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ベーブ・ルースさんの残した言葉【野球の神様】1895年2月6日~1948年8月16日

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「Never let the fear of striking out keep you from playing the game.」 (三振を恐れてちゃ、何もできないよ。) 「You just can’t beat the person who never gives up.」 (決して諦めないヤツを打ち負かすことだけはできない。) 「Every strike brings me closer to the next home run.」 (ストライクを取られるたび、次のホームランが私に近づいてくるのだ。) 「Yesterday’s home runs don’t win today’s games.」 (昨日のホームランは今日の試合に勝たせてくれはしない。) 「I had only one superstition. I made sure to touch all the bases when I hit a home run.」 (私は迷信を一つだけ信じていた。ホームランを打った時は、すべてのベースに確実にタッチするということを。) 「Baseball was, is and always will be to me the best game in the world.」 (野球は、昔も今もこれからも、私にとって世界で最高のゲームなんだ。) 「All ballplayers should quit when it starts to feel as if all the baselines run uphill.」 (すべてのベースラインが上り坂を走っているかのように感じ始めたら、すべての野球選手はやめるべきだ。) 「The only real game, I think, in the world is baseball.」 (本当のゲームとは、私が思うに、世界中で野球だけだ。) 「Watch my dust.」 (俺には勝てやしないんだよ。) 「I won’t be happy until we have every boy in America between the ages of six and sixteen wearing a glove and swinging a bat.」 (6歳から16歳のすべてのアメリカの男の子たちがグローブを

ジョー・ディマジオさんの残した言葉【56 試合連続安打】1914年11月25日~1999年3月8日

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「自分の能力を超えたことをやろうとしちゃいけない。だが、絶対に自分の能力以下で行動するな。」 「男でも女でも全力を尽くす者は、何も言わなくても自然にリーダー的存在になる。」 「野球が楽しくなくなったら、それはもう野球でなくなってしまう。」 「私が一生懸命プレーする理由は、私のプレーを見たことのない子供が私を見たとして、その子供を失望させないためだ。」 「あなたが何をしたいか・何を望むかを考え続けていて実行をしないなら、それが達成されることはないだろう。」 「何回経験しようとも、開幕戦には特別な興奮がある。子供の頃、バースデーパーティーを楽しみにするような気持ちだ。何か素晴らしいものが待っていると感じるんだ。」 「モチベーションは他の誰かが与えられるものではない。他者はモチベーションを持つ助けができるが、それは基本的には本人から生まれるものである。そしてそれは、どんな状況でも、いつでも、ベストを尽くすための渇望でなければならない。」 「なぜ1つの家庭の3人の子供がメジャーリーガになれたかというと、お互いを助けあっていて、裏でたくさんの練習をこなしているからだ。我々は一瞬一瞬できることをやってきた。」 「最悪な気分の時には、最も励まなければいけない。他人に落ち込んでいると感じさせてはいけない。」 「5人か6人、野球殿堂入り可能な選手がチームにいるとき、それが優勝するときだ。心配すべきことは、選手たちに休養をしっかり取らせることくらいだね。」 「私は毎日ベストを尽くしている。いつ誰が私のプレーを初めて見るかわからないからね。」 「私はいつもスタンドに一人は私のプレーを見たことがない観客がいる、その人を失望させてはいけないと意識している。」 「ディマジオを見るのが最初で最後の人が必ずいる。その人のためにプレーしているんだ。」 (何故そうまで自分を痛めてプレーするのかと聞かれて) 「ジンクスなんて関係ないよ。記録を止めるのは相手のピッチャーなのだから。」 「野球選手は偉大な選手になるために貪欲さを持ち続けなければならない。それが金持ちの家庭から偉大な選手が生まれない理由だろう。」 「私くらい年を取ると、私がしてきたこをの偉大さを讃えてもらうと本当に幸せを感じるんだ。」 「全てのピッチャーは、生まれながらにピッチャーなんだ。」 「ニューヨー

ジョー・ディマジオさんの残した最後の言葉【56 試合連続安打】1914年11月25日~1999年3月8日

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「I finally get to see Marilyn again.」 (やっとマリリンに会える。) (最後の言葉) MLBの元プロ野球選手。カリフォルニア州マーティネズ出身。ニックネームは「ヤンキー・クリッパー」「ジョルティン・ジョー」。右投右打。 56試合連続安打のMLB記録保持者。

