投稿

ラベル(芸人)が付いた投稿を表示しています

江戸家猫八(3代目)さんの残した言葉【物真似師】1921年10月1日~2001年12月10日

イメージ
「変わったところがなければ、魅力がないですよ。ふつうから少し離れなきゃ。」 物真似師、俳優。落語芸術協会に所属していた。本名は岡田 六郎。愛称は江戸猫。 自ら車の運転をしていたが、自宅の車庫が非常に狭く、常に車庫入れの際は車庫の壁と車の隙間が数センチ単位での微調整を余儀なくされており、車庫入れの模様をワイドショーやバラエティー番組などで放送されることもあった。 中央競馬の馬主としても活動しており、中央競馬で10勝を挙げた他京成杯3歳ステークス、東京4歳ステークスで2着に入ったキヤツトエイトなどを所有した。

海老一染之助さんの残した言葉【太神楽師】1934年10月1日~2017年12月6日

イメージ
「親父が終戦を迎えると『これからは、西洋から歌手や音楽の大家がやってくる。とても敵わないから、日本独特の芸をやらなくては駄目だ』と言って、私たちにお神楽を習わせたんです。」 「この三味線はお袋が使っていたもので、これしか残っていないんです。三味線としての価値はごく普通の三味線ですが、弾くたびにお袋の供養をしているような気持ちになってきます。」 「日本国中、世界の皆さまのお幸せを心から祈念して、まいります。『おめでとうございまーす!』」 (染太郎逝去の際、染之助は葬儀会場に居並ぶ報道陣の前で号泣しながら絶叫。) 弟。東京都新宿区出身。メインの曲芸担当。 テレビ東京の村井正信キャスターは息子。晩年は糖尿病を患い、それをテーマにしたコラムを書いていた。 日本舞踊では花柳錦蔵を名乗る。 染之助は滅多に怒らない人物で「ヨイショの染さん」と呼ばれていたが、後輩芸人が兄:染太郎に対し無礼な態度をとったときは、本気で激怒した。しかし、言った本人は冗談のつもりであったため、怒られた時はおろおろしていた。

山根伸介さんの残した最後の言葉【チャンバラトリオ】1937年2月15日~2015年11月14日

イメージ
「さようなら…終わった」 (最後の言葉) 本名は 山根利雄 。通称は(山根の)ドンちゃん。東映時代の芸名は高根利夫。京都市出身。170cm。チャンバラトリオのリーダー。ツッコミ担当。 脚本、構成、ツッコミ担当。京都市立西京高等学校卒業、日本大学芸術学部中退。「東映剣会」幹部。阿部九州男に師事。1960年に明治座で初舞台。熱狂的な巨人ファンとしても知られる。脳溢血で倒れるも、復帰。現在吉本に所属する「チャンバラJr.」は、山根が命名した。ぴのっきをの2人が弟子についていた時期がある。2015年5月12日のグループ解散発表の際に、みずからが肝臓がんを患っていることを公表した。

ミヤコ蝶々さんの残した言葉【元祖天才女芸人】1920年7月6日~2000年10月12日

イメージ
「人気というのは泡みたいなもんです。」 「アホでよろしいの、人間は。あまり賢くなったらいけまへん。利口ぶったって、しょうがないじゃないですか。 アホはアホでよろしい。愛されるアホであればね。けど、憎たらしいアホはいけませんで。」 日本の女優、漫才師。本名、日向 鈴子。長らく上方漫才・喜劇界をリードした関西を代表するコメディアンであった。

桜塚やっくんの残した言葉【お笑いタレント】1976年9月24日~2013年10月5日

イメージ
「がっかりだよ!!」 「みんなが喜んでくれれば、ぼくも自然にハッピーになれる。本当に大切なのは、同じ場所に居ることではなく、同じ目標に向かっていくこと。」 神奈川県出身の男性お笑いタレント、声優、俳優、歌手である。 以前はジャニーズ事務所に所属しており、本名の斎藤 恭央で活動していた。 日本大学高等学校、日本大学芸術学部映画学科演技コース卒業。 トップコートを退所後、個人事務所を設立。血液型B型。 日本女装協会会長を務めた。

井上竜夫さんの残した言葉【竜じい】1941年11月8日~2016年10月5日

イメージ
「三途の川や〜」 「おじゃましまんにゃわ」 日本のお笑いタレント。本名は井上 龍男。竜爺の愛称で親しまれていた。 兵庫県尼崎市出身。吉本興業大阪本社所属。主に吉本新喜劇に出演していた。

井上竜夫さんの残した最後の言葉【竜じい】1941年11月8日~2016年10月5日

イメージ
「また明日」 (最後の言葉) 日本のお笑いタレント。本名は井上 龍男。竜爺の愛称で親しまれていた。 兵庫県尼崎市出身。吉本興業大阪本社所属。主に吉本新喜劇に出演していた。

