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ルー・リードさんの残した言葉【ヴェルヴェット・アンダーグラウンド】1942年3月2日~2013年10月27日

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「I’ll be your mirror. Reflect what you are. In case you don’t know」 (僕が君の鏡になろう。君という人間を映し出してやる。もし君が知らないのなら。) 「I think that everything happens for a reason, everything happens when it’s going to happen」 (すべては必然だと思うんだ。あらゆることは起こるべく時に起こるんだ。) 「Life is far too short to concentrate on your past. I rather look into the future」 (過去にこだわるには、人生はあまりにも短すぎる。僕は未来を見つめたい。) 「The music is all. People should die for it. Peo People ple are dying for everything else, so why not the music?」 (音楽がすべてだ。みんなそのために死ぬべきだ。他のものなら何でも命を投げ出すというのに、どうして音楽じゃだめなんだ?) 「These are really terribly rough times,and we really should try to be as nice to each other as possible」 (本当にひどくラフな時代だ。俺たちは出来る限りお互いに対して思いやりを持つべきだと思うんだ。) アメリカニューヨーク州ブルックリン出身のミュージシャン。本名ルイス・アレン・リード 。ユダヤ系の血を引いており、父の代にラビノヴィッツ から改姓。シラキューズ大学在学中にデルモア・シュワルツに師事して詩作を学ぶ。 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの時代から前衛性とポップさを兼ね備えた斬新かつ挑戦的な音楽性、陰翳と知性に富みながらも様々なスタイルを持つヴォーカル、音像を形成する上で欠かせないオリジナリティ溢れる独創的なギター・プレイ、人間の暗部を深く鋭く見つめる独特の詩世界を持ち、同時期にデビューしたデヴィッド・ボウイを始め、後のパンク・ロック/ニュー・ウェイヴ、オルタナティヴ・ロック、ひいては音楽界全体に及ぼ

松来未祐さんの残した言葉【声優】1977年9月14日~2015年10月27日

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「今は、こんな状況ですが、今年も胸を張って言えます。私は、私に生まれて幸せです。本当にありがとう。」 日本の女性声優、歌手、ラジオパーソナリティ。本名・旧芸名、松木 美愛子。 広島県呉市出身。81プロデュースに所属していた。 2002年、『七人のナナ』で初のアニメレギュラーを獲得。同年6月、アクセントから81プロデュースへ移籍する。同年10月より始まったラジオ番組『(有)櫻井工房』は『(有)チェリーベル』へ続き長期番組となった。 2003年から2004年にかけては『D.C. 〜ダ・カーポ〜』『ダイバージェンス・イヴ』シリーズでアニメレギュラーを獲得し、2004年1月の『超変身コス∞プレイヤー』で初の主演を務める。この年、ラジオ番組『RADIOデコピンないと』で共演した金田朋子と声優ユニット「SD☆Children」を組み、CDリリースや各種イベントなどの活動を行った。その他にも多数のアニメに出演すると共に、最多で週4本のラジオ番組を持っていた。また、『さよなら絶望先生』シリーズ(藤吉晴美役)や『ひだまりスケッチ』シリーズ(吉野屋先生役)など、新房昭之が監督を務めるシャフト制作作品の常連声優の1人となっていた。

角替和枝さんの残した言葉【女優】1954年10月21日~2018年10月27日

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「大厄の年こそ大役をすべき。やらないなら一生仕事やめな」 日本の女優。本名:柄本 和枝。 静岡県富士市出身。劇団東京乾電池所属。所属事務所はノックアウト。夫は俳優の柄本明、長男は俳優の柄本佑、次男は俳優の柄本時生。 静岡県立吉原高等学校卒業。内田栄一と金子正次の劇団東京ザットマンの立ち上げに参加し、芝居を始めた後、つかこうへい事務所に所属し、その後に東京乾電池に所属。『コメディー道中でござる』、NHK朝の連続テレビ小説『おひさま』や『ハイカラさん』等に出演し認知度を上げていく、その後も名バイプレーヤーとして人気を博し数多くの作品に出演。 26歳のときに東京乾電池座長の柄本明と結婚。子は俳優として活動する佑、時生に第一子である長女(かのこ)。家族からは「和枝ちゃん」と呼ばれている。夫のことは「えもっちゃん」と呼んでいる。 自他共に認めるゲーマー。佑によれば、怒ると「マリオやゼルダから何を学んだんだ!」とゲームを引き合いにしたり、『クラッシュバンディグー』にハマり過ぎて手を疲労骨折したが、手を固定しながらもやり続けた。 かつてはキャラクターショーにも出演しており、『アルプスの少女ハイジ』ショーのペーター役が神業と評され、様々なショーにペーター役で呼ばれていた。

