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力道山さんの残した最後の言葉【戦後最大の英雄】1924年11月14日~1963年12月15日

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「おれは死にたくない」 (最後の言葉) 日本のプロレスラー、大相撲力士。 本名・戸籍名・日本名:百田 光浩(ももた みつひろ)。 性格的には粗暴で、感情の起伏が激しかった。機嫌が良いときはボーイに1万円札でチップを渡すこともあったが、機嫌が悪いと飲食店での暴力沙汰は日常茶飯事であり、そのつど金で表ざたになるのを防いだ。1957年10月18日の『読売新聞』朝刊や、同年12月5日の『朝日新聞』夕刊に「力道山また暴れる」と報道されたこともあった。 可愛がられたという張本勲は、飲むと暴れて大きな手で木やガラスのテーブルを叩いて割る、薄いガラスのコップを美味しいと言って食べていた、などと話している。粗暴な行為に関しては、本人の生来の激高しやすい性格も一因ではあるが、晩年には肉体的な衰えをカバーするために試合前に興奮剤を服用しており、試合後にそのまま飲み屋に出かけて行ったため、トラブルを引き起こしたという証言もある。 また、リングで殴り合っても、その後の飲み会で対戦した相手と仲良く飲んでいることから、八百長ではないかと疑われる要因が強まったともいわれている。

力道山さんの残した言葉【戦後最大の英雄】1924年11月14日~1963年12月15日

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「3年間、私に預けなさい。きっと立派なレスラーにしてみせる。そしてブラジルに、日本のプロレスの花を咲かせるのだ。」 昭和35年のブラジル遠征で、力道山はサンパウロの青果市場で働いていた猪木をやっと見つけ、猪木の面倒を見ていた市場の主、児玉満さんに約束した言葉。 「人間窮すれば通ずるものだ。手が使えなければ足を使う。足が使えなければ噛みついても試合はできる。」 「男が人の上に立って成功するには、方法はたった一つしかない。それは過去に誰もやったことのないことを、一生懸命やることだ。」 日本のプロレスラー、大相撲力士。 本名・戸籍名・日本名:百田 光浩(ももた みつひろ)。 性格的には粗暴で、感情の起伏が激しかった。機嫌が良いときはボーイに1万円札でチップを渡すこともあったが、機嫌が悪いと飲食店での暴力沙汰は日常茶飯事であり、そのつど金で表ざたになるのを防いだ。1957年10月18日の『読売新聞』朝刊や、同年12月5日の『朝日新聞』夕刊に「力道山また暴れる」と報道されたこともあった。 可愛がられたという張本勲は、飲むと暴れて大きな手で木やガラスのテーブルを叩いて割る、薄いガラスのコップを美味しいと言って食べていた、などと話している。粗暴な行為に関しては、本人の生来の激高しやすい性格も一因ではあるが、晩年には肉体的な衰えをカバーするために試合前に興奮剤を服用しており、試合後にそのまま飲み屋に出かけて行ったため、トラブルを引き起こしたという証言もある。 また、リングで殴り合っても、その後の飲み会で対戦した相手と仲良く飲んでいることから、八百長ではないかと疑われる要因が強まったともいわれている。

ニック・ボックウィンクルさんの残した言葉【リングの哲人】1934年12月6日~2015年11月14日

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「ドリー・ファンク・シニアの死んだ時の話を聞いて、それで涙を流さなかったなら、少なくとも、そいつはレスラーではない」 「相手がワルツを踊ればワルツを、相手がジルバを踊ればジルバを」 「人生でいちばん大切なものは友人との会話」 アメリカ合衆国のプロレスラー。ミネソタ州セントポール出身。生年は、1936年や1938年とされる場合もある。 リック・フレアーに先駆け、バディ・ロジャースの流れを汲むヒールの「ダーティー・チャンプ」のスタイルを貫いた。劣勢になるとわざと凶器攻撃を見舞ったり、セコンドを乱入させるなどして反則負けを選び、AWA世界ヘビー級王座を防衛することがほとんどだった(AWAではピンフォール勝ち、ノックアウト勝ちもしくはギブアップ勝ちでないと王座は移動しなかった)。1980年代前半にAWAで頭角を現していたハルク・ホーガンを相手にしても、この戦術で寄せ付けなかった。

