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枝川公一さんの残した言葉【評論家】1940年11月12日~2014年8月15日

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「文は人を切る。」 日本の評論家、ノンフィクション作家、翻訳家。 東京向島生まれ。東京外国語大学卒業。出版社(光文社)勤務を経てライターとして独立し、下町や酒場などを歩いて探訪するノンフィクション作品、アメリカやアジアの文化と社会のルポなどを発表した。

伊藤菊雄さんの残した言葉【プロ野球スカウト】1935年10月24日~2015年8月15日

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「桑田指名はうちだって冒険だった。冒険もせずに文句を言うのは負け犬の遠吠えに過ぎないということです。」 日本の元野球指導者、プロ野球スカウト。元読売ジャイアンツスカウト部長。 愛媛県西条市出身。愛媛県立西条南高等学校時代は外野手としてプレー。近畿大学入学後、近畿大学体育会硬式野球部に入るもチームマネージャーに転向する。大学卒業後に近畿大学に職員として入職し、野球部コーチ、助監督を経て、1961年に読売ジャイアンツにスカウトとして入団。ジャイアンツでは関西担当スカウトとして活躍した。 1987年から1995年までスカウト部長を務め、1999年に退職。スカウト時代には村瀬広基、河埜和正、淡口憲治、小林繁、西本聖、駒田徳広、吉村禎章、村田真一、川相昌弘、斎藤雅樹、水野雄仁、桑田真澄、橋本清らの獲得に携わった。 1990年のプロ野球コンベンションでスタッフ部門賞を受賞した。 2003年1月、阪神タイガース監督・星野仙一の要請でスカウト部門の非常勤顧問として阪神入りしたが、体調不良のため2004年4月に退団した。

笹森建美さんの残した言葉【小野派一刀流第17代宗家】1933年~2017年8月15日

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「武士道とは、愛することと見つけたり!」 「剣道は、相手に怪我をさせるとか殺すための武道ではない。一瞬にして相手に最小限のダメージを与え、しかも自分が悪かったと悟らせる。それが、剣道です。」 日本の牧師、剣道家。 青森県生まれ。早稲田大学文学部哲学科、米国デューク大学大学院神学部修了。青山学院中等部宗教主任を経て、現在は、駒場エデン教会牧師。大長刀直元流、居合神無想林崎流宗家も受け継ぎ、日本古武道協会常任理事を務め、小野派一刀流第17代宗家でもある。

さくらももこ さんの残した言葉【ちびまる子ちゃん】1965年5月8日~2018年8月15日

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「いいことをしたって、いいことがあるとは限らないんだ。」 「いちいち心配したって心配しなくたってどっちみち結果は同じなんだよ。どうせなるようにしかならねぇんだから、心配するだけ損じゃねえかよ。」 「自分の好きなことがやれて家族が元気ならそれが一番幸せなんだ。」 「命にかかわること以外、どうでもいいことばっかじゃねぇかよ。」 「幸せだから笑うんじゃないよ。笑うから幸せになるんじゃ。」 「許すことができない人間は寂しいね。人生なんて許しまくってなんぼじゃよ。」 「自分をあきらめちゃダメだよ。」 「未来や過去にしばられるような生き方は自然じゃないさ 明日は自分で作るものなのさ。」 「なんでも度を超すのはよくないんだよ。幸せもほどほどがいいんだよ。」 「『ありがとう』の一言で、また頑張ろうって元気になれるのよね。」 「ムダに見える時間も人生には必要らしいよ。」 「お互いの全てを見せ合うのが友達ってもんだろ。」 「信じよう、人の心を この世に悪い人なんていやしないよ。」 日本の漫画家・作詞家・脚本家。 静岡県静岡市清水区出身。また、自身の少女時代をモデルとした代表作『ちびまる子ちゃん』の主人公の名前でもある。血液型はA型。身長159cm。 一男の母親。

