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エレノア・ルーズベルトさんの残した言葉【世界のファースト・レディ】1884年10月11日~1962年11月7日

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「If life were predictable it would cease to be life, and be without flavor.」 (人生が予測可能だった場合、それは人生でなくなり、風味がなくなります。) 「Do what you feel in your heart to be right – for you’ll be criticized anyway.」 (あなたの心が正しいと思うことをしなさい。どっちにしたって批判されるのだから。) 「The future belongs to those who believe in the beauty of their dreams.」 (未来は美しい夢を信じる人のためにあります。) 「Life was meant to be lived, and curiosity must be kept alive. One must never, for whatever reason, turn his back on life.」 (人生は生きることが大事なのです。いつも好奇心を持ち続けることです。どんな理由があっても決して人生に背を向けてはいけません。) 「A woman is like a tea bag; you never know how strong it is until it’s in hot water.」 (女はティーバックみたいなもの。熱湯につけられてはじめて、その強さに気づくのです。) 「Beautiful young people are accidents of nature, but beautiful old people are works of art.」 (若くて美しいことは、自然のいたずら。年をとっても美しいことは芸術です。) 「One’s philosophy is not best expressed in words; it is expressed in the choices one makes … and the choices we make are ultimately our responsibility.」 (人の生き方を一番よく表すのは、言葉ではありません。それは、そ

田中久重さんの残した言葉【東洋のエジソン】1799年10月16日~1881年11月7日

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「国家に有用なる機械をせいぞうして奉公の誠を尽くし、世の公益を広めん。」 「そう言うべからず。これも国のためであり、人助けにもなることたい」 「余は、今有用なる機械を製造して、世の公益を広めんことを願う他に一点の利欲なし。」 「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである。」 江戸時代後期から明治にかけての発明家。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれた。芝浦製作所の創業者。 天保5年(1834年)には上方へ上り、大坂船場の伏見町(大阪市中央区伏見町)に居を構えた。同年に折りたたみ式の「懐中燭台」、天保8年(1837年)に圧縮空気により灯油を補給する灯明の「無尽灯」などを考案した。その後京都へ移り、弘化4年(1847年)に天文学を学ぶために土御門家に入門。嘉永2年(1849年)には、優れた職人に与えられる「近江大掾」の称号を得た。翌嘉永3年(1850年)には、天動説を具現化した須弥山儀を完成させた。この頃に蘭学者の廣瀨元恭が営む「時習堂」に入門し、様々な西洋の技術を学ぶ。嘉永4年(1851年)には、季節によって昼夜の時刻の長さの違う不定時法に対応して文字盤の間隔が全自動で動くなどの、様々な仕掛けを施した「万年自鳴鐘」を完成させた。

越路吹雪さんの残した最後の言葉【シャンソンの女王】1924年2月18日~1980年11月7日

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「いっぱい恋をしたし、おいしいものを食べたし、歌も歌ったし、もういいわ」 (最後の言葉) 日本のシャンソン歌手、舞台女優。元宝塚歌劇団男役トップスター。 愛称は「コーちゃん」「コッシー」。 所属レコード会社は日本コロムビア→東芝音楽工業。 越路の活躍の裏には、マネージャーとして最期まで支え、21世紀に入っても現役で活躍していた岩谷時子の存在が大きかった。岩谷が宝塚出版部に勤めていた頃に15歳の越路と知り合い、意気投合した。越路が宝塚を辞めた際に岩谷も一緒に退社、共に上京し東宝に所属。東宝の社員として籍を置いたまま越路のマネージャーも務めた(岩谷は1963年に東宝を退社)。岩谷は自身が作詞家として成功を収めた後も、自分の本業を聞かれるたび「越路吹雪のマネージャー」と答えていた。 越路と岩谷が初めて接触したのは、新人だった越路が自分のサインの見本を書いてほしいと岩谷に相談を持ちかけたときだった。このとき2人でつくったサインを越路は終生使い続け、越路が忙しくなってからは岩谷が「代筆」することもよくあったという。 その後、岩谷は気づけば越路の付き人の役割を担っており、ある日の舞台が終わったあと、越路は不器用ながらも小道具の手入れをする岩谷を見て、「時子さんもどこか抜けているし、私も抜けている、二人でやっと一人前だよね」と言ったという。 宝塚時代から、靴や洋服など欲しいものがあればどんどん買ってしまい、よく給料を前借りしていた越路は、東宝に移籍するときには歌劇団に借金が残っていた。その浪費癖を重々承知していた岩谷は、1978年、越路がパリにアルバムのレコーディングに赴くにあたり、レコード会社の担当ディレクターに「(所持金が)足りなくなったら使ってほしい」とこっそり現金を託した、という話も残っている。 また岩谷はマネージャー業の傍ら、越路の「日本語でしか歌いたくない」という求めに応じて越路が歌うシャンソンなど外国曲の訳詞を担当し、越路の代表曲である『愛の讃歌』『ラストダンスは私に』『サン・トワ・マミー』『ろくでなし』などは岩谷の優れた訳詞によりヒットへ導かれた。越路が亡くなるまで約30年間に渡りマネージャーを務めた岩谷だが、「越路のことが好きで支えていた」と語り、マネージャーとしての報酬は一切受け取っていなかったという。 越路吹雪がこの世を

