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三遊亭圓楽(5代目)さんの残した言葉【笑点】1932年12月29日~2009年10月29日

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「父が亡くなる間際、私はどういう心境で死に直面しているのかと思い「死ぬことが怖くないか」と訊ねたんです。すると「死ぬなんてたいしたことじゃない。お前らの相手をしなくて済むと思うと気が楽だ」なんて言うのです。最高の遺言でしたね。「死ぬってのは、こんなものか」と受け入れることができた。どんな場面に出くわしても死さえ覚悟できる心意気があれば何てことはない。この遺言が私を支えてくれたのです。」 東京府東京市浅草区出身の落語家。本名、吉河 寛海。 落語円楽党党首、『笑点』司会者、円楽一門会総帥、円楽一門会最高顧問などを歴任した。 演芸番組『笑点』(日本テレビ)の大喜利メンバー・司会者を長く務めていたことで知られる。現役時に所属した芸能事務所は星企画→若竹カンパニー。なお、若竹カンパニーは自身の長男が代表取締役を務める個人事務所であった。身長は177cmと長身である。 若い頃は「星の王子さま」の愛称で親しまれた。端整な顔立ちと博識ぶりにより、1960年代演芸ブームの際には脚光を浴びる。7代目(自称5代目)立川談志、3代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝(柳朝休業後は8代目橘家圓蔵)と共に「落語若手四天王」と呼ばれた。出囃子は『元禄花見踊』。

立川談志さんの残した言葉【落語界の反逆児】1936年1月2日~2011年11月21日

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「よく覚えとけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中がおかしいといったところで仕方ない。 現実は事実だ。」 「酒が人間をダメにするんじゃない。人間はもともとダメだということを教えてくれるものだ。」 「何の職業でもいいのだけれど、そうなれる資格、レベルに自分をもっていく道筋がどうもあやふや。好きなことをやり、それで食えるようになりたい、だからそこに向かって賢明になるはずが、現代はアルバイトで食えてしまう。それは楽なごまかしになっていくのではないだろうか。」 「『執着』『執念』というのが、『好きの虫』のすんでるところです。」 「己に自信の無い奴が常識に従う。不安を持つから動き出す。人生なんて食って、寝て、やって、終わり」 東京府小石川区出身の落語家。落語立川流家元。本名、松岡 克由。 古典落語に広く通じ、現代と古典との乖離を絶えず意識しつつ、長年にわたって理論と感覚の両面から落語に挑み続けた。

桂小金治さんの残した言葉【落語家】1926年10月6日~2014年11月3日

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「それは秘密です」 「一念発起は誰でもする。努力までならみんなする。そこから一歩抜き出るためには、努力の上に辛抱という棒を立てろ。 この棒に花が咲く。」 東京府豊多摩郡杉並町出身の落語家、俳優、タレント。本名は田辺 幹男。 桂小金治事務所所属。帝京商業学校卒業。元俳優の山岸快は孫である。 1947年、2代目桂小文治に入門して落語家となる。 次代の名人候補として将来を嘱望されたが、川島雄三の要請で映画俳優に転身。昭和中期から映画やテレビドラマ、バラエティ番組に数多く出演し、ことにワイドショーの名司会者として名を馳せた。 平成以降は放送メディアに登場する機会は少なくなっていたが、全国各地で講演活動を展開しており、落語を口演する機会もあった。江戸前の歯切れの良い滑舌で、高座では古き良き時代の江戸落語を聴かせていた。

柳家金語楼さんの残した言葉【爆笑王】1901年2月28日~1972年10月22日

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「憎い鶏にはエサを飼え」 喜劇俳優、落語家、落語作家・脚本家、発明家、陶芸家。本名・山下敬太郎。落語家時代の出囃子は『琉球節』。禿頭を売り物にし、エノケン・ロッパと並ぶ三大喜劇人として知られた。戦前は主に吉本興業に所属し、戦後は自ら「金星プロ」を立ち上げた。旧字体による芸名表記は柳家金語樓。 大阪の横山エンタツ・花菱アチャコが新しい形の漫才を演じると、これに触発され、一門の柳家梧楼と柳家緑朗に高座で掛け合いを演じさせた。なお、梧楼・緑朗はのちにリーガル千太・万吉と改称。今日の東京漫才の元祖とされた。