故人が残した名言集【8月15日】

さくらももこ さんの残した言葉【ちびまる子ちゃん】1965年5月8日~2018年8月15日 「いいことをしたって、いいことがあるとは限らないんだ。」 「いちいち心配したって心配しなくたってどっちみち結果は同じなんだよ。どうせなるようにしかならねぇんだから、心配するだけ損じゃねえかよ。」 「自分の好きなことがやれて家族が元気ならそれが一番幸せなんだ。」 「命にかかわること以外、どうでもいいことばっかじゃねぇかよ。」 「幸せだから笑うんじゃないよ。笑うから幸せになるんじゃ。」 「許すことができない人間は寂しいね。人生なんて許しまくってなんぼじゃよ。」 「自分をあきらめちゃダメだよ。」 「未来や過去にしばられるような生き方は自然じゃないさ 明日は自分で作るものなのさ。」 「なんでも度を超すのはよくないんだよ。幸せもほどほどがいいんだよ。」 「『ありがとう』の一言で、また頑張ろうって元気になれるのよね。」 「ムダに見える時間も人生には必要らしいよ。」 「お互いの全てを見せ合うのが友達ってもんだろ。」 「信じよう、人の心を この世に悪い人なんていやしないよ。」 日本の漫画家・作詞家・脚本家。 静岡県静岡市清水区出身。また、自身の少女時代をモデルとした代表作『ちびまる子ちゃん』の主人公の名前でもある。血液型はA型。身長159cm。 一男の母親。 笹森建美さんの残した言葉【小野派一刀流第17代宗家】1933年~2017年8月15日 「武士道とは、愛することと見つけたり!」 「剣道は、相手に怪我をさせるとか殺すための武道ではない。一瞬にして相手に最小限のダメージを与え、しかも自分が悪かったと悟らせる。それが、剣道です。」 日本の牧師、剣道家。 青森県生まれ。早稲田大学文学部哲学科、米国デューク大学大学院神学部修了。青山学院中等部宗教主任を経て、現在は、駒場エデン教会牧師。 大長刀直元流、居合神無想林崎流宗家も受け継ぎ、日本古武道協会常任理事を務め、小野派一刀流第17代宗家でもある。 伊藤菊雄さんの残した言葉【プロ野球スカウト】1935年10月24日~2015年8月15日 「桑田指名はうちだって冒険だった。冒険もせずに文句を言うのは負け犬の遠吠えに過ぎないということです。」 日本の元野球指導者、プロ野球スカウト。元読売ジャイアンツスカ

特攻隊員の遺書 林市造大尉【母親へ】

 一足さきに天国に参ります。  天国に入れてもらえますかしら。お母さん祈つて下さい。  お母さんが来られるところへ行かなくては、たまらないですから。 お母さん。さよなら。 一億の人を救ふはこの道と母をもおきて君は征きけり 母マツヘさんの手記  泰平の世なら市造は、嫁や子供があつて、おだやかな家庭の主人になつていたでしょう。 けれども、国をあげて戦つていたときに生まれ合わせたのが運命です。  日本に生まれた以上、 その母国が、危うくなつた時、腕をこまねいて、見ていることは、できません。  そのときは、 やはり出られる者が出て防がねばなりません。

特攻隊員の遺書 海野馬一少佐【我が子へ】

愛児へ  児等よ嘆ずること勿れ。父の死は決して汝等を不幸にはしない。  汝等は父の死によって何でもよいから一つの教訓を得よ。  他の人の得ることの出来ぬ教訓を得よ。そして立派な人間となれ。  汝等よ。汝等の母は日本一の母なることを汝等に告げる自身あり。  母の言をよく守れ。母の言は即ち父の言だ。  和幸君瑞子様誠子様仲よくよき母の許にてよく勉強して立派な人となれ。  人間は何も高位高官の人となる義務はない。国家のため人にためになる人になるのが人間の義務だ。  和幸君よ父は汝に将来如何なる職業に進めと云ふ権能はない。  又汝の性格も判らぬから申さぬ。然し弱きを助けるのが男だ。  父は軍隊生活中この気概を持してやって来た。 (中略)  「弱きを助ける人となれ」これが父の言葉だ。汝未だ五才と雖も父の言を忘るる勿れ。  瑞子様はお姉さまだから父の心がよく判るであらふ。  和幸や誠子が成長するに従ひ父の心を傳へて下さい。 (後略)