野村克也さんの残した最後の言葉【戦後初の三冠王・ID野球】1935年6月29日~2020年2月11日

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「頑張れ」 (息子の克則さんへ) (最後の言葉) 京都府竹野郡網野町出身のプロ野球選手・コーチ・監督、野球解説者・野球評論家、タレント。 プロ野球では南海 、ヤクルト、阪神、東北楽天の監督を歴任したほか、日本体育大学客員教授なども務めた。 プロ野球では南海 、ヤクルト、阪神、東北楽天の監督を歴任したほか、日本体育大学客員教授なども務めた。晩年の所属事務所はエフエンタープライズで、継子の団野村が運営するKDNスポーツジャパンがマネジメント代行を行っていた。 選手としては、史上2人目の三冠王達成(世界のプロ野球史上初の捕手による三冠王)、選手出場試合数歴代2位、監督出場試合数歴代3位、通算本塁打数歴代2位、通算安打数歴代2位、通算打点数歴代2位、通算打席数1位(11970打席)、通算打数1位(10472打数)、通算犠飛数歴代1位(113犠打)、通算併殺打1位(378打)、ベストナイン19回受賞で1位などの記録を持つ。特に1963年に記録した52本塁打は後に1985年に落合博満も記録するが、その落合と並んで日本出身の日本国籍選手における1シーズン最多本塁打記録である。

野村克也さんの残した言葉【戦後初の三冠王・ID野球】1935年6月29日~2020年2月11日

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「全盛期を過ぎ、落差に耐えつつ、必死にやる、なんてことを惨めと感じる人はいるでしょう。ところが、僕はそうは思わないんですよ。なりふり構わず、自分の可能性を最後の最後まで追求する。そのほうが美しいという、これは僕の美意識です。」 「コンピューターがどんなに発達しようとしても、仕事の中心は人間だ。ならばそこには『縁』と『情』が生じる。それに気づき、大事にした者がレースの最終覇者となるのだと思う。」 「有事に強い者、それは不真面目な劣等生。」 「命令するからには、全責任は監督にある。つまり、クビになるのはおまえでなくワシや。だから、失敗してもいっこうにかまわない。おまえの失敗はおまえを使ったオレが悪いのだから、全てを出しきり、結果は神にゆだねろ。」 「人間の才能なんて、どこに隠されているか分からない。相手の話を聴いてみる。それが第一歩。そこから組織の活性化が始まる。」 「ナポレオンは『人間を動かす二つのテコがある。それは恐怖と利益である』と言った。私はこの二つに『尊敬』を加えたい。リーダーは『利益と尊敬と、少しの恐怖』で組織を動かしていくべきで、その潤滑油が『笑い(ユーモア)』だ。」 「勝っているときが一番怖い。リードしているときが一番怖い。」 「貴い知識・本質はいつの世でも、本来、単純明快である。」 「ID野球の極意は、重い予備知識と軽い先入観。」 「『もうダメ』ではなく、『まだダメ』なのだ。」 「限界が見えてからが勝負だ。」 「敵に勝つより、もっと大事なことは、常に自分をレベルアップすること。」 「未熟な組織には、原点がある。教えられることが多い。」 「不器用な人間は苦労するけど、徹してやれば、器用な人間より不器用な方が、最後は勝つよ。」 「自分の持っているイメージと違うと、すぐ矯正しようとする。こんな上司のもとにいる部下は不幸。」 「部下を『信じる』というのは、リーダーの重要な資質。」 「人を判断するときは、決して結論を急がないこと。」 「リーダーシップとは人を動かす、先を読むこと。人を動かすのは生きがい、夢、希望、目標、目的、ビジョン、興味、関心。」 「コーチの第一義は、自信を無くしている、目標を失っている選手に、いかに意欲を出させるかということ。」 「『叱る』と『褒める』というのは同意語だ。情熱や愛情が無いと、叱っても、ただ

