンコ横綱・隆の里が千代の富士の天敵として綱を張ったような力強い相撲が見られるでしょう」 大分県臼杵市出身で、かつて大鳴戸部屋に所属していた元大相撲力士。最高位は西小結。現役時代の体格は178cm、139kg。得意技は突き、押し、叩き。

千代の富士(九重親方)さんの残した言葉【小さな大横綱】1955年6月1日~2016年7月31日

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「(1000勝を達成した時、次の目標を聞かれて答えた言葉)1001勝です。」 「体力の限界、気力も無くなり、引退することとなりました」 「頂上であって同時に崖っぷちなんだよ」 「横綱の名を汚さないよう、一生懸命頑張ります」 「ここまでくれば『何が何でも並びたい』『何が何でも抜きたい』とみずからハッパをかけて土俵に上がった」 「いま強くなる稽古と、3年先に強くなるための稽古を両方しなくてはいけません」 「今日いい稽古をしたからって明日強くなるわけじゃない。でも、その稽古は2年先、3年先に必ず報われる。自分を信じてやるしかない。大切なのは信念だよ」 「プロはいかなる時でも、言い訳をしない」 「流した汗はウソをつかない」 北海道松前郡福島町出身の元大相撲力士。第58代横綱。本名・秋元 貢。血液型はA型。

貴ノ浪さんの残した言葉【大関】1971年10月27日~2015年6月20日

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「暑さは気合いで乗り切ります。夏は暑いのが当たり前です。」 青森県三沢市出身で二子山部屋所属の元大相撲力士。最高位は東大関。本名は浪岡貞博。現役時代の体格は身長196cm、体重175kg、血液型はO型、愛称は「貴にょ浪」。角界では「浪大関」「浪関」と呼ばれていた。趣味は釣り。

初代 貴ノ花さんの残した言葉【相撲】1950年2月19日~2005年5月30日

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「弟子を育てるのは根気です。三度挑戦させてだめでももういっぺん、四度目をやらせる粘りが必要です。」 青森県弘前市出身の元大相撲力士。現役時は二子山部屋所属であった。最高位は東大関。本名は花田 満。身長183cm、体重114kg、血液型はB型。得意技は左四つ、寄り、吊り、上手投げ。

魁傑さんの残した言葉【相撲】1948年2月16日~2014年5月18日

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「私は、チョンマゲをつけているから魁傑ということで、皆から立てられています。しかし私は土俵の外では30歳の、西森というただの青二才です。それを忘れてはならないと思います。」 「力士である前に立派な社会人でありたい。」 「力士は土俵あってこその命。休場は試合放棄と同じ。」 花籠部屋所属の元大相撲力士。最高位は東大関。本名は西森輝門。得意手は突っ張り、左四つ、寄り。身長188cm、体重130kg。黒いダイヤや怪傑黒頭巾、クリーン大関の異名がある。血液型はAB型。引退後は年寄・放駒として放駒部屋の師匠となり、日本相撲協会第11代理事長を務めた。 日本大学文理学部中退。

佐田の山さんの残した言葉【第50代横綱】1938年2月18日~2017年4月27日

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「勝っても驕るな、負けてもひがむな。」 「私を叱ってくれる人は、もういなくなってしまった。だから気がついたことがあれば、どうかいつでも叱ってください。」 「お前たちはお客さんに『相撲を見せてやっている』と思っていないか。『見ていただいている』という気持ちで土俵に上がりなさい。」 長崎県南松浦郡有川町出身の元大相撲力士。第50代横綱。本名は市川晋松。

大鵬幸喜さんの残した言葉【横綱】1940年5月29日~2013年1月19日

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「人生はこれでいいということはありません。人間は死ぬまで自分との闘いであり勉強なのだと思います」 「横綱になったら、引退することを考えろ」 「『もうだめだ』と思った次の瞬間に『もう一歩!』と踏ん張る『耐える精神力』が、何者にも負けない、打ち勝つ力を養う」 「けいこは連続で何番もとって、苦しくなってからが勝負。休み休みやっても力はつかない」 「上り坂、勢いに乗っている時はいい。窮地に立ったとき、人間の本当の価値が決まる」 「毎日毎日同じことの繰り返し。コツコツ、一つのことを繰り返し続けることです。」 「真剣勝負は真剣な稽古からしか生まれない。」 「天才というのは何もしなくてもそれなりの実績が残せる人のこと。私の場合はそうじゃない!努力、努力でやってきたんだから。」 「横綱になったのは素直だったからです。」 「3年先の稽古をする。5年、10年先のことを考えて辛抱すること。」 「一流と呼ばれる人は、常に謙虚でいるものだ。現状に満足することは決してなく、時には自分の存在さえ否定する。新しい自分に出会うために、稽古という基本を日々、積み重ねることが一流への条件である。」 「横綱が物言いのつくような相撲をとってはいけない。」 北海道川上郡弟子屈町出身の元大相撲力士。第48代横綱。本名は納谷 幸喜であるが、一時期は母親の再婚によって住吉 幸喜と名乗っていたこともあった。