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ジョナ・ロムーさんの残した最後の言葉【史上最強のラガーマン】 1975年5月12日~2015年11月18日

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「I don’t fear nobody. It’s just the way I attacked life. This disease is a challenge but you either lie down and die or you accept it and carry on. That’s where I have been very fortunate. I have just never been able to accept coming second to anybody or anything, including an illness. You have to try and stay up and be happy and positive about it, 」 オレは相手が何であろうと恐れない。それがオレの生き方だ。病気にひれ伏して死ぬか。運命を受け入れて前進するか。これはチャレンジなんだ。幸運なことに、オレはこれまで一度たりとも『負け』を認めた事はなかった。相手が誰であれ、何であれ。それがたとえ病気であってもだ。挑み続けろ。上を向け。そして幸せを感じろ。そして常に、前向きに。 (最後のインタビュー) ニュージーランド出身の元ラグビー選手である。ポジションはウィング。 トンガの家系をもちオークランドに生まれる。オークランドのウェズリーカレッジ卒業。「暴走機関車」「空飛ぶ巨象」と呼ばれ、WTBとして活躍。高校時代からニュージーランドU-17代表、U-19代表、U-21代表を経て1994年には史上最年少の19歳でラグビーニュージーランド代表(オールブラックス)に選出される。オールブラックスでは63キャップ、37トライ、ワールドカップ15トライを記録。 1995年のラグビーワールドカップへ出場するも決勝戦で南アフリカに敗れ準優勝に終わる。ロムーは同大会で7トライをあげトライ王に輝く。1996年はスポンサーのリーボックのイベントを兼ねて来日し、同年南アフリカツアーに参加するも、怪我とネフローゼ症候群に悩まされ、1997年シーズンは数試合に出場するも、残りの試合を欠場。1998年コモンウェルスゲームズ7人制ラグビーニュージーランド代表として出場し金メダルを獲得する。1999年に開催されたラグビーワールドカップに出場し8トライをあげ...

ジョナ・ロムーさんの残した言葉【史上最強のラガーマン】 1975年5月12日~2015年11月18日

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「苦痛はすぐに終わるが、栄光は一生続く」 ニュージーランド出身の元ラグビー選手である。ポジションはウィング。 トンガの家系をもちオークランドに生まれる。オークランドのウェズリーカレッジ卒業。「暴走機関車」「空飛ぶ巨象」と呼ばれ、WTBとして活躍。高校時代からニュージーランドU-17代表、U-19代表、U-21代表を経て1994年には史上最年少の19歳でラグビーニュージーランド代表(オールブラックス)に選出される。オールブラックスでは63キャップ、37トライ、ワールドカップ15トライを記録。 1995年のラグビーワールドカップへ出場するも決勝戦で南アフリカに敗れ準優勝に終わる。ロムーは同大会で7トライをあげトライ王に輝く。1996年はスポンサーのリーボックのイベントを兼ねて来日し、同年南アフリカツアーに参加するも、怪我とネフローゼ症候群に悩まされ、1997年シーズンは数試合に出場するも、残りの試合を欠場。1998年コモンウェルスゲームズ7人制ラグビーニュージーランド代表として出場し金メダルを獲得する。1999年に開催されたラグビーワールドカップに出場し8トライをあげるもチームは準決勝で敗退。3位決定戦にも破れ4位に終わる。ロムーは同大会トライ王に輝く。この大会後にアメリカのNFL、イングランドのプレミアシップへの移籍も噂されたが、オールブラックスでの競技生活を優先するためニュージーランドに留まる。

平尾誠二さんの残した言葉【ミスター・ラグビー】1963年1月21日~2016年10月20日

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「ラグビーボールを持って走るのは得意でも、タックルが苦手な選手がいたとします。わかりやすく走力80点、タックル30点としましょう。日本の多くの指導者は、タックル技術を上げることに力を注ぐはず。でも、不得意なタックルを鍛えても、せいぜい60点程度。高度化した現代のラグビーのゲームでは、60点のクオリティのタックルなんて通用しません。私は、むしろ選手の好きなこと、得意な技術を伸ばしたい。ボールを抱えての走力は90点以上まで伸びますよ。そして、リーダーは本番の試合で、彼をいかに多く走らせるかを考えればいい。その分をタックルが得意な選手がカバーできる形にすれば大丈夫。」 「私はプレイを貫く軸を、ミスをなくすという考え方よりも、チャンスを生かすほうに置いています。取られたら取り返せばいいじゃないですか。ミスしないことに意識を向けていると、プレーの選択肢が少なくなるだけ。私は選手に自分達のチャンスがあったら全部攻めろ、と指示します。だから、少々の失点は怖くない。」 「決め事は少なくても、本質的な幹がしっかりしていれば、枝葉は自由に変えられる。周囲の状況が変わったら、すぐに対応できるチームワーク。それが本当の強さ。」 「部下に話を伝えるのが下手なリーダーは、ほとんどの場合リーダー側の受信機が問題です。そこをみんな間違えるんです。何かを伝えようと思ったら、まず相手の一挙手一投足に注意を払い、いまどんな精神状態にあるのか、性格はどんなタイプなのかといったことを見極める。話すのが苦手という人は、説得力より洞察力の方に磨きをかけるべきなのです。」 「普段から部下のことをよく観察しておくことが大事です。それによって、同じ『大丈夫です』という返事を聞いても、声の感じから、『本音は不安なんだな』とか、『今日は自信がありそうだな』というようなことまで察することができるようになります。そうして、相手の気持ちや何を考えているのかを掴んだうえで、それに応じた話し方をすると、伝わりやすさは段違いに高まります。」 「どんなに正しいことを言っても、それを相手が実践しようと思わなければ意味がありません。相手がやる気になって初めて、自分の言いたいことが伝わったことになるのです。ですからリーダーは、何を話すかだけでなく、どう話せばもっと部下が関心を示してくれるか、どうすればより伝わるかを考え、表現の仕方...