仰木彬さんの残した言葉【平成の名将】1935年4月29日~2005年12月15日

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「山に登るルートはたくさんあるのだから、自分の成功体験を押し付けてはいけない。」 福岡県出身のプロ野球選手、プロ野球監督、野球解説者。 昭和30年代の西鉄ライオンズ黄金時代に正二塁手として活躍し、引退後は西鉄、近鉄、オリックスのコーチ・監督を歴任した。 現役時代から、かなりの遊び人だった。選手時代は「グラウンドの外ではいくらでもムチャやってくれたらいい」と選手に言っていた三原監督からも「仰木と豊田だけは遊びに制限をかけんといかん」とこぼされるほどだった。西鉄の島原キャンプの休日に船で天草まで遊びに行ったものの、海が荒れてその日のうちに帰れず、翌日の昼過ぎにコッソリと帰ってきたら、三原監督からバントの練習だけをするように命令されたという。後にスカウトされた清原和博も、「朝飯のお茶代わりにビールを飲むような人」と自身の著書で語っていた。 本人はグラウンドの外で何をしようが、試合で結果を出せば何も言わなかった。しかし練習そのものはかなり厳しく、とりわけ走りこみの量は12球団一とされるほどだった。ただし、これは根性論・精神論ではなく、あくまで試合で結果を出すことが目的であった。実際、1989年にコンディショニングコーチに就任した立花龍司がまだ日本では普及していなかった量よりも質を重視した最新のトレーニング理論に対して、他のコーチが反発する中で理解を示し、その年リーグ優勝を達成したことで、立花を高く評価した。 オリックス監督時代の96年のオールスターゲームで監督を務めた際に、当時オリックスのイチローを投手として起用する采配をおこない話題となった。この時の打者は松井秀喜であったが、セ・リーグ監督の野村克也はこのことに抗議する意味で、代打に投手の高津臣吾を送った(結果は内野ゴロ)。なお、その前年に仰木率いるオリックスは西武戦で東尾修監督が起用したピッチャーオレステス・デストラーデと対戦している。デストラーデは1死も取れずに降板した。

荒川博さんの残した言葉【王貞治さんを育てた名コーチ】1930年8月6日~2016年12月4日

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「ダメになった時が成長する時だ」 「(王は)打つことにかんしては一生懸命でした」 「王貞治に会ったのは、世界で一番素晴らしい出会いだった」 東京都台東区浅草出身の元プロ野球選手、コーチ・監督、解説者。 川上哲治監督の下、1962年から1970年に巨人一軍打撃コーチを務め、7度のリーグ優勝・日本一に貢献。早大の後輩・広岡が犬猿の仲であった川上に頭を下げてくれたため、荒川は毎日OBであったが巨人入りを果たした。川上が荒川を雇った理由は、「その若さで榎本という素晴らしい打者を育て上げた」という一点のみであった。コーチ時代は「荒川道場」と呼ばれる厳しい指導で選手のプライベートも徹底的に管理し、特に王に「一本足打法」を指導したことで知られる。 一本足打法は後に駒田徳広らにも伝授しているが、王ほどの効果はなかった。王以外では土井正三・黒江透修・高田繁らを育て、巨人の第3次黄金時代を支えた。 1967年の中日戦で、円城寺満審判に対し判定を不服とし、柴田勲とともに同審判を小突き回し判定を変えさせたが、退場処分を受けた。同試合終了後に円城寺は審判引退を表明したが、その光景は、後に幾度となく審判との暴力沙汰を起こす事になる暴れん坊の金田正一をして「長年野球一筋で来た円城寺さんが殴られるのを見て、哀しくて見てられなかった」とコメントする程だった。1968年、阪神のジーン・バッキーが投げた王への危険球に端を発する乱闘で、荒川はバッキーに殴られて4針も縫う重傷を負い、殴ったバッキーも指を骨折した(バッキー荒川事件)。バッキーはこの怪我が致命傷となり精彩を欠いたことで成績が低迷し、1969年オフに現役を引退している。なお、1985年頃に荒川は来日したバッキーと再会し、恩讐を越えて仲良く握手していた。その後は養子の荒川尭がプロ入りしたのを期に、公私のけじめをつけるため1970年に勇退。巨人退団後はフジテレビ・文化放送解説者を経て、1973年は2月に日本鋼管を指導した後、同年のシーズン途中からヤクルトアトムズの一軍打撃コーチに就任。1974年からは三原脩の後を受けて、監督に昇格。コーチ陣に広岡達朗・小森光生・沼澤康一郎と早大の同期・後輩を配し、早大カルテットと称された。1年目は前半戦こそ出遅れたが、後半戦の8月に5試合連続完投勝利を含む6連勝をマークして浮上に成功し、13年ぶりのA

