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ルシル・ボールさんの残した言葉【アメリカテレビ会の女王】1911年8月6日~1989年4月26日

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「今までは、散らかし放題散らかす側だったけど、これからは掃除もしなくちゃいけない。」 「自分になにができるかを知るより、なにができないかを知ることのほうが重要よ。」 「Love yourself first and everything else falls into place.」 (まずは自分を愛してあげて、そうすれば後は上手くいくから。) 「The secret to staying young is to live honestly,eat slowly, and lie about your age.」 (若くいることの秘訣は、正直に生き、ゆっくり食べ、年齢の鯖を読むことだ。) 「Love yourself first and everything else falls into line. You really have to love yourself to get anything done in this world.」 (最初に自分自身を愛するの。そうすればすべてがあなたを愛するようになる。この世界で何かを成し遂げるには、自分を愛することが必要です。) アメリカのコメディアン、モデル、映画およびテレビの女優、映画会社の重役。 『アイ・ラブ・ルーシー』、『ルーシー・デジ・コメディ・アワー』、『ザ・ルーシー・ショー』、『陽気なルーシー』、『ライフ・ウイズ・ルーシー』などのシットコムの主演で知られ、存命中アメリカで最も人気があり影響力のある人物の1人とされた。またハリウッドで活動期間の長い俳優の1人でもあった。

志村けん さんの残した言葉【バカ殿様】1950年2月20日~2020年3月29日

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「お笑いって基本的にあったかいものだと思うんですよね。」 「(いかりやさんはどんな人だったか?)笑いという事は難しいけど、それに向かって一生懸命だったというのは分かりますね。」 「(お笑いを続けられる理由は?)人の笑顔とか好きなんでしょうね。」 「ドリフターズって言ったら家族みたいなもの。」 「仕事を楽しくするためには、男にしても女にしても好きな人が近くにいた方がいい。だから僕は自分が好きな人を、まずゲストに呼んだり、レギュラーに加えたりする。」 「僕は、女の子の出演者に対しては、早く打ちとけようと思って、スタジオでもすぐに胸やお尻をさわったりする。まわりに誰がいようが関係ないから、『なんだ、あいつは女のケツばっかさわりやがって』と思われてたかもしれないけど、現場がいつもワーキャー言ってるような雰囲気じゃないと、やってる方もなかなかコントを楽しめない。それと、いきなりケツをさわった時にどんな反応をするかというリアクションが気になる。」 「コントは、1人きりでやる落語とはちょっと違う。ドリフみたいにグループでいつも一緒にいる関係ならいいけど、僕と田代と桑野なんかの場合、毎日一緒にいるわけじゃない。せいぜい週に2日。それで当時は一緒にコントをやり始めたばかりだとなると、やっぱり一緒に飲みに行ったりしてワーワーやって、あうんの呼吸でコントをできるようにならないとダメだ。」 「グループの笑いというのは、全員の仲がよくないとうまくいかない。」 「自分自身の絶対条件がクリア出来れば、その他の項目には目をつぶる。人間の欲望や要求にはきりがない。「三割満足で十分」でいけば、世の中腹の立つことも少なくなるだろうし、けっこう丸く収まると思う。」 「『飽きられず、忘れられず』、これがキャラクター・ブランドを長期にわたって維持していくための戦略。」 「一番嫌いなのはおもしろいコントをダーッと並べられることだ。お笑いは並べる順番というか計算が大事だから、そこがわからない人に構成されると、逆に本当につまらないものになっちゃう。」 「ゲストがからむコントは、最初にシチュエーションを考えるのではなく、まず誰がゲストかを考え、この人ならこんなキャラクターということでコントをつくっていった。」 「誰もが思いつきそうなことを、

