「私は日銀在職中に『俳句のために日銀を食い物にする』と宣言していました。友人から『そんなふうに言うのはよした方がいいよ』と、たしなめられることがありました。でもこれは俳人として歩むためには、たとえ同期や後輩に差をつけられようが日銀マンを貫くという決心を示した表現だったのです。」 「日銀マンから写真や絵画の道に転じるような人たちがいました。日銀人生に見切りをつけていく人を見て、『自分も』と考えたのですが、ある時、それが滑稽に思えるようになったのです。どんなに高邁な目標を掲げようとも、お金がなくて女房や子供を路頭に迷わすようなことになってしまえば、何の意味も持たないからです。受賞したとはいえ、俳句で家族を養えるという確信は持てませんでした。仮に月に10句、新聞に掲載されたとしても、日銀の給与の10分の1にも届かない。当時、私は幼稚園児の長男を抱えた身。だから家族を守るためには日銀に勤め続ける。しかし、俳句や俳論を窮めるためには、日銀での出世を追うことは決してしない。その決心が『俳句のために日銀を食い物にする』だったのです。」 「私は朝の時間に、立ったまま集中する立禅をします。その際に雑念を払うため、私は亡くなった人たちの名前を唱えています。するとその人たちとつながりを感じられるようになり、心に安らぎがもたらされます。95歳になった今でも元気でいられるのは、立禅によって心の平穏を保てることも影響しているかもしれません。」 「太平洋戦争で私は南方のトラック島に配属されました。餓死していく者たちなど、そこでいやというほど人の死に接してきました。そんな経験をしたからでしょうか、殺戮(さつりく)死でなく自然死なら平穏に受け止められるのです。妻を亡くした時も、10年間の闘病生活があったこともあり、平静でした。」 「人に認められる能力を磨き、目をかけてもらう人がいれば、自分の目指す道を貫ける。」 埼玉県出身の俳人。現代俳句協会名誉会長、日本芸術院会員、文化功労者。小林一茶、種田山頭火の研究家としても知られる。 加藤楸邨に師事。「寒雷」所属を経て「海程」を創刊、主宰。戦後の社会性俳句運動、前衛俳句運動において理論と実作の両面で中心的な役割を果たし、その後も後進を育てつつ第一線で活動した。