西本幸雄さんの残した言葉【悲運の名将】1920年4月25日~2011年11月25日

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「イワシも大群になると力が出る。みんなが心底から力を合わせることによって、何かが可能になる!」 「道のりは遠くとも、目標に向かって進めば、一歩一歩近づくことだけは確かだ。」 「もし、私が本当に悲運なら戦争で死んでいるし、復員してからも野球に再会できたり、大毎・阪急・ここの3チームで素晴らしい選手に巡り合えて、8度も日本シリーズに出場などできない。“悲運の名将”なんておこがましい。敢えて言うなら“幸運な凡将”ですね(笑)」 和歌山県和歌山市出身のプロ野球選手、コーチ・監督、野球解説者、野球評論家。 20年間の監督生活で8度のリーグ優勝を果たしながら、日本シリーズでは1度も日本一に就けず、「悲運の名将」と言われた。ただし西本当人は自分が「悲運の名将」と言われることには否定的で、「もし、私が本当に悲運なら戦争で死んでいるし、復員してからも野球に再会できたり、大毎・阪急・ここの3チームで素晴らしい選手に巡り合えて、8度も日本シリーズに出場などできない。“悲運の名将”なんておこがましい。敢えて言うなら“幸運な凡将”ですね(笑)」と語っている。3つのチームを優勝に導いた監督は、プロ野球史上で西本、三原脩、星野仙一のみである。三原が指揮したのが1リーグ時代の巨人とセ・パ両リーグから1チームずつ(西鉄・大洋)、星野がセ・リーグの中日・阪神とパ・リーグの楽天だったのに対し、西本が指揮したチームはすべてパ・リーグであり、現役時代も含めてパ・リーグ一筋の野球人生だった。

稲尾和久さんの残した言葉【鉄腕】1937年6月10日~2007年11月13日

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「なぜ失敗したかより、なぜ成功したかが大事」 「どんなに優れた体力を持っていても、どんなに優れた技術を持っていても、最終的に体を動かすものは精神的なものであり、心理的なものである」 大分県別府市出身のプロ野球選手・コーチ・監督、解説者・評論家。血液型はB型。 シーズン42勝はヴィクトル・スタルヒンと並ぶNPBタイ記録、シーズン20与敬遠はNPB記録。 現役時代は西鉄ライオンズの主戦投手としてチームの3年連続日本一に貢献し、連投・多投の中で好成績を挙げたことから「鉄腕」の異名で呼ばれた。

川上哲治さんの残した言葉【打撃の神様】1920年3月23日~2013年10月28日

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「どんなに遠まわりに見えようとも、勝つためには、基本の積み重ねしかない。」 「中途半端だと、愚痴が出る。いい加減だと、言い訳がでる。真剣にやれば、知恵が出る。」 「勉学や向上の道すがらの努力や苦労には、何ひとつ無駄はない。」 「スランプというのは、好調なときにその原因が作られている。だから、好調なときが一番心配です。」 「スランプになったら基本に帰れとやる。基本に帰れということは走り込めということ。」 「ボールが止まって見える。」 熊本県球磨郡大村出身のプロ野球選手・監督、野球解説者。 妻は宝塚歌劇団娘役の代々木ゆかり、ノンフィクション作家の川上貴光は長男。 現役時代より、その卓越した打撃技術から「打撃の神様」の異名を取り、日本プロ野球史上初の2000安打を達成した。戦時中から戦後におけるプロ野球界のスターとして活躍。終戦直後は「赤バット」を使用して川上のトレードマークとなり、「青バット」を使用した大下弘と共に鮮烈な印象を与えた。また、青田昇や千葉茂と共に第一次巨人黄金時代の打の中心選手でもあった。 監督としてもアル・キャンパニスによって定型化された『ドジャースの戦法』の実践を目指し、王貞治・長嶋茂雄らを率いて読売ジャイアンツの黄金時代を築き上げ、プロ野球史上唯一の「V9」を達成するなど多大なる功績を残し、「プロ野球界の生き神様」とまで呼ばれる伝説的な存在となった。引退後は、少年野球教室を開くなど、普及に努めた。 愛称は「打撃の神様」「哲」「ドン川上」、長年世田谷区野沢に居住したことから「野沢のおやじさん」とも呼ばれていた。