林家三平(初代) さんの残した言葉【爆笑王】1925年11月30日~1980年9月20日

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「明るく、元気に、一生懸命。これが芸の奥義だ。」 「道を行く人がふり返り俺の顔を見て笑った友達に何かささやきまた、二人で笑った。それでいいんだ。この世の中にちょっとでも朗らかに笑える為に役立つこと。それが僕の仕事なんだ。」 落語家。社団法人落語協会理事。 東京市下谷区根岸出身。旧制明治中学卒業、明治大学商学部入学。通称は「根岸」。出囃子は『祭囃子』。 三平は、父正蔵がかつて名乗っていた前座名である。師匠が柳家三語楼なので「三」の字を採った。ただし、上記のように父は柳家なのでその名は「柳家三平」であった。ゆえに父は三平の初代には数えられていない。 また、上方落語の五代目林家正三の弟子、初代露の五郎の若名乗りが「林家三平」だったが、系譜的に別であるため、三平の初代には数えられていない。

林家三平(初代) さんの残した最後の言葉【爆笑王】1925年11月30日~1980年9月20日

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「何でもまじめにやれよ。」 (最後の言葉) 落語家。社団法人落語協会理事。 東京市下谷区根岸出身。旧制明治中学卒業、明治大学商学部入学。通称は「根岸」。出囃子は『祭囃子』。 三平は、父正蔵がかつて名乗っていた前座名である。師匠が柳家三語楼なので「三」の字を採った。ただし、上記のように父は柳家なのでその名は「柳家三平」であった。ゆえに父は三平の初代には数えられていない。 また、上方落語の五代目林家正三の弟子、初代露の五郎の若名乗りが「林家三平」だったが、系譜的に別であるため、三平の初代には数えられていない。

桂歌丸さんの残した言葉【落語家】1936年8月14日~2018年7月2日

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「まだまだ覚えたい話もあるし、落語を引退する気はない。80歳になったらもっと勉強を始めようと思う。笑点のメンバーが上納金をくれるみたいだしね(笑)」 「私たち落語家は、噺でお客さんに楽しんでもらう商売です。肝心なのは、お客さんの頭の中に情景を浮かばせること。欲を言えば、その情景に色をつけて届けたい。」 「いろんな人に言われます。70を過ぎてまで、どうして苦労して新しい噺を覚えるのかって。そりゃあ覚えも悪くなっていくし、挑戦し続けるのはしんどい。でも、最期に目をつむった時に楽な気持ちでありたいんです。『ああ、あの噺もできたのに』なんて後悔しても遅いでしょ。」 「とにかく陽気な噺でお客さんを笑わせるのが一番だと。そういう素直な気持ちになると、不思議と受けるんですね。」 「薄情な人間には薄情な落語しかできない。人情味のある人だから、人情味のある芸ができる。まさに『芸は人なり』なんです。」 「ブームっていうのは必ず落ちる時がきますからね。ブームの時に責任を持たなきゃいけないのは、我々噺家です。上がっていくときは簡単ですが、落ちかけた時いかに長く水平に保ち続けられるか。落語を残すのも噺家の責任、落語のお客様を残すのも噺家の責任なんです。」 「ある種、いい加減にやることは必要。いい加減は『良い加減』ですからね。」 「若い時に苦労をしろ。何年か先に振り替えった時、その苦労を笑い話にできるように努力するんだ。」 「褒める人間は敵と思え。教えてくれる人、注意してくれる人は味方と思え。」 「ニ十歳を過ぎた人間にモノを教えることは何もない。ニ十歳を過ぎた人間は大人だ。ニ十歳を過ぎたら自分で気づくよりほかない。」 「その道が広くなるか狭くなるか。平らな道かデコボコ道か。それは自分の歩き方次第。ことによると、途中で土砂崩れにあうかもしれません。でも、わたしにはこの道しかないんです。」 「どうしたら話がうまくなるのか。逆説的ですが、人の話を聞くことです。人の話を理解しようと努めれば、自分にない人の性質や発言の真意を想像するでしょう。ひいては聞き上手が話し上手になるんです。」 「人を泣かせることと人を怒らせること、これはすごく簡単ですよ。人を笑わせること、これはいっちばん難しいや。」 「修業は一生涯に及びます。ですから、辛抱もまた一生涯ということです。」 日本の落語家...