ドン荒川さんの残した言葉【前座の力道山】1946年3月6日~2017年11月5日

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「俺がセミやメインに出たら、チャンピオンになっちゃうよ」 日本のプロレスラー。本名:荒川 真。鹿児島県出水市出身。 試合ではコミカルな動きに徹していたが、実際にはシュートにも対応できる新日本随一の実力者であり、スパーリングでは容赦なく若手選手を翻弄していた(プロレスの神様カール・ゴッチとスパーリングした際にもゴッチに極めさせず、ゴッチから口に指を突っ込まれた事がある)。一方でお調子者の面もあり、道場でアントニオ猪木に喜々としてシュートを挑むも返り討ちに遭い、なおも負けを認めずにいたところを締め落とされたり、タイガーマスクになる前の佐山聡に練習で「真剣勝負を教えてやる」と意気込むも、佐山のキック一発で倒されてしまったこともある。 前座クラスの試合ばかりだったのにもかかわらず、新日本の選手全員が集まる席では、アントニオ猪木、坂口征二の次の席にいたという。また猪木に「今日は二日酔いなんです」と申し出ると「じゃあ休んでいい」といわれる程の特別待遇だった。

山本小鉄さんの残した言葉【鬼軍曹】1941年10月30日~2010年8月28日

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「プロレスラーは最強でなければならない。」 「誰よりも強くなれ。強くなったら誰も何も言わなくなるから。」 日本のプロレスラー。本名は山本 勝。リングネームは豊登の命名。神奈川県横浜市南区出身。新日本プロレス所属。タレントとしても活動、芸能事務所、インターテイク所属であった。 現役引退後は、ワールドプロレスリング解説者、マッチメイカー、レフェリーとして活躍した。 スキンヘッドで強面の外見とは裏腹に、(礼儀をわきまえた上で接すれば)物腰は柔らかく、愛妻家でもあった。一人娘を非常に可愛がっており、巡業中で出産に立ち会えなかったことから娘の出生日からの日数を常に言えるよう心掛けていた。晩年になってからは、孫の出生日からの日数までカウントしていた。

マサ斎藤さんの残した言葉【プロレスラー】1942年8月7日~2018年7月14日

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「こんな紙切れ(契約書)一枚で若者の未来を縛るんじゃない」 「ゴー・フォー・ブロックだ!」 元レスリング選手、元プロレスラーである。東京都中野区出身。信条は、「Go for broke」である。 東京都中野区出身。 日本プロレスや東京プロレスを経て、フリーランサーとなって新日本プロレスを主戦場に活躍。アメリカにおいても、NWA、AWA、WWFなど各団体で実績を残している。第一線を退いてからは新日本プロレスのブッカーおよびコメンテーターとして活動した。

橋本真也さんの残した言葉【闘魂三銃士】1965年7月3日~2005年7月11日

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「破壊なくして創造なし。あしき古きが滅せねば誕生もなし。時代を開く勇者となれ。」 日本のプロレスラー。俳優、声優としても活動。闘魂三銃士の1人。岐阜県土岐市出身。 型破りな人柄で、風変わりな言動も少なからずあった。橋本の関係者が橋本を語る際には、常識外れのハチャメチャな言動をする人間を指すプロレス用語「トンパチ」(トンボにハチマキの意味)が用いられることが多い。(新日のトンパチ伝説は「ドン荒川」→「前田日明」→「橋本真也」へと受け継がれていく)

ミスター・ポーゴ さんの残した言葉【極悪大魔王】1951年2月5日~2017年6月23日

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「オレはポーゴじゃない。関川哲夫だ。」 日本のプロレスラー。本名は、関川 哲夫。群馬県伊勢崎市出身。元大相撲力士。バックボーンは柔道。 リングネームは、本名の一部から『ミスター・セキ』(Mr.SEKI)。のちに、日系レスラーの大先輩であるグレート東郷にあやかり、『ミスター・トーゴー』(Mr.TOGO)に改名した。しかし実際には対戦表に『ミスター・ポーゴ』(Mr.POGO)と誤記されてしまう。プロモーターのテリー・ファンクに抗議したが「俺がこの名に命名した」と押し切られてこのまま「ポーゴ」の名を用いるようになった。

三沢光晴さんの残した最後の言葉【プロレスラー】1962年6月18日~2009年6月13日

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「だめだ、動けねぇ」 (レフェリーの「動けるか?」との問いかけに) (最後の言葉) 日本のプロレスラー。本名:三澤 光晴。1981年に全日本プロレスにてデビュー。同団体のトップレスラーとして活躍した後、2000年にプロレスリング・ノアを旗揚げ。レスラー兼社長として同団体を牽引。2009年6月13日、試合中リング禍により死去。46歳没。