盛田幸妃さんの残した言葉【奇跡のストッパー】1969年11月21日~2015年10月16日

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「苦難は福門なり」 北海道茅部郡鹿部町出身のプロ野球選手。1994年から1997年までの登録名は盛田 幸希。 現役時代に脳腫瘍に罹患しながら、リハビリにより復活を遂げた。だが、脳腫瘍は生涯盛田に付きまとい、2015年に、45歳の若さで生涯を閉じた。 150km/h以上のストレートと高速シュートを持ち味とした。 厳しい内角攻めを多投することで知られ、落合博満が特に苦手にしていた投手であり、通算50打数9安打(打率.180)に抑えられている。近鉄では変化球でゴロを打たせるスタイルにモデルチェンジし、それがカムバック賞に繋がったと小谷正勝コーチが後年振り返っている。

大沢啓二さんの残した言葉【大沢親分】1932年3月14日~2010年10月7日

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「人間にはわらじをつくる人、みこしを担ぐ人、みこしに乗る人がいる。 誰が一番偉いんじゃなくてよ、それぞれ与えられた役割をまっとうすることが大事なんだ。」 「男なんて、人生の浮き沈みの中からしか、自分を見つけることができねぇんだから。気持ちだけは、いつも前を向いて負けねぇようにしないとな。」 神奈川県藤沢市出身の元プロ野球選手・コーチ・監督、解説者・評論家。 「大澤」と表記されることもある。本名は大沢 昭、旧名は大沢 昌芳。愛称は「親分」「大沢親分」「大沢の親分」。

金田正一さんの残した言葉【400勝投手】1933年8月1日~2019年10月6日

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「俺は400勝しているが、300敗してるんだぞ。」 「スランプと言っていいのは、長嶋、金田までです。」 「『タレント監督』大いに結構。第一、辞典で『タレント』を引くと―。『才能のある人の意味』『才能、技量』とあるじゃないの。いい言葉だねェ。『才能ある監督』―ワタシにはなんともほめすぎの『肩書き』。またワタシは『乗って』しまう。」 「いくら『野球術』ができても、プレーする『実力』がなければどうにもならないということ。」 「まあ、現役時代を語れば自然と自慢話になってしまうほどの大投手ということで勘弁してください。」 「(小児病院を弔問した折に)満足に歩けもしない、あんな小さな子供でさえ、走ろう、生きようと必死なんだ。それに比べたら五体満足の大男たちが、やれホームラン打ったの、やれ負けたのと騒ぐ。小いせえ、小いせえ、野球なんて小さすぎらあ。」 「俺たちは記録で勝負するしかない。」 「先に点をやったらもうダメなんだ。終盤に逆転なんてあり得ない。これは国鉄のバックが身をもって教えてくれたよ(笑)。前半にやられたらあきらめたよ。」 「とにかく相手から三振を奪うしかないワケなんだよ。三振取らなかったら、エラーして失点に結びつくんだから(笑)。私は打たせて取るなんてことは考えたこともなかった。その結果の4490奪三振なんだ。」 「日本には四季がある。樹木は春に花が咲き、夏の日差しで新緑となる。秋には紅葉して、冬はじっと寒さに耐えて次なる春に備える。この意味をよく考えなさい。生き物は休むべきときに休まないと、必ず体にしわ寄せがくるんだ。体を休めることも仕事なんです。」 「シーズンで使った体を元に戻すには3か月はかかる。ワシも疲れ切った体を回復させるのに大変気を遣ったよ。だから秋季キャンプなどは、ワシの野球哲学からすれば邪道だった。」 「同じ気温20度でも春と秋とではかく汗の質が違う。」 「選手は球団の大事な『商品』なんです。万が一、選手生命を左右するようなケガをしたら誰が責任を取るんだ。選手も選手だ。ホイホイ尻尾を振って招集に応じるのはおかしい。」 「野球の国際試合は、五輪で復活させるだけで十分なんです。それもメジャーの主力が出てきて初めて成立する。それ以外は不要だ。メジャーが参加しない国際大会に日本が一線級のプロを出す必要はない。」 「(そんなに400勝