特攻隊員の遺書 谷暢夫少尉【母親へ】

母親と面会して 子を思う御国の母は有難し 千里万里もわれを訪ぬつ 山よりもはるかに高し 海よりもはるかに深き 親の恩かな 家郷への最後の書簡 親を惟ひ 国を憂ふる心あらば 身を桜花となりて 散りゆかん 遺書  はじめありて 終りあるもの 鮮し  永らくのご厚思を謝す。何一ツ親孝行らしきことなき小生も、最初の最後の親孝行を致します。  忠孝一致、とは古人、実によく云ったものと感心します。ご両親の長命を切に祈ります。  日の本の空征くものの心なれ 散るを惜しまぬ桜花こそ 辞世 身は軽く つとめは重きを思ふとき 今は敵艦に ただ体当り 身はたとひ 機関もろとも沈むとも 七たび生れ撃ちてしやまん

特攻隊員の遺書 水知創一大尉【兄弟へ】

愼二様  急に休暇が許され、又余りにも短かったので呼ぶ事が出来ず悪い事をしました。  愼二は私のたった一人の弟です。早く立派な人になって父上、母上を喜ばしてあげて下さい。  兄の様な親の心配を掛けてばかりゐる様な男になってはなりません。  今に兄達が必ず敵をやっつけますから後は、愼二達が一所懸命勉強して日本をますます良い国にして下さい。  では元気でしっかりやって下さい。 創一

特攻隊員の遺書 篠崎眞一少佐【妻へ】

 玲子は日本一、否世界一の妻なりと思ってゐる。苦勞のみかけ、厄介ばかりかけ、何等盡し得なかった事済まなく思ってゐる。  四月十五日以来僅な月日であったが、私の一生の半分に價する月日であった。  父母に孝養を盡してくれ、私の分迄。  私に逢ひ度くば空を見よ、飛行機を見よ、軍艦旗を見よ。私は其処に生きてゐる。  結婚のすべての手續き、六月十二日に横空で完了して置いた。  くれぐれも後を賴むよ。私の出来なかった事も玲子には出来る。  後顧の憂、一つなく征ける身の幸福を感謝してゐる。  最愛の玲子、御身を常に見守ってゐるよ。

特攻隊員の遺書 伊藤甲子美伍長【妻へ】

至らない身、お詫びを致します。  季代子 かう呼びかけるのも最後になりました。短かつたけど優しい妻でした。有り難く御礼申し上げます。まこと奇しき縁でしたけど、初めて幸福が訪れた様な気がして嬉しく思つていました。折角永遠の誓ひを致しながら最後になりますのは、何かしら心残りですけど、陛下の御盾として果てる事は、私にとりましても光栄と存じます。  短い生活で、もう未亡人と呼ばれる身を偲ぶとき、申し訳なく死に切れない苦しみが致しますが、すでに覚悟しての事、運命として諦めて頂きたいと思ひます。若い身空で未亡人として果てる事は、決して幸福ではありませんから佳き同伴者を求めて下さい。  私は唯、幸福な生活をして頂きますれば、どんな方法を選ばれませうとも決して悲しみません。  さやうなら季代子、何一つの取り柄のない夫を持つて、さぞ肩身の狭き思ひで有りませう。至らない身、お詫びを致します。  何日の日か幸福な妻にさして上げたく思ひ乍ら、その機会もなく心残りでなりません。  どうぞ御健やかに御暮らし下さいます様、お祈り致しています。さやうなら。

