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中沢啓治さんの残した最後の言葉【はだしのゲン】1939年3月14日~2012年12月19日

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「好きなマンガを描いて、食べていけたんだから、こんな幸せなことはない。『ゲン』は俺が死んでも残る。『ゲン』が世代を超えて歩んでいってくれれば、それだけでいい」 (最後の言葉) 日本の漫画家。 代表作に『はだしのゲン』など、広島市への原子爆弾投下による自身の被爆体験を元に、戦争・平和を題材とした作品を数多く発表している。 熱狂的な広島東洋カープファンであり、代表作である『はだしのゲン』にもカープが登場するほか、カープをテーマにした『広島カープ誕生物語』などの作品がある。『はだしのゲン』や『広島カープ誕生物語』には球団草創期における熱狂的なカープファンの常軌を逸した様子も描かれている。中沢は球場観戦も好きで、よく妻をカープ観戦に連れて行っており、カープ見たさに甲子園球場に出向くほどだった。そんな中沢の影響で結婚するまでカープに興味がなかった妻・ミサヨも、一緒にラジオを聴いたり観戦するうちにファンになっていった。 2011年8月にマツダスタジアムで「ピースナイター」として開催されたカープ対巨人戦では始球式を務めている。中沢は「カープのグラウンドで始球式できるとは夢にも思わなかった。こういうときに野球をやると不謹慎と言われるけど、平和だからできることを喜ばないと」と語っている。 被爆者でありながら悲惨な被爆体験のため2010年まで広島市主催の平和記念式典に出たことはなかった。「原爆に触れるのが嫌だった。(慰霊の日)8時15分が迫ると気分が重い。逃げ回った姿が蘇る」と述べている。 広島平和記念式典については、やらないよりはやった方がいいとは思ったが、被爆体験への忌まわしさと戦争責任を追及しない内容に「あんな白々しい式典で、あの原爆地獄の苦しみと怒りと、悲しみが、鎮められるかっ」と中沢自身は参加したことはなかった。しかし広島市から招待され、2011年に「今生の別れのつもりで」と初めて出席した。中沢は戦争を引き起こした戦犯の人形を並べて市民が石をぶつける式典なら喜んで参加したいと述べている。

中沢啓治さんの残した言葉【はだしのゲン】1939年3月14日~2012年12月19日

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「伝えるということは本当に難しい。日本は唯一の被爆国だと毎年騒いでいたって、実際には伝わっていないのです。僕に送られてくる読者からの手紙は、『漫画に描かれている原爆の状態は本当だったのですか』『まったく知りませんでした』『戦争と原爆の本当の姿をもっと教えてください』というものが多い。これは40年前の読者も、いまの読者も同じです。」 「難しい言葉や文章でいわれたら、読む気がしなくなります。子供たちは漫画だからと夢中になる。夢中で読みだしたら、どんどん本質に迫っていくのです。」 日本の漫画家。 代表作に『はだしのゲン』など、広島市への原子爆弾投下による自身の被爆体験を元に、戦争・平和を題材とした作品を数多く発表している。 熱狂的な広島東洋カープファンであり、代表作である『はだしのゲン』にもカープが登場するほか、カープをテーマにした『広島カープ誕生物語』などの作品がある。『はだしのゲン』や『広島カープ誕生物語』には球団草創期における熱狂的なカープファンの常軌を逸した様子も描かれている。中沢は球場観戦も好きで、よく妻をカープ観戦に連れて行っており、カープ見たさに甲子園球場に出向くほどだった。そんな中沢の影響で結婚するまでカープに興味がなかった妻・ミサヨも、一緒にラジオを聴いたり観戦するうちにファンになっていった。 2011年8月にマツダスタジアムで「ピースナイター」として開催されたカープ対巨人戦では始球式を務めている。中沢は「カープのグラウンドで始球式できるとは夢にも思わなかった。こういうときに野球をやると不謹慎と言われるけど、平和だからできることを喜ばないと」と語っている。 被爆者でありながら悲惨な被爆体験のため2010年まで広島市主催の平和記念式典に出たことはなかった。「原爆に触れるのが嫌だった。(慰霊の日)8時15分が迫ると気分が重い。逃げ回った姿が蘇る」と述べている。 広島平和記念式典については、やらないよりはやった方がいいとは思ったが、被爆体験への忌まわしさと戦争責任を追及しない内容に「あんな白々しい式典で、あの原爆地獄の苦しみと怒りと、悲しみが、鎮められるかっ」と中沢自身は参加したことはなかった。しかし広島市から招待され、2011年に「今生の別れのつもりで」と初めて出席した。中沢は戦争を引き起こした戦犯の人形を並べて市民が石をぶつける式典なら