香川伸行さんの残した言葉【ドカベン】1961年12月19日~2014年9月26日

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「重い体を支えてくれた下半身に感謝します」 大阪府出身のプロ野球選手、野球監督、野球解説者。 野球選手としては非常に横幅の大きな体格で、水島新司の野球漫画『ドカベン』の主人公・山田太郎に体型が似ていたことから、ドカベンの愛称で呼ばれた。マスターズリーグでは、その「ドカベン」を登録名にしていた。

香川伸行さんの残した最後の言葉【ドカベン】1961年12月19日~2014年9月26日

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「仕事はありませんか?」 (営業先へ) (最後の言葉) 大阪府出身のプロ野球選手、野球監督、野球解説者。 野球選手としては非常に横幅の大きな体格で、水島新司の野球漫画『ドカベン』の主人公・山田太郎に体型が似ていたことから、ドカベンの愛称で呼ばれた。マスターズリーグでは、その「ドカベン」を登録名にしていた。

土井正三さんの残した言葉【奇跡の走塁】1942年6月28日~2009年9月25日

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「100人いれば99人にとっては通用するが、残りの1人には通用しない。」 プロ野球選手・監督、野球解説者。兵庫県出身。 土井が名声を挙げたのは、1969年の阪急との日本シリーズでの本塁突入の走塁である。10月30日の第4戦(後楽園)の4回裏、無死1・3塁でダブルスチールが敢行された。阪急の捕手・岡村浩二から二塁手・山口富士雄を経て再び送球を受けた岡村は、本塁突入を図った三塁走者の土井をブロック。傍目にはブロックが完全に成功したように見えたが、球審の岡田功はセーフの判定を下した。この判定を信じられず激昂した岡村は同球審に暴力を振るい、日本シリーズ史上初の退場処分を受けた。試合後、川上哲治監督は土井に「ベースを踏んだのか」と聞くと、土井は「踏んだ」と無表情に答えたという。その翌10月31日に岡村のブロックを掻い潜って股の間からホームベースを踏む土井の足を写した写真が、各新聞の第一面に掲載された。このことから、土井の走塁技術と審判の的確さが賞賛された。同走塁はメディアにおいて「奇跡の走塁」と評され、土井は「忍者」と称された。

ホセ・フェルナンデスさんの残した言葉【マーリンズ不動のエース】1992年7月31日~2016年9月25日

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「生まれながらにして自由だったあなた達には、自由が本当に意味することが何かは分からない。」 キューバ・ビジャ・クララ州サンタ・クララ出身のプロ野球選手。右投右打。背番号は『16』。MLB・マイアミ・マーリンズでプレーした。 キューバのサンタ・クララで生まれ育った。アレドミス・ディアスと同じ少年野球チームに所属し、メジャーリーグの選手になる夢を持つ。アメリカ合衆国への亡命に2005年から3度失敗。刑務所に服役した。 2008年に母親、妹と共にボートでキューバから4度目の逃亡を試みた。しかし途中、荒波に母親がさらわれて海に落ち、当時15歳のフェルナンデスは海に飛び込み母親を救出した。その後、メキシコを経由してアメリカ合衆国に亡命を果たす。フロリダ州タンパにあるブラウリオ・アロンソ高等学校に入学し、3度のノーヒットノーランを記録した。 2011年のMLBドラフト1巡目(全体14位)でフロリダ・マーリンズから指名され、プロ入り。順調にマイナーリーグを駆け上がる。 2012年にはオールスター・フューチャーズゲームにも出場した。ベースボール・アメリカ誌の有望株ランキング2013年版では、メジャー全体で5位にランクされた。 2013年、前年の終盤ではA+級ジュピター・ハンマーヘッズで出場していたが、飛び級でメジャーリーグに昇格。4月7日のニューヨーク・メッツ戦で先発でメジャーデビューを果たし、5回を1四球、8奪三振、1失点で勝敗はつかなかった。5月4日のフィラデルフィア・フィリーズ戦で7回を1四球、9奪三振、無失点でメジャー初勝利を記録した。同年7月16日、MLBオールスターゲームにも選ばれ、ナショナル・リーグの5番手として登板。ダスティン・ペドロイアを見逃し三振、昨年の三冠王ミゲル・カブレラを内野フライ、オールスター時ホームラン数トップのクリス・デービスを空振り三振に切り、1イニングを無失点に抑えた。同年シーズンは防御率2.19・12勝・WHIP0.98を記録し、11月11日に、ナショナルリーグのルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。ナショナルリーグのサイ・ヤング賞の投票ではクレイトン・カーショウ、アダム・ウェインライトに次ぐ3位になった。