エリック・ナイト【遺書】

私たちは立派な恒久的な平和を作らねばならないことはわかっており、そのためにアメリカが戦後の世界再建の事業における自分の仕事を引き受けるべきなのだ。 わたしたちは、覚悟をきめなければならない・・・ この戦争をわれわれのもてる力の限りを出し尽して戦いぬくことを。  アメリカ 43歳 1943年戦死

アラン・ルイス【遺書】

新年のお便りありがたくいただきました。わたしの身を案じてくださるお言葉は、私をいつも守ってくれるでしょう。 私はこれまでお父さんとお母さんの愛に守られ幸福に過ごしてきました。砲兵隊将校の服を身につけていますが、わたしは昔と変わりません。この「将校の身にこれから何が起ころうとも、私の愛はまずしくなることはなく、純粋さが失われることもないでしょう。 イギリス 29歳 ビルマにて戦死

特攻隊員の遺書 穴沢利夫少尉【恋人へ】

会ひたい、話したい、無性に。  二人で力を合せて努めて来たが終に実を結ばずに終わつた。  希望も持ちながらも心の一隅であんなにも恐れてゐた”時期を失する”といふことが実現して了つたのである。  去月十日、楽しみの日を胸に描きながら池袋の駅で別れたが、帰隊直後、我が隊を直接取巻く状況は急転した。発信は当分禁止された。転々と処を変へつゝ多忙の毎日を送つた。  そして今、晴れの出撃の日を迎へたのである。便りを書き度い、書くことはうんとある。  然しそのどれもが今迄のあなたたの厚情に御礼を言ふ言葉以外の何物でもないことを知る。  あなたの御両親様、兄様、姉様、弟様、みんないい人でした。  至らぬ自分にかけて下さつた御親切、全く月並の御礼の言葉では済み切れぬけれど「ありがたうござゐました」と最後の純一なる心底から言つておきます。  今は徒に過去に於ける長い交際のあとをたどりたくない。問題は今後にあるのだから。  常に正しい判断をあなたの頭脳は与へて進ませてくれることゝ信ずる。  然しそれとは別個に、婚約をしてあつた男性として、散つてゆく男子として、女性であるあなたに少し言つて征きたい。 「あなたの幸を希ふ以外に何物もない。 「徒らに過去の小儀に拘る勿れ。あなたは過去に生きるのではない。 「勇気をもつて過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと。  あなたは今後の一時々々の現実の中に生きるのだ。  穴沢は現実の世界にもう存在しない。  極めて抽象的に流れたかも知れぬが、将来生起する具体的な場面々々に活かしてくれる様、自分勝手な一方的な言葉ではないつもりである。  鈍客観的な立場に立つて言ふのである。  当地は既に桜も散り果てた。大好きな嫩葉の候が此処へは直きに訪れることだらう。  今更何を言ふかと自分でも考へるが、ちよつぷり欲を言つて見たい。  1.読みたい本  「万葉」「句集」「道程」「一点鐘」「故郷」  2.観たい画  ラファエル「聖母子像」、芳崖「悲母観音」  3.智恵子。会ひたい、話したい、無性に。  今後は明るく朗らかに。 自分も負けずに朗らかに笑つて征く。 穴沢少尉には智恵子さんという婚約者がおられた。二人は昭和16年にそれぞれが学生であったときに知り合い、交際を始めた。当時、学生同士の恋愛ははしたないものと言われ

特攻隊員の遺書 宮崎勝少尉【兄弟へ】

妹へ  ヤスコチヤン、トツコウタイノニイサンハシラナイダラウ。ニイサンモ ヤスコチヤンハシラナイヨ。  マイニチ、クウシユウデ コワイダラウ。ニイサンガ カタキヲ ウツテヤルカラ、デカイボカンニタイアタリスルヨ。  ソノトキハ フミコチヤント、ゴウチンゴウチンヲウタツテ、ニイサンヲヨロコバセテヨ。 宮崎少尉はまだ会っていない自分の妹「ヤスコチャン」に遺書を残した。妹たちを想う兄の気持ちが伝わってくる遺書である。