伴淳三郎さんの残した言葉【バンジュン】1908年1月10日~1981年10月26日

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「若いうちにうんと貧乏を味わいなさい。そして苦しみなさい。悩みなさい。」 昭和期のコメディアン、俳優。息子はスタイリストの山本康一郎。愛称は「バンジュン」。 1951年頃から当時同棲中の清川虹子の仲介により新東宝の斎藤寅次郎監督の一家に入って、本格的に映画に復帰する。1951年、斎藤寅次郎監督、高田浩吉主演の『吃七捕物帖・一番手柄』に出演した折、「アジャジャーにしてパーでございます」が大ウケし、それを短くした「アジャパー」が大流行。 1953年には、主役映画『アジャパー天国』が斎藤寅次郎監督で作られるにいたり、「バンジュン」の愛称で主演映画が次々と封切られる売れっ子スターとなる。

谷啓さんの残した言葉【クレイジーキャッツ】1932年2月22日~2010年9月11日

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「60になってもまだあんなことをやっている、ということをやった方が、人の励みになる。」 「ガチョーン」 日本の俳優、コメディアン、トロンボーン奏者。出生名は、渡部 泰雄。 東京府荏原郡東調布町出身・三鷹市大沢に居住していた。渡辺プロダクション所属。中央大学経済学部中退、中央大学学員会三鷹支部会員。日本トロンボーン協会名誉会員。 写真家の吉田ルイ子は従妹にあたる。 芸名の由来は、アメリカの名コメディアン、ダニー・ケイを日本語風にしたもの。名乗り始めた当初は、「ダニー・ケイを敬う」という意味で『谷敬』だったが、ファンから「谷敬という字はいけません。なぜかというと、谷底でいつも敬っているんじゃ、ずっと底にいることになるから」という指摘を受け、『谷をひらく』という意味の『谷啓』と改名した。ただし、髪型や芸風は、『アボット&コステロ』のルー・コステロに似せている。『クレージーキャッツ』の他のメンバーはみな、ミュージシャン志望で役者になろうとは全然思っていなかったが、ただ一人、谷だけがコメディアン志望でもあった。

ハナ肇さんの残した言葉【クレイジーキャッツ】1930年2月9日~1993年9月10日

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「アッと驚く為五郎」 日本のドラマー、コメディアン、俳優。コミックバンド「ハナ肇とクレージーキャッツ」のリーダーであり、同バンドのドラマでもある。本名は野々山 定夫。東京府北豊島郡長崎町生まれ、工学院大学土木科中退。 妻は、結婚当時日活のスター女優だった島村葉子。

ジョーン・リバーズさんの残した言葉【ハリウッドのご意見番】1933年6月8日~2014年9月4日

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「よりよいものを目指して進む。それが自分に対する最高のご褒美です。」 アメリカ合衆国のコメディアン、女優、作家、プロデューサー、テレビ司会者である。

たこ八郎さんの残した言葉【コメディアン】1940年11月23日~1985年7月24日

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「めいわくかけてありがとう」 日本のプロボクサー・コメディアン・俳優。別名:太古 八郎。プロボクサーとして日本フライ級王座を獲得している。ボクサー現役時の愛称は河童の清作。コメディアンや俳優転向してからの愛称はたこちゃん。座右の銘は「迷惑かけてありがとう」。 本名:斎藤 清作。宮城県仙台市宮城野区新田出身。

ポール牧さんの残した言葉【指パッチン】1941年8月2日~2005年4月22日

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「ドーランの 下に涙の 喜劇人」 日本のコメディアン、タレント、俳優、元僧侶。北海道天塩郡天塩町出身。実家は曹洞宗寺院。北海道天塩高等学校卒業。血液型はAB型。 本名は榛澤一道。僧名は熈林一道。 関武志とともにコント・ラッキー7を結成し人気を博した。リズム良く指を鳴らす「指パッチン」で知られた。