左幸子さんの残した遺言【女優】1930年6月29日~2001年11月7日

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「命懸けでやりなさい」 (妹(左時枝)への遺言) 日本の女優。富山県下新川郡朝日町出身。本名、額村幸子。 妹は同じく女優左時枝。元夫は映画監督の羽仁進。娘はエッセイストの羽仁未央。 私生活では、1959年に映画監督の羽仁進と結婚。1964年に長女・未央を出産。しかし、1973年に羽仁が未央を連れてアフリカに長期撮影旅行に出かけた際、これに未央とともに同行した左の実妹(四女)で当時羽仁のマネージャー務めていた額村喜美子と不倫関係にあったことを人づてに知り、ショックを受け自殺を図るが事なきを得た。このこともあり1977年、離婚し未央は父側に付き、羽仁はその4ヶ月後の11月8日、喜美子と再婚した。 1985年、胃癌のため胃の一部を切除するも体調が回復せず長く療養生活を送る。1991年に舞台『糸女』でカムバックを果たしたが、その後はバラエティ番組へのゲスト出演が活動の中心になっていった。晩年は『快傑熟女!心配ご無用』のレギュラーパネリストとして出演している。

徳大寺有恒さんの残した言葉【自動車評論家】1939年11月14日~2014年11月7日

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「イギリスのクルマは最高を求めない。『たかがクルマじゃないか』と思っているところがいい」 「キャディ(キャデラック)の味はキャディでなければ得られないのだ。その味をよしとすればメルツェデスにその代役はつとまらないのだ。今、外国車に乗るということはその味を買うことだろうと思う。機能を買うなら多くの国産車がそれを果たしてくれるし、経済的でもある。しかし味は買えない。」 「スズキというメーカーはおもしろい。まずカッコをつけない。これがいいと思う。そして、案外強固な自分の意思を持っていて、それを信じているように思える。こういうメーカーは案外少ない。」 「MR-Sのようなクルマの楽しさは、これに乗ってどこに行こうかといろいろ想像できるところだ。MR-Sはいま流行のミニヴァンが失ってしまった、クルマとして最も大事なものを持っている。」 「やっぱり、イタリア車には、ほかの国のクルマにはない人間的な魅力があるからじゃないかな。壊れないとかさ、そんなことばっかり大事にしていないで、気持よく走るとか、いい音を聞かせるとか、そういうクルマなんだよ。だから、人間がわざわざ乗る甲斐がある。」 「『これ1台あれば、オレは十分だ』と考える人たちが増えたからこそ、ユーノスは日本で月から3000台も売れる。この種のクルマをセカンドカーだと思わない人たちが増えてきたというのは日本のモータリゼーションの大きな変化を示している。」 「ジャグァーはもともと『貴族の出』ではない。ジェントリーが貴族に憧れて、貴族以上に貴族らしくふるまうのと同じように、高級車に憧れて、高級車以上に高級車たらんとしたのである。そうして生まれ育ってきたからこそ、ジャグァーが発するメッセージは『上品であれ、紳士たれ』なのだ。」 日本の自動車評論家。元・レーシングドライバー。本名 及び 旧ペンネームは、杉江 博愛。 自動車評論家という職業柄、膨大な台数の車を購入しては手放した。外国車を中心に常時5-6台を所有していた。小型スポーツ車から大型セダンまで旧い英国車が好みで、1990年代には旧車を中心にイギリス車、日本車、イタリア車、フランス車、アメリカ車など数台を所有した。 SUVではミドルサイズのダッジダコタを導入したり、またドイツ車はメルツェデスのSLなどを所有したりと嗜好の幅が広く、多くの読者を生んでいる。フラン