特攻隊員の遺書 大石清伍長【兄弟へ】

妹へ  静(せい)ちやん お便りありがたう。何べんも何べんも読みました。お送りしたお金、こんなに喜んでもらへるとは思ひませんでした。神だな(棚)などに供へなくてもよいから、必要なものは何でも買つて、つかつて下さい。兄ちやんの給料はうんとありますい、隊にゐるとお金を使ふこともありませんから、これからも静ちやんのサイフが空つぽにならない様、毎月送ります。では元気で、をぢさん、をばさんによろしく。 兄ちやんより 大野沢威徳からの手紙(万世基地にて)  大石静恵ちやん、突然、見知らぬ者からの手紙でおどろかれたことと思ひます。わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です。伍長どのは今日、みごとに出げき(撃)されました。そのとき、このお手紙をわたしにあづけて行かれました。おとどけいたします。  伍長どのは、静恵ちやんのつくつたにんぎやう(特攻人形)を大へんだいじにしてをられました。いつも、その小さなにんぎやうを飛行服の背中につつてをられました。ほかの飛行兵の人は、みんなこし(腰)や落下さん(傘)のバクタイ(縛帯)の胸にぶらさげてゐるのですが、伍長どのは、突入する時にんぎやうが怖がると可哀さうと言つておんぶでもするやうに背中につつてをられました。飛行機にのるため走つて行かれる時など、そのにんぎやうがゆらゆらとすがりつくやうにゆれて、うしろからでも一目で、あれが伍長どのとすぐにわかりました。  伍長どのは、いつも静恵ちやんといつしよに居るつもりだつたのでせう。同行二人・・・・仏さまのことばで、さう言ひます。苦しいときも、さびしいときも、ひとりぽつちではない。いつも仏さまがそばにゐてはげましてくださる。伍長どのの仏さまは、きつと静恵ちやんだつたのでせう。けれど、今日からは伍長どのが静恵ちやんの”仏さま”になつて、いつも見てゐてくださることゝ思ひます。  伍長どのは勇かんに敵の空母に体当たりされました。静恵ちやんも、りつぱな兄さんに負けないやう、元気を出してべんきやうしてください。さやうなら 遺書  なつかしい静(しい)ちやん! おわかれの時がきました。兄ちやんはいよいよ出げきします。この手紙がとどくころは、沖なはの海に散つてゐます。思ひがけない父、母の死で、幼い静ちやんを一人のこしていくのは、とてもかなしいのですが、ゆるして下さい。  兄ちや

特攻隊員の遺書 緒方襄中尉【母親へ】

遺詠  出撃に際して 懐しの町懐しの人 今吾れすべてを捨てて 國家の安危に 赴かんとす 悠久の大儀に生きんとし 今吾れここに突撃を開始す 魂魄國に帰り 身は桜花のごとく散らんも 悠久に護國の鬼と化さん いざさらば われは栄ある山桜 母の御もとに帰り咲かなむ ロケット特攻機「桜花」搭乗員の緒方中尉は母機一式陸上攻撃機に搭乗し、鹿屋基地を出撃した。兄も学徒出陣で海軍中尉であった。御国思いの緒方家の兄弟、母は和歌で思いをお互いに伝えており、この遺詠は緒方襄中尉の母に宛てた辞世の句であった。

