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南方熊楠さんの残した言葉【博物学の巨星】1867年5月18日~1941年12月29日

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「世界に、不要のものなし。」 「肩書きがなくては、己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない。」 「宇宙万有は無尽なり。ただし人すでに心あり。心ある以上は、心の能うだけの楽しみを宇宙より取る。宇宙の幾分を化して、おのれの心の楽しみとす。これを智と称することかと思う。」 「相手が高名な学者じゃからちゅうて、間違っちょるもんを正しいと心にもない世辞を並び立てるような未開人はイギリスにはいても日本にはおらん!誤りを正すほどの気兼ねもない卑屈な奴など生きておっても何の益もない!」 「権威に媚び明らかな間違いを不問にしてまで阿諛追従する者など日本には居ない。」 「こんなことで一度だけの命を賭けるのは馬鹿馬鹿しい。」 「学問は活物(いきもの)で書籍は糟粕だ。」 日本の博物学者、生物学者、民俗学者。 生物学者としては粘菌の研究で知られているが、キノコ、藻類、コケ、シダなどの研究もしており、さらに高等植物や昆虫、小動物の採集もおこなっていた。そうした調査に基づいて生態学を早くから日本に導入したことが注目される。

南方熊楠さんの残した最後の言葉【博物学の巨星】1867年5月18日~1941年12月29日

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「天井に美しいおうちの花が咲いている。医者が来るとその花が消えてしまうから呼ばないでくれ。縁の下に白い小鳥が死んでるから、朝になったら葬ってやってくれ。」 (亡くなる前日に呟いた言葉。その夜) 「私はこれからぐっすり眠るから、羽織を頭からかけてくれ。ではお前達も休んでくれ。」 (最後の言葉) 日本の博物学者、生物学者、民俗学者。 生物学者としては粘菌の研究で知られているが、キノコ、藻類、コケ、シダなどの研究もしており、さらに高等植物や昆虫、小動物の採集もおこなっていた。そうした調査に基づいて生態学を早くから日本に導入したことが注目される。

山田耕筰さんの残した言葉【あかとんぼ】1886年6月9日~1965年12月29日

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「知識の極みのさきには、神秘の世界がある。神秘の扉を開いて光明の彼岸に達せんとするは、ただ感悟の力によるのみ。」 「作るのではなくて、生活から生む。というのが私の創作上の信条である。」 「新しい芽を育てる。これが人間のいちばん美しいところ」 日本の作曲家、指揮者。山田 耕作としても知られる。 日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した。日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた。 日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した。日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた。また、ニューヨークのカーネギー・ホールで自作の管弦楽曲を演奏、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やレニングラード・フィルハーモニー交響楽団等を指揮するなど国際的にも活動、欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家でもある。軍歌の作曲も多く手がけている。

戸田蔵人さんの残した言葉【車椅子のモトクロスライダー】1980年6月5日~2015年12月29日

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「また空を飛べるなんて夢のよう。 1度失なったから、明日は無くなるかもしれないのを分かっているから。」 「Hard work pays off right?? 努力は必ず報われるはず。じゃなくて報われるまで努力。どこまで出来るかですよね。」 日本のモトクロスレーサー。愛称はクラウディ。茨城県土浦市出身。 6歳からモトクロスをはじめ、17歳でプロに転向する。2003年に全日本モトクロス選手権国際A級125ccクラス 総合3位に入賞する。2008年6月に岩手県藤沢町のコースでヤマハとスズキの合同練習に参加した際に大事故で脊髄を損傷する。 その際、医師からは自力で歩くことができないことを宣告され、車いす生活を強いられるが、「絶対に歩けるようになる」と信じ、専門の医師を訪ねるなどして治療に当たる。その後は再起を誓い、車いすでも操縦ができるように改良した自分専用のモトクロッサーを製作し、体をモトクロッサーに縛り付けた状態で大会に出場した。 2015年12月29日、かすみがうら市内の私設サーキットでジャンプの練習中に、バイクが着地した際に出火し、体をモトクロッサーに縛り付けていたため逃げ遅れて大やけどを負い死亡した。35歳没。

宮川ひろ さんの残した言葉【るすばん先生】1923年3月15日~2018年12月29日

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「春が来るから 冬もいいんさ いいんさ」 日本の児童文学作家。群馬県出身。金華学園教員養成所卒業。 長男は児童文学研究者の宮川健郎。 坪田譲治の講演を聴いたことで文学を志し、1965年に日本児童文学者協会が開講した「新日本童話教室」に参加[。 同人誌『どうわ教室』をあまんきみこらと創刊したほか、雑誌『びわの実学校』に作品を投稿した。この時期には今西祐行の指導を受けていた。 1969年、『るすばん先生』でデビュー。小学校教員時代には産休補助教員を務めた経験があり、『るすばん先生』は産休補助教員を題材とした作品である。 学校や家庭など、日常の風景の中で子どもが大人と接し、お互いが時に相手を支えながら成長していくと評されている。古田足日は「現代のおとなの文学には、日常生活のこまごまとした悩みをどうとらえるかという読者の要求に応えていない広大な空白があり、その空白の一部を宮川作品や他の児童文学作品が埋めている」と記した。

故人が残した名言集【12月29日】

宮川ひろ さんの残した言葉【るすばん先生】1923年3月15日~2018年12月29日 「春が来るから 冬もいいんさ いいんさ」 日本の児童文学作家。群馬県出身。金華学園教員養成所卒業。 長男は児童文学研究者の宮川健郎。 坪田譲治の講演を聴いたことで文学を志し、1965年に日本児童文学者協会が開講した「新日本童話教室」に参加。 同人誌『どうわ教室』をあまんきみこらと創刊したほか、雑誌『びわの実学校』に作品を投稿した。この時期には今西祐行の指導を受けていた。 1969年、『るすばん先生』でデビュー。小学校教員時代には産休補助教員を務めた経験があり、『るすばん先生』は産休補助教員を題材とした作品である。 戸田蔵人さんの残した言葉【車椅子のモトクロスライダー】1980年6月5日~2015年12月29日  「また空を飛べるなんて夢のよう。 1度失なったから、明日は無くなるかもしれないのを分かっているから。」 「Hard work pays off right?? 努力は必ず報われるはず。じゃなくて報われるまで努力。どこまで出来るかですよね。」 日本のモトクロスレーサー。愛称はクラウディ。茨城県土浦市出身。 6歳からモトクロスをはじめ、17歳でプロに転向する。 2003年に全日本モトクロス選手権国際A級125ccクラス 総合3位に入賞する。 2008年6月に岩手県藤沢町のコースでヤマハとスズキの合同練習に参加した際に大事故で脊髄を損傷する。 その際、医師からは自力で歩くことができないことを宣告され、車いす生活を強いられるが、「絶対に歩けるようになる」と信じ、専門の医師を訪ねるなどして治療に当たる。 その後は再起を誓い、車いすでも操縦ができるように改良した自分専用のモトクロッサーを製作し、体をモトクロッサーに縛り付けた状態で大会に出場した。 2015年12月29日、かすみがうら市内の私設サーキットでジャンプの練習中に、バイクが着地した際に出火し、体をモトクロッサーに縛り付けていたため逃げ遅れて大やけどを負い死亡した。35歳没。 山田耕筰さんの残した言葉【あかとんぼ】1886年6月9日~1965年12月29日 「知識の極みのさきには、神秘の世界がある。神秘の扉を開いて光明の彼岸に達せんとするは、ただ感悟