上田昭夫さんの残した言葉【ラグビー選手】1952年10月12日~2015年7月23日

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「日本一の思い出を話しても何の役にも立たない。」 日本のラグビー選手及び指導者。元日本代表でキャップ6。元慶應義塾體育會蹴球部監督。フジテレビジョン社員としてニュースキャスターを務めたことでも知られる。身長160cm、体重60kg。 1984年、母校の慶大監督に就任。同年度の関東大学ラグビー対抗戦(以下、対抗戦)で優勝に導く。その後、全国大学ラグビーフットボール選手権大会では決勝に進出し、同大会3連覇を狙う同志社大学と対戦。同志社有利という下馬評の中、最後まで健闘したが、6-10で惜敗した。 翌1985年度は後に日本代表選手となる松永敏宏、村井大次郎に加え、玉塚元一らが卒業した影響もあり、対抗戦ではまさかの4位に甘んじ、かろうじて、大学選手権の出場権をかけた、リーグ戦グループとの交流試合へと駒を進めた。すると、この試合で同年度のリーグ戦を制した日本大学を破って大学選手権出場を決めると、大学選手権では大阪体育大学、早稲田大学を破って決勝進出。決勝は同年度に対抗戦で優勝した明治大学と対戦し、一進一退の攻防の末、12-12で引き分け。慶大として1968年度以来となる大学日本一を果たしたが、1986年1月15日に行われる日本選手権の出場権は、大学選手権決勝翌日の抽選の結果、慶大が出場権を得た。 迎えた日本選手権は、当時、上田自身がまだ在籍していたトヨタ自動車が相手。また、トヨタ自動車の当時の監督は、選手として上田とともに8年前の日本一を経験した境政義という、因縁尽くしの対戦となったが、18-13で制し、大学チームとしては、1975年度の明治大学以来、史上5校目となるラグビー日本一をもらたした。日本一となった試合の主な選手には、生田久貴、福澤克雄などがいた。なお、日本一を決めた試合を最後に、上田は慶大監督を退任した。

上田昭夫さんの残した最後の言葉【ラグビー選手】1952年10月12日~2015年7月23日

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最後のブログ 2015年06月30日 ああ・・・ 先週の木曜日から体調が良くなく・・・。 気温の変化に体が対応出来ない。 そこで、昨日から調整入院。 輸血をして、気温も安定。 楽になった。 日本のラグビー選手及び指導者。元日本代表でキャップ6。元慶應義塾體育會蹴球部監督。フジテレビジョン社員としてニュースキャスターを務めたことでも知られる。身長160cm、体重60kg。 1984年、母校の慶大監督に就任。同年度の関東大学ラグビー対抗戦(以下、対抗戦)で優勝に導く。その後、全国大学ラグビーフットボール選手権大会では決勝に進出し、同大会3連覇を狙う同志社大学と対戦。同志社有利という下馬評の中、最後まで健闘したが、6-10で惜敗した。 翌1985年度は後に日本代表選手となる松永敏宏、村井大次郎に加え、玉塚元一らが卒業した影響もあり、対抗戦ではまさかの4位に甘んじ、かろうじて、大学選手権の出場権をかけた、リーグ戦グループとの交流試合へと駒を進めた。すると、この試合で同年度のリーグ戦を制した日本大学を破って大学選手権出場を決めると、大学選手権では大阪体育大学、早稲田大学を破って決勝進出。決勝は同年度に対抗戦で優勝した明治大学と対戦し、一進一退の攻防の末、12-12で引き分け。慶大として1968年度以来となる大学日本一を果たしたが、1986年1月15日に行われる日本選手権の出場権は、大学選手権決勝翌日の抽選の結果、慶大が出場権を得た。 迎えた日本選手権は、当時、上田自身がまだ在籍していたトヨタ自動車が相手。また、トヨタ自動車の当時の監督は、選手として上田とともに8年前の日本一を経験した境政義という、因縁尽くしの対戦となったが、18-13で制し、大学チームとしては、1975年度の明治大学以来、史上5校目となるラグビー日本一をもらたした。日本一となった試合の主な選手には、生田久貴、福澤克雄などがいた。なお、日本一を決めた試合を最後に、上田は慶大監督を退任した。

ユースト・ファン・デル・ヴェストハイゼンさんの残した言葉【ラグビー選手】1971年2月20日~2017年2月6日

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「人生は生きた年数の量ではなく、作られた思い出の量によって評価されるのです。」 (最後の言葉) 1990年代後半の南アフリカ共和国のオランダ系の元ラグビー選手。ポジションはスクラムハーフ。南アフリカ代表でのキャップ数は89を数える。ラグビーのプロ化が進んだ90年代で世界最高のスクラムハーフと言われている。

ユースト・ファン・デル・ヴェストハイゼンさんの残した最後の言葉【ラグビー選手】1971年2月20日~2017年2月6日

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「私はこの困難に立ち向かう。たとえそれが、私にできる最後のことだとしても」 (最後の言葉) 1990年代後半の南アフリカ共和国のオランダ系の元ラグビー選手。ポジションはスクラムハーフ。南アフリカ代表でのキャップ数は89を数える。ラグビーのプロ化が進んだ90年代で世界最高のスクラムハーフと言われている。