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永峰肇さんの残した辞世の句【神風特別攻撃隊】1925年4月1日~1944年10月25日

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「南溟に たとえこの身が 果つるとも いくとせ後の 春を想へば」 (たとえ南方の大海にこの身が果てたとしても 何年もの後の春を想えば) (辞世の句) 大日本帝国海軍軍人。 貧しい農家の長男として学費をかけず勉強し、地元では優秀な子として知られていた。1944年(昭和19年)神風攻撃隊敷島隊四番機として出撃、散華。19歳の若さでなくなった。

芥川比呂志さんの残した最後の言葉【劇団四季の名付け親】1920年3月20日~1981年10月25日

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「おまえはおれに遠慮してコーヒーを飲まないようだけど、飲んでいいんだよ。」 (コーヒーの大好きな彼であったが、肺結核と診断されて以来、30年間、健康のため1回も口にしなかった。奥さんも夫の前では、決してコーヒーを飲まなかったという。) (最後の言葉) 日本の俳優、演出家。 東京府東京市滝野川区田端出身。作家・芥川龍之介の長男。母は海軍少佐の塚本善五郎の娘・文。妻は、龍之介の次姉・ヒサの長女で、従姉にあたる芥川瑠璃子。

岩谷時子さんの残した言葉【愛の讃歌】1916年3月28日~2013年10月25日

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「右手だけでは何も書けない。左手で紙をおさえて初めて字が書ける。左手あってこそ右手が自由に働ける。夫婦も友人も人間はみな互いに右手と左手のようなものなのかもしれない。」 日本の作詞家、詩人、翻訳家。本名:岩谷 トキ子。歌手・越路吹雪のマネージャーを務めたことでも知られる。 マネージャーとして活動する一方で、1952年に越路が出演していたシャンソンショー「巴里の唄」の劇中歌として『愛の讃歌』で時子にとって自身初めてとなる訳詞・作詞をした。以降、『愛の讃歌』をはじめとする越路が歌うシャンソンの訳詞を手がけたのをきっかけとして作詞家・訳詞家としても歩み始める。ザ・ピーナッツ『恋のバカンス』、岸洋子『夜明けのうた』、弘田三枝子『夢見るシャンソン人形』、沢たまき『ベッドで煙草を吸わないで』、園まり『逢いたくて逢いたくて』、加山雄三『君といつまでも』、佐良直美『いいじゃないの幸せならば』、ピンキーとキラーズ『恋の季節』など数多くのヒット曲を生み出してきた。

遠藤賢司さんの残した言葉【不滅の男】1947年1月13日~2017年10月25日

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「そう俺が死んだ時 俺の凄さが解かるだろ」 (『俺が死んだ時』から) 茨城県ひたちなか市出身・東京在住のシンガーソングライター・ミュージシャン。自称「純音楽家」。愛称は「エンケン」。 主に扱う楽器はアコースティックギター、エレクトリックギター、ブルースハープ。ほかにも、ウクレレ、ピアノ、ドラムなどの楽器を演奏する。自身のほぼ全ての楽曲の作詞、作曲も手がける。 「純音楽」をキーワードに活動。代表曲に、「夜汽車のブルース」「満足できるかな」「カレーライス」「東京ワッショイ」「不滅の男」「夢よ叫べ」などがある。好きな食べ物はカレーライス。猫好きで、歌詞中に猫の登場する楽曲も数多い。

サラ・アンツァネッロさんの残した言葉【イタリア女子バレー代表】 1980年7月30日~2018年10月25日

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「私は戦うためにここにいます。決してあきらめることはありません。」 (病院のベッドで) イタリアの女子バレーボール選手。サン・ドナ・ディ・ピアーヴェ出身。ポジションはミドルブロッカー。元イタリア代表。 1998年にイタリア代表に選出され、2002年世界選手権、2007年ワールドカップで金メダルを獲得した。2005年欧州選手権では準優勝を飾った。 セリエAの所属クラブでは、アシステル・ノヴァーラ在籍時の2004年にコッパ・イタリアで優勝、2009年に移籍したGSOヴィッラ・コルテーゼでもコッパ・イタリアで優勝を飾った。 2013年、アゼルバイジャンで重篤な肝炎に。2017年半ばには、白血病と診断。1年後の2018年10月25日、38歳で亡くなりました。

故人が残した名言集【10月25日】

サラ・アンツァネッロさんの残した言葉【イタリア女子バレー代表】 1980年7月30日~2018年10月25日 「私は戦うためにここにいます。決してあきらめることはありません。」 (病院のベッドで) イタリアの女子バレーボール選手。サン・ドナ・ディ・ピアーヴェ出身。ポジションはミドルブロッカー。元イタリア代表。 1998年にイタリア代表に選出され、2002年世界選手権、2007年ワールドカップで金メダルを獲得した。 2005年欧州選手権では準優勝を飾った。 セリエAの所属クラブでは、アシステル・ノヴァーラ在籍時の2004年にコッパ・イタリアで優勝、2009年に移籍したGSOヴィッラ・コルテーゼでもコッパ・イタリアで優勝を飾った。 2013年、アゼルバイジャンで重篤な肝炎に。 2017年半ばには、白血病と診断。 1年後の2018年10月25日、38歳で亡くなりました。 遠藤賢司さんの残した言葉【不滅の男】1947年1月13日~2017年10月25日 「そう俺が死んだ時 俺の凄さが解かるだろ」 (『俺が死んだ時』から) 茨城県ひたちなか市出身・東京在住のシンガーソングライター・ミュージシャン。自称「純音楽家」。愛称は「エンケン」。 主に扱う楽器はアコースティックギター、エレクトリックギター、ブルースハープ。ほかにも、ウクレレ、ピアノ、ドラムなどの楽器を演奏する。 自身のほぼ全ての楽曲の作詞、作曲も手がける。 岩谷時子さんの残した言葉【愛の讃歌】1916年3月28日~2013年10月25日 「右手だけでは何も書けない。左手で紙をおさえて初めて字が書ける。左手あってこそ右手が自由に働ける。夫婦も友人も人間はみな互いに右手と左手のようなものなのかもしれない。」 日本の作詞家、詩人、翻訳家。本名:岩谷 トキ子。歌手・越路吹雪のマネージャーを務めたことでも知られる。 マネージャーとして活動する一方で、1952年に越路が出演していたシャンソンショー「巴里の唄」の劇中歌として『愛の讃歌』で時子にとって自身初めてとなる訳詞・作詞をした。以降、『愛の讃歌』をはじめとする越路が歌うシャンソンの訳詞を手がけたのをきっかけとして作詞家・訳詞家としても歩み始める。 ザ・ピーナッツ『恋のバカンス』、岸洋子『夜