特攻隊員の遺書 広田幸宣少尉【母親へ】

なつかしい母上様、かあちゃんよ!! 拝啓 たびたびのおたよりうれしく拝見致しました。 この前の便箋七枚の手紙を見ては涙がとめどなくほゝを伝はりました。何回も何回もくりかへして読みました。金送りましたが、こんなによろこんで頂けるとは思ひませんでした。神様などへそなへなくともよろしいですから、すぐ用立てて下さい。少し金持らしくやつて下さい。財布が底抜けにならぬ様一ヵ月に一回は必ず補給します。・・・・・・  私は貯金はこちらでたくさんやつてゐますから、送つた金はぢゃんぢゃん使つて下さい。・・・みかん着いたさうで何よりです。出来たらもつと送りませう。玉ちやんにも小遣ひ出来るだけ送りますからお嫁に行く日の貯金に、  お母さんの書いてよこされたことも近い中にあるかも知れません。こんど金が自由になつたらゆつくりと面会にこられないですか。やがては泊りもありますし、二十四時間のやすみもありますから、ゆつくり話も出来ますし、共に寝ることも出来るわけです。汽車は酔はなければよいのだがなあ。トランク要るなら送つてもよいです。ではお体大切に、 ベッドの中で なつかしい母上様、かあちゃんよ!! 広田少尉は予科練同期3名を含む8名で出撃された。アメリカ側の資料によっても空母フランクリン、軽空母ベロー・ウッドの2隻に大損害を与えている。このような大戦果をあげた勇敢な隊だが、隊員も生身の人間で母を慕う若者の手紙には胸が熱くなる。

特攻隊員の遺書 茂木三郎少尉【母親へ】

遺言(母への言葉)  僕はもう、お母さんの顔を見られなくなるかもしれない。  お母さん、良く顔を見せて下さい。  しかし、僕は何にも「カタミ」を残したくないんです。  十年も二十年も過ぎてから「カタミ」を見てお母さんを泣かせるからです。  お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。  それが僕の別れのあいさつです。 まだまだ若い19歳の予科練出身者である。母を思う心が文面からあふれ出すようである。

特攻隊員の遺書 山口輝夫少尉【父親へ】

「父上の名を呼んで突入します」  御父上様  なんらの孝養すらできずに散らねばならなかった私の運命をお許しください。  急に特攻隊員を命ぜられ、いよいよ本日沖縄の海へむけて出発いたします。命ぜられれば日本人です。ただ成功を期して最後の任務に邁進するばかりです。とはいえ、やはりこのうるわしい日本の国土や、人情に別離を惜しみたくなるのは私だけの弱い心でしょうか。死を決すればやはり父上や母上、祖母や同胞たちの顔が浮んでまいります。だれもが名を惜しむ人となることをねがってやまないと思うと、本当に勇気づけられるような気持がいたします。かならずやります。それらの人々の幻影にむかって私はそう叫ばずにはいられません。  しかし死所を得せしめる軍隊に存在の意義を見出しながら、なお最後まで自己を減却してかからねばならなかった軍隊生活を、私は住み良い世界とは思えませんでした。それは一度娑婆を経験した予備士官の大きな不幸といえましょう。いつか送っていただいた大坪大尉の死生観も、じつは徹し切っているようで、軍隊の皮相面をいったにすぎないような気がします。正を受けて二三年、私には私だけの考え方もありましたが、もうそれは無駄ですから申しません。とくに善良な大多数の国民を偽瞞した政治家たちだけは、いまも心にくい気がいたします。しかし私は国体を信じ愛し美しいものと思うがゆえに、政治家や統師の補弼者たちの命に奉じます。  じつに日本の国体は美しいものです。古典そのものよりも、神代の有無よりも、私はそれを信じてきた祖先たちの純真そのものの歴史のすがたを愛します。美しいと思います。国体とは祖先たちの一番美しかったものの蓄積です。実在では、わが国民の最善至高なるものが皇室だと信じます。私はその美しく尊いものを、身をもって守ることを光栄としなければなりません。  沖縄は五島と同じです。私は故郷を侵すものを撃たねば止みません。沖縄はいまの私にとっては揺籃です。あの空あの海に、かならず母や祖母が私を迎えてくださるでしょう。私はだから死を悲しみません。恐しいとも思いません。ただ残る父上や、多くのはらからたちの幸福を祈ってやみません。父上への最大の不幸は、父上を一度も父上と呼ばなかったことです。しかし私は最初にして最後の父様を、突入寸前口にしようと思います。人間の幼稚な感覚は、それを父上にお伝えするこ