三沢光晴さんの残した言葉【プロレスラー】1962年6月18日~2009年6月13日

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「今、若者が頭に血が上るとすぐに、“殺す”とか口走るようだけど、そんな言葉はオレには使えない。人ひとりの人生を殺すとか、殺さないとかね。そこまで育つためにいろんなことがあっただろうし、それを全部、オマエは背負えるのか? その覚悟はあるのか?それは、オレだって背負える自信はないし、実際に背負えない。その辺の人生の重さ、命の重さ、人の痛みを考えてほしい」 「『がんばります』ではなくて『がんばりました』と言える人間になって欲しい」 「お前『で』じゃなく お前『が』いいんだよ」 「何事もはじめてやる事が大変」 日本のプロレスラー。本名:三澤 光晴。1981年に全日本プロレスにてデビュー。同団体のトップレスラーとして活躍した後、2000年にプロレスリング・ノアを旗揚げ。レスラー兼社長として同団体を牽引。2009年6月13日、試合中リング禍により死去。46歳没。

青木篤志さんの残した最後の言葉【プロレスラー】1977年9月25日~2019年6月3日

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「無事帰宅。長旅でしたが、明日からオフなのでしっかり次に備えます」 (最後のつぶやき) 日本のプロレスラー。元自衛官。東京都大田区出身。 2019年6月3日22時33分頃、バイクで走行中に首都高速都心環状線外回りの千代田トンネル出口付近で側壁へ衝突し、転倒。都内の病院に搬送されたが同日22時41分頃、死亡が確認された。41歳没。同月18日に佐藤光留との世界ジュニアヘビー級初防衛戦を控えていた矢先の事故死であった。

ラッシャー木村さんの残した言葉【プロレスラー】1941年6月30日~2010年5月24日

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「馬場、一生にいっぺんでいい、アニキと呼ばせてくれないか。」 日本の元プロレスラー、元大相撲力士。本名:木村 政雄。北海道中川郡中川町出身。

ジャンボ鶴田さんの残した言葉【最強】1951年3月25日~2000年5月13日

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「人生はチャレンジだ!!」 日本のプロレスラー。本名および旧リングネーム:鶴田 友美。三冠ヘビー級王座の初代王者であり、日本人初のAWA世界ヘビー級王者。

アルティメット・ウォリアーさんの残した最後の言葉【プロレスラー】1959年6月16日~2014年4月8日

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「WWEのスーパースターは誰一人として己が力だけで伝説となったわけではないのだ。人は誰しも、心臓が最後の鼓動を打ち鳴らし、肺が呼吸という役目を終える日を迎える。そして、もし彼の成し遂げたことが他の人間を躍動し、興奮させ、血潮を熱くさせたのならば、彼の偉大な真髄と魂は不滅のものとなる。それは彼を讃え、彼が永遠に生き続けたということを証明する語り手、ファン、そして記憶により可能になるのだ。君達一人ひとりがアルティメット・ウォリアーという伝説を生み出したのだ。そして今もバックステージにはそんな伝説になるであろう選手がたくさんいる。ウォリアーの魂を持った者もいるだろう。君達はまた彼らに同じことをするのだ。彼らが情熱を持ち努力をして生きたかを見極めるのは君達なのだ。君達が彼らの物語の語り手となり、彼らを伝説とするのだ。私はアルティメット・ウォリアーである。そして君達はアルティメット・ウォリアーのファンだ。アルティメット・ウォリアーの魂は永遠に走り続けるのだ。」 (最後の言葉) アメリカ合衆国のプロレスラー。インディアナ州クローフォーズビル出身。 1980年代後半から1990年代前半におけるWWFの看板スターの1人。屈強な肉体から超合金戦士の異名を持つ。

ハヤブサさんの残した言葉【プロレスラー】1968年11月29日~2016年3月3日

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「見続ければ...諦めなければ夢は終わらない!」 日本の覆面レスラー、歌手。本名:江崎 英治。

ビル・ロビンソンさんの残した言葉【プロレスラー】1938年9月18日~2014年2月27日

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「グレコの選手の使う技で、フリーの選手に使えぬ技はないのだ。」 「人間病気をするとガクっと体力が落ちる。快方に向かうと元に戻るが、逆にそれまでより上に行くこともある。」 「世界各国、いろんなテリトリー、いろんなタイプの選手と試合してこそプロレスラー。」 イギリス・マンチェスター出身のプロレスラー。 ウィガンのビリー・ライレー・ジムでキャッチ・レスリングを習得し、欧州マットを経て日本やアメリカで活躍した。ダブルアーム・スープレックスを日本で初公開したことから、「人間風車」の異名を持つ。

ジャイアント馬場さんの残した言葉【プロレスラー】1938年1月23日~1999年1月31日

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「成り行きと言うと無責任なイメージを持つけどこれほど強いものはない。つまり、自然の流れに逆らわずに正直に生きるってこと。」 日本のプロレスラー、プロ野球選手、タレント。 本名・旧リングネーム・野球選手時代の登録名は馬場 正平。血液型O型。全日本プロレス代表取締役社長・会長、NWA第一副会長を歴任した。 身長209cm、体重135kg。