宇江佐真理さんの残した言葉【髪結い伊三次捕物余話】1949年10月20日~2015年11月7日

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「誰でも年を取るのよ。でも、ただ老いぼれて行くのはつまらない。自分ができることを見つけ、楽しく暮らさなきゃ。それで、本当に死ぬ時は、ああおもしろかった、楽しかったと言って死ぬのよ」 日本の時代小説作家。本名、伊藤 香。代表作にシリーズ化・テレビドラマ化された『髪結い伊三次捕物余話』など。 北海道函館市生まれ。北海道函館中部高等学校在学中より創作を始める。函館大谷女子短期大学(現・函館大谷短期大学)卒業。OL生活を経て、主婦となる。 1995年、「幻の声」でオール讀物新人賞を受賞しデビュー。同賞の選考委員の一人から、伊三次(「幻の声」の主人公)を主人公に据えた連作が可能である、との意見をもらい連作化された。同作品を含んだ連作短編集『幻の声 髪結い伊三次捕物余話』は直木賞候補にもなり注目される。なおペンネーム「宇江佐真理」は「ウエザ・リポート」というタイトルでエッセイを書くために決めたため、その名に拘りはなく、本名を隠蔽することさえできればよかった。 1999年、「髪結い伊三次捕物余話」シリーズが『髪結い伊三次』としてテレビドラマ化される。 2014年1月刊の文春文庫版『心に吹く風』のあとがきで、乳癌であり全身に転移していることを告白した。これが反響を呼び、翌年1月、『文藝春秋』誌上に闘病記「私の乳癌リポート」を発表(文春文庫版『見上げた空の色』収録)した。11月7日、乳癌のため函館市の病院で死去。66歳没。 遺作となった朝日新聞夕刊の連載小説『うめ婆行状記』(2016年1月12日開始)は、故人の遺志により2016年3月15日掲載分をもって「未完」として終了した。

故人が残した名言集【11月7日】

宇江佐真理さんの残した言葉【髪結い伊三次捕物余話】1949年10月20日~2015年11月7日 「誰でも年を取るのよ。でも、ただ老いぼれて行くのはつまらない。自分ができることを見つけ、楽しく暮らさなきゃ。それで、本当に死ぬ時は、ああおもしろかった、楽しかったと言って死ぬのよ」 日本の時代小説作家。本名、伊藤 香。代表作にシリーズ化・テレビドラマ化された『髪結い伊三次捕物余話』など。 徳大寺有恒さんの残した言葉【自動車評論家】1939年11月14日~2014年11月7日 「イギリスのクルマは最高を求めない。『たかがクルマじゃないか』と思っているところがいい」 「キャディ(キャデラック)の味はキャディでなければ得られないのだ。その味をよしとすればメルツェデスにその代役はつとまらないのだ。今、外国車に乗るということはその味を買うことだろうと思う。機能を買うなら多くの国産車がそれを果たしてくれるし、経済的でもある。しかし味は買えない。」 「スズキというメーカーはおもしろい。まずカッコをつけない。これがいいと思う。そして、案外強固な自分の意思を持っていて、それを信じているように思える。こういうメーカーは案外少ない。」 「MR-Sのようなクルマの楽しさは、これに乗ってどこに行こうかといろいろ想像できるところだ。MR-Sはいま流行のミニヴァンが失ってしまった、クルマとして最も大事なものを持っている。」 「やっぱり、イタリア車には、ほかの国のクルマにはない人間的な魅力があるからじゃないかな。壊れないとかさ、そんなことばっかり大事にしていないで、気持よく走るとか、いい音を聞かせるとか、そういうクルマなんだよ。だから、人間がわざわざ乗る甲斐がある。」 「『これ1台あれば、オレは十分だ』と考える人たちが増えたからこそ、ユーノスは日本で月から3000台も売れる。この種のクルマをセカンドカーだと思わない人たちが増えてきたというのは日本のモータリゼーションの大きな変化を示している。」 「ジャグァーはもともと『貴族の出』ではない。ジェントリーが貴族に憧れて、貴族以上に貴族らしくふるまうのと同じように、高級車に憧れて、高級車以上に高級車たらんとしたのである。そうして生まれ育ってきたからこそ、ジャグァーが発するメッセージは『上品であれ、紳士たれ』なのだ。」