トニー谷さんの残した言葉【あんたのおなまえなんてェの】1917年10月14日~1987年7月16日

イメージ
「芸人は職業じゃない。生き方です。生き方なんだから、引退なんてとんでもない。私は死ぬまで芸人です」 東京府東京市京橋区銀座出身の舞台芸人。本名、大谷 正太郎。 リズムに乗りそろばんを楽器のようにかき鳴らす珍芸が売りで、妙な英単語を混ぜたしゃべりは「トニングリッシュ」と称された。短めのオールバックにコールマン髭、吊りあがったフォックスめがねがトレードマーク。

牧伸二さんの残した最後の言葉【ウクレレ漫談家】1934年9月26日~2013年4月29日

イメージ
「少しお茶を飲んでくる」 (最後の言葉) 日本のウクレレ漫談家。牧プロダクション所属。東京演芸協会第6代会長。 ハワイアンをアレンジした曲に、「やんなっちゃった」などのフレーズで社会批評を乗せて歌う、ウクレレ漫談の創始者。ギターに持ち替えたこともある。ベテランになってからもレゲエやロックンロールにも挑戦した。

牧伸二さんの残した言葉【ウクレレ漫談家】1934年9月26日~2013年4月29日

イメージ
「あーあ、やんなっちゃった、あーああ、驚いた」 日本のウクレレ漫談家。牧プロダクション所属。東京演芸協会第6代会長。 ハワイアンをアレンジした曲に、「やんなっちゃった」などのフレーズで社会批評を乗せて歌う、ウクレレ漫談の創始者。ギターに持ち替えたこともある。ベテランになってからもレゲエやロックンロールにも挑戦した。

日高晤郎さんの残した言葉【ラジオ パーソナリティ】1944年2月28日~2018年4月3日

イメージ
「今こそ『ありがとう、愛してるよ』って言えるっていう、年齢に入った時に、言わないバカいるもんか」 「壁も何もない。あなたが壁作っちゃってんだ。壁は無いんだよ。作ってんだよ、自分で」 「人を好きになることの一番の喜びは何か?感動を共有できるっていう喜びですよ」 「言いにくいことかも知れないけど、それを踏み込んでキチッと言ってくれる人は大事にしなさいよむしろニコニコ笑って、いいのよ、いいのよ、って言って、それで腹の中がよく分からないっていう人は気をつけなさい。あなたにとって必ずしも、人当たりのいい人がいい人ではないんだよ。最初にやるべきこと、なすべきことと礼儀をきちっと言ってくれる人は、少なくともあなたにこうやって最初言ってくれれば、あとは大丈夫よ、と分かりやすく説明してくれているはずなのだから、それは聞きなさい」 「迷惑かけたほうがいいんです。そのほうが分かりやすくていいから」 「仕事って何かっていったら、仕事をする人間の気構えを買ってくれること」 「プロは最後の最後に一発で仕留める」 「師匠を持っていることの素晴らしさは、自分が仕事に臨んでいる時に、たくさんの目を持つことができることです」 「楽しんでもらうことが先だよ。知ってもらうほうが先なんだ、芸術やろうと思うな、芸をやれ」 「どんな職場にいても、トップになろうという意欲さえあれば、仕事の楽しみ方はあるはず」 「芸とは、ここまで行き着いた道程(みちのり)も一緒に楽しむと、それに触れることができた時代の喜びが見えてくる」 「テレビは美意識を、ラジオは芸意識を」 「やり損じを恐れるな、やり残すことを悔いろ」 「いいことは一つも無かったかい?そんなことないよ。あなた生きてるんだもの!」 「気楽にやりましょう。」 「日々幸せ感じ上手。一度でも笑えることができた日は、良い一日。」 日本の芸人、ラジオパーソナリティ、歌手、俳優、声優。生前は東京都杉並区荻窪に居住していた。

瀬戸わんや さんの残した言葉【芸人】1926年3月10日~1993年2月10日

イメージ
「ピーヨコちゃん」 漫才コンビ、てんやわんやのツッコミ役。 大阪市南区(現・中央区)生まれ、本名:妹尾 重夫。 1940年の高等小学校卒業後、大阪市港湾局で給仕をしつつ関西工業学校の夜学に通う。1943年に応召で繰上げ卒業。戦後、大阪市港湾局に土木技師として復職したが、1952年に漫才師を志し上京。職場の先輩にあたる内海突破に入門し、年上の弟弟子てんやとコンビを組む。1987年に糖尿病の悪化で事実上の引退。1993年脳梗塞で死去、66歳没。

レツゴー長作さんの残した最後の言葉【芸人】1943年9月29日~2018年2月1日

イメージ
「お母さんを大事にせえ」 (子供たちへ) (最後の言葉) 日本の漫才トリオ、レツゴー三匹のメンバー。岡山県都窪郡妹尾町(現:岡山市南区)出身。本名:永原 誠。