柳家小さん(5代目)さんの残した最後の言葉【落語家】1915年1月2日~2002年5月16日

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「明日は、いなり寿司が食べたい」 死去前夜、「ちらし寿司が食べたい」と言い、寿司屋から取り寄せて夕食に食べ、「明日は、いなり寿司が食べたい」と言って寝室に行った。翌朝起きてこないので家人が見に行くと、眠ったまま死去していた大往生だった。 (最後の言葉) 長野県長野市出身の落語家、剣道家。本名:小林 盛夫。出囃子は『序の舞』。1995年、落語家として初の人間国宝に認定された。剣道の段位は範士七段。 息子は落語家の6代目柳家小さん。娘は元タレントの小林喜美子。孫は元バレエダンサーで俳優の小林十市と、その弟で落語家の柳家花緑。

三遊亭圓歌(三代目)さんの残した言葉【落語家】1929年1月10日~2017年4月23日

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「僕はお釈迦さまの言葉で『人を見るな、自分を見ろ』という言葉が好きなんです。人は誰でも見られるんです。例えば、夫婦喧嘩をして離婚をしますわな。そうすると、相手の悪いところしか分かんないわけです。自分も何か悪いことをしているのに、そのことを自分で考えないでね。人を見てもダメなんだ、自分を見ろということを自分に言い聞かせているんです。」 日本の落語家、俳優、日蓮宗僧侶。 歌奴時代、黎明期のテレビ演芸番組に多く出演し、1960年代の演芸ブームでは売れっ子芸人の一人に目される。この時の活躍から、初代林家三平と共に「爆笑落語」の時代を築いた人物として後年に知られるようになる。一時期『笑点』の大喜利メンバーとして出演。この頃に自作の「授業中」で人気を博したことから、この時代の世代からは圓歌襲名後も「歌奴」と呼ばれることがあるという。

桂米朝(3代目)さんの残した言葉【落語家】1925年11月6日~2015年3月19日

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「芸能人という言葉が私はどうもいやで、あえて芸人と言い続けて来ています。職業に貴賎はないと言いますが、私は、もし貴賎をつけるとすれば、芸人は絶対に威張れない職業であると思っています。それは物を生産する職業ではないからです」 「芸は人なり。やっぱり大事なんは人間性や」 「その人と同じ位と思えば自分より上、自分より下と思えば自分と同じ位、 自分より上と思えば自分より遥かに上」 「ええか、やっぱり最後は人間やで、人柄や。どんなに上手くなっても、どれだけ売れても、人間性やで。そやさかい、人間を磨いていかなあかんのや」 「芸人はどんなに偉くなっても、つまりは遊民なのです。世の中の余裕、お余りにで生きているのです。」 「大きなことは望まない。泣いたり笑ったりしながら、1日1日が無事に過ぎて、何とか子や孫が無事に育って、自分は年寄りになって、やがて死んでいく。それでいいというような、芸です。」 「この世界、20年演っても受けるとは限らない。もしかしたら、21年目に売れるかもしれないし、一生、売れないかも知れない。ただ、嫌な人間にだけはなるな。」 旧関東州大連市生まれ、兵庫県姫路市出身の落語家。本名、中川 清。出囃子は『三下り鞨鼓』、『都囃子』。俳号は「八十八」。 現代の落語界を代表する落語家の一人で、第二次世界大戦後滅びかけていた上方落語の継承、復興への功績から「上方落語中興の祖」と言われた。

笑福亭松之助(2代目) さんの残した言葉【落語家】1925年8月6日~2019年2月22日

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「悲しいことがあったり元気がなくなったりしている人が、落語とか聴いて、ちょっとでも気持ちが楽になったら、それでええ」 日本の落語家、放送タレント、俳優。本名は明石 徳三。

古今亭志ん駒さんの残した言葉【落語家】 1937年1月2日~2018年1月18日

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「される身になってヨイショは丁寧に。」 埼玉県川口市出身の落語家。本名は徳永 一夫。落語協会所属。同協会理事を2006年から2010年まで務めた。出囃子は『越後獅子』。

柳家小蝠(5代目)さんの残した最後の言葉【落語家】1975年11月16日~2018年1月12日

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「歌丸師匠は大丈夫か」 (最後の言葉) 群馬県高崎市矢中町出身の落語家。落語芸術協会所属。出囃子は『春雨のおくり』または『ああそれなのに』。