中村勝広さんの残した言葉【阪神GM】1949年6月6日~2015年9月23日

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「僕が思うに本物のプロというのは、人が見ていないところでいかに自分自身と闘争しているかですよ。自分自身と葛藤しながら向上心を燃やし続ける。」 「器用でチヤホヤされる若者は意外と長続きしない。反対に何となく鈍だなと思うけど本人は一生懸命。自分は仕事が遅いし、物覚えも悪いと自覚しながらコツコツコツコツやる。これが三年、五年経って気づいた時には、すごい実力を備えているんです。」 「(夢を目指す)過程で厳しいとか苦しいと言う人がいるけど、過程で苦労と思ったら、その人はそれでストップ。 進化しません。本当に上を目指している人というのは、はたから見たら凄い努力をしているように見えるけど、本人は苦労だなんて少しも思ってないんですよ。まっしぐらに上を見ているから。」 「夢を持つのは簡単だけど、それを実現するには普通にやっていても駄目ですよ。」 「どんな仕事もそうですけど伸びるか伸びないかは本人の情熱いかんに比例しますね。一番大事なことは自分の仕事を好きになることですよ。」 千葉県山武郡九十九里町出身のプロ野球選手・監督、野球解説者、野球評論家。愛称は「カツ」「カッちゃん」。2012年9月5日より、プロ野球阪神タイガースの取締役ゼネラルマネージャーを務めていた。

中村勝広さんの残した最後の言葉【阪神GM】1949年6月6日~2015年9月23日

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「明日、負けたら本当に厳しいな……。でも、俺も最後まで遠征には行くよ」 (亡くなる前日の会話) (最後の電話) 千葉県山武郡九十九里町出身のプロ野球選手・監督、野球解説者、野球評論家。愛称は「カツ」「カッちゃん」。2012年9月5日より、プロ野球阪神タイガースの取締役ゼネラルマネージャーを務めていた。

ヨギ・ベラさんの残した言葉【ヤンキース伝説の名選手】1925年5月12日~2015年9月22日

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「I didn’t say everything I said.」 (言った事の全部を言ったわけじゃない) 「It’s tough to make predictions, especially about the future.」 (予測をするのは難しい。未来についてはなおさらだ) 「I knew I was going to take the wrong train, so I left early.」 (電車を乗り間違えるってわかってたんだ。だから早く家を出たんだ) 「You better cut the pizza in four pieces because I’m not hungry enough to eat six.」 (ピザは4つに切ってくれ。6切れは食べられないから) 「I usually take a 2-hour nap, from 1 o’clock to 4.」 (普通、1時から4時までの2時間、昼寝するんだ) 「How can you say this and that when this and that hasn’t happened yet.」 (まだあんなことやこんなことが起こってもないのに、あんなことやこんなことがいえるわけないだろう!) 「Think? How the hell are you gonna think and hit at the same time?」 (考えろ?考えながら打つなんて同時にできやしない) 「It’s like déjà vu all over again.」 (これはまるでデジャブの繰り返しだ) 「Slump? I ain’t in no slump! I just ain’t hitting.」 (スランプ?そうじゃない。当たってないだけだ) 「This is the earliest I’ve ever been late.」 (今まで遅れた中では一番早かったよ) 「Baseball is 90 % mental, the other half is physical.」 (野球は90%精神、残り半分は体力だ!) 「I’m wearing these gloves for my hands.」 (グローブは手の為につけてるんだ) 「His reputation