植木等さんの残した言葉【コメディアン】1926年12月25日~2007年3月27日

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「わかっちゃいるけど、やめられない!」 「やらなければならないことと、やりたいことは違う。」 日本の俳優、コメディアン、歌手、ギタリスト、タレント。「ハナ肇とクレージーキャッツ」のメンバー。仲間内での愛称は「ボンさん」「植木屋」「植木やん」。 長男は作曲家の比呂公一。妹の夫に部落問題研究者の川村善二郎。御木本幸吉は、父方の祖母の親類にあたる。

いかりや長介さんの残した言葉【コメディアン】1931年11月1日~2004年3月20日

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「『ありがとう』の言える人間になりなさい。『ごめんなさい』の言える人間になりなさい。嘘をつくような人間にはならないこと。」 「遠くない未来に、素人いじりや他人をこき下ろすコメディがこの世からなくなることを信じている。」 「だめだこりゃ!」 日本のコメディアン、タレント、俳優、司会者、ベーシスト、ミュージシャン。 「ザ・ドリフターズ」の3代目リーダー。本名:碇矢 長一。 愛称は「長さん」。ドリフ時代初期は芸名を「いかり矢 長介」としていた。ドリフ映画で使われる呼び名は「ゴリラ」「下唇」。 東京府東京市本所区中之郷横川町生まれ。

坂上二郎さんの残した言葉【コメディアン】1934年4月16日~2011年3月10日

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「飛びます!飛びます!」 「夢は諦めたら消えちゃう。だから諦めたらいけない」 日本のコメディアン、俳優、歌手。鹿児島県鹿児島市出身。浅井企画所属。通称「二郎さん」。

荒井注さんの残した最後の言葉【コメディアン】1928年7月30日~2000年2月9日

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「今度は医者の言うことをよく聞いて、早く飲んでも良いってお墨付きをもらってくるから、一緒に飲もう」 (いかりや長介さんへ) (最後の言葉) 日本の俳優、タレント、コメディアン。本名、荒井 安雄。 東京都出身。ドリフでの呼び名は「ハゲ」「ハゲ注」。

荒井注さんの残した言葉【コメディアン】1928年7月30日~2000年2月9日

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「何だバカヤロウ!」 日本の俳優、タレント、コメディアン。本名、荒井 安雄。 東京都出身。ドリフでの呼び名は「ハゲ」「ハゲ注」。

三木のり平さんの残した言葉【コメディアン】1924年4月11日~1999年1月25日

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「深さとか重さ。そこまでいかないと心の底から笑えない」 日本の俳優・演出家・コメディアン。日本喜劇人協会第5代会長。本名、田沼 則子。長男は、コメディアンの小林のり一。

南利明さんの残した言葉【コメディアン】1924年3月14日~1995年1月13日

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「ハヤシもあるでよ」 日本の喜劇俳優。本名は野津 俊三。

榎本健一さんの残した最後の言葉【コメディアン】 1904年10月11日~1970年1月7日

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「ドラが鳴ってるよ、早くいかなきゃ」 最後の言葉 日本の俳優、歌手、コメディアンである。当初は浅草を拠点としていたが、エノケンの愛称で広く全国に知られていった。「日本の喜劇王」とも呼ばれ、第二次世界大戦期前後の日本で活躍した。

榎本健一さんの残した言葉【コメディアン】 1904年10月11日~1970年1月7日

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「最初から喜劇と考えないで、まともな芝居を基本にして、それから喜劇をやってもらいたい。」 「あくまでも大衆の中で私は生きたい。」 「何もしなくても笑わせる。そう一般大衆が見てくれるようになるのが努力。」 「死ぬよりも、生きているほうがよっぽど辛いときが何度もある。それでもなお生きていかねばならないし、また生きる以上は努力しなくてはならない。」 「喜劇を演ろうと思ってやっても、喜劇にはならないよ。」 日本の俳優、歌手、コメディアンである。当初は浅草を拠点としていたが、エノケンの愛称で広く全国に知られていった。「日本の喜劇王」とも呼ばれ、第二次世界大戦期前後の日本で活躍した。