江波杏子さんの残した言葉【女優】1942年10月15日~2018年10月27日

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「恋愛は苦行よ。苦行じゃない恋に意味ある?」 日本の女優。東京都渋谷区千駄ヶ谷出身。アルファエージェンシー所属。天秤座。 1960年、映画『明日から大人だ』でデビュー。芸名は、母親の芸名と室生犀星の新聞連載小説『杏っ子』に由来している。 長く助演が続いたが、自身の初主演『女の賭場』は当初、若尾文子のために企画されたが、若尾が自宅の風呂で転倒して全治2週間を余儀なくされてしまい、代役として出演本数58本目にして初の主役の座を獲得。女賭博師ぶりがうまくハマり、「昇り竜のお銀」として親しまれた(1971年の『新女賭博師・壺ぐれ肌』まで、全17本が制作された)。新幹線の中でヤクザに「姐さん、きょう賭場が開いてます」と言われたほどの当たり役となった。だが脚本家、中島丈博の証言によれば、江波自身は女賭博師の役柄を嫌っていたという。雑誌の対談をきっかけに、テンプターズの萩原健一と交際したが、これは江波の方から恋愛関係に発展させたものだった。 大映倒産後の1973年、『津軽じょんがら節』に主演してキネマ旬報主演女優賞を獲得。 グラマーな体型だったことから、写真家達の人気の的となり1960年代から1970年代以後もヌードも披露し、グラビアでも活躍した。読書が趣味で、新聞を読むのが一番の楽しみ。特に、寝る前には必ず文字を見なければ寝れないというほどだった。 かなりの酒豪でブランデーを一晩で一本空けたことがある。

あさぎり夕さんの残した言葉【漫画家】1956年7月21日~2018年10月27日

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「描き続けていればデビューはできる。でも、問題は二作目よ。」 (後輩漫画家の篠原千絵さんに) 日本の女性漫画家、小説家。東京都出身。本名は高野 夕里子。 中学時代から漫画雑誌に投稿を始め、プロの漫画家を目指すサークル「三日月会」の会員となった。その一方で編集部に作品を持ち込むなどの活動を続け、1976年、講談社の第12回なかよし・少女フレンド新人漫画賞に『光めざして飛んでいけ』が入賞し、同社の少女漫画雑誌『なかよし』の増刊号に掲載されてデビュー。1987年には『なな色マジック』で第11回講談社漫画賞を受賞。朝霧 夕名義での活動も行っている。 1990年代前半までは、主に講談社の少女漫画雑誌にて少女漫画を描いていた。その後は講談社を離れ、小説を執筆したりボーイズラブ (BL) 漫画に進出したりしている。 なお、デビュー前にBL漫画を持ち込んだところ、「このような作品は理解されません」と否定的に評価され、路線変更してデビューしたといわれている。本人は、当時それでもBL漫画を描き溜めていたとしている。最初の持ち込み作品『サラマンダー』など一部が公式サイトで限定公開されている。

故人が残した名言集【10月27日】

あさぎり夕さんの残した言葉【漫画家】1956年7月21日~2018年10月27日 「描き続けていればデビューはできる。でも、問題は二作目よ。」 (後輩漫画家の篠原千絵さんに) 日本の女性漫画家、小説家。東京都出身。本名は高野 夕里子。 中学時代から漫画雑誌に投稿を始め、プロの漫画家を目指すサークル「三日月会」の会員となった。 その一方で編集部に作品を持ち込むなどの活動を続け、1976年、講談社の第12回なかよし・少女フレンド新人漫画賞に『光めざして飛んでいけ』が入賞し、同社の少女漫画雑誌『なかよし』の増刊号に掲載されてデビュー。 1987年には『なな色マジック』で第11回講談社漫画賞を受賞。朝霧 夕名義での活動も行っている。 1990年代前半までは、主に講談社の少女漫画雑誌にて少女漫画を描いていた。その後は講談社を離れ、小説を執筆したりボーイズラブ (BL) 漫画に進出したりしている。 なお、デビュー前にBL漫画を持ち込んだところ、「このような作品は理解されません」と否定的に評価され、路線変更してデビューしたといわれている。 本人は、当時それでもBL漫画を描き溜めていたとしている。最初の持ち込み作品『サラマンダー』など一部が公式サイトで限定公開されている。 江波杏子さんの残した言葉【女優】1942年10月15日~2018年10月27日 「恋愛は苦行よ。苦行じゃない恋に意味ある?」 日本の女優。東京都渋谷区千駄ヶ谷出身。アルファエージェンシー所属。天秤座。 1960年、映画『明日から大人だ』でデビュー。芸名は、母親の芸名と室生犀星の新聞連載小説『杏っ子』に由来している。 長く助演が続いたが、自身の初主演『女の賭場』は当初、若尾文子のために企画されたが、若尾が自宅の風呂で転倒して全治2週間を余儀なくされてしまい、代役として出演本数58本目にして初の主役の座を獲得。 女賭博師ぶりがうまくハマり、「昇り竜のお銀」として親しまれた(1971年の『新女賭博師・壺ぐれ肌』まで、全17本が制作された)。 新幹線の中でヤクザに「姐さん、きょう賭場が開いてます」と言われたほどの当たり役となった。だが脚本家、中島丈博の証言によれば、江波自身は女賭博師の役柄を嫌っていたという。 雑誌の対談をきっかけに、テンプターズの萩原健一と交際したが、これは江波の