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杉浦直樹さんの残した言葉【俳優】1931年12月8日~2011年9月21日

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「相手を待つというのは今ではレトロな恋です。待つ、待たせていくうちに人間が熟成していきます。人生は待つこと。結論をいってしまえば人間は死を待っているんですから。」 日本の俳優。愛知県岡崎市出身。フリーランス。血液型はB型。 1946年春、当時岡崎中学校で教鞭を執っていた画家の山本鍬太郎が演劇部を設立すると、すぐに入部。1948年4月の学制改革により愛知県立岡崎北高等学校に移る。杉浦の所属する演劇部は尾張、西三河、東三河の代表が競う県大会に一度出場するが、台本に三島由紀夫の作品を用いたことから審査員から「学生にあるまじきものだ」と批難を浴びた。1950年、岡崎北高校ではなく、岡崎高校を卒業した(高2回生)。日本大学芸術学部中退。在学中に、西村晃、岡田英次ら所属していた新協劇団の研究生に。1950年に内田良平、小松方正らとともに新演劇研究所を設立し主に舞台演劇で活躍。スタニスラフスキー・システムのもと訓練を行った。 映画では、1957年の石原裕次郎主演の『俺は待ってるぜ』でデビュー。続いて、1958年に石原裕次郎、小林旭、宍戸錠出演の『錆びたナイフ』で印象的な敵役を演じ、注目を集める。1958年に松竹に入社しにんじんくらぶに所属、二枚目役にも挑戦し活動範囲を広げる。1962年には松竹を退社し、1965年のにんじんくらぶ分裂後は、劇団欅の結成に参加した後、フリーとなった。この間、1963年頃、神戸市生田区のキャバレー「新世紀」前の路上で泥酔し、パトロール中の兵庫県警生田署員に発見され、職務質問を受けるとこれに殴りかかり、連行された生田派出所内で暴れてガラスを割り、トラ箱で一夜を過ごしたことがある。 以降はテレビドラマに比重を置き、向田邦子作品(『父の詫び状』『あ・うん』など)での演技で有名になる。

杉浦直樹さんの残した最後の言葉【俳優】1931年12月8日~2011年9月21日

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「皆さんにありがとうと言って下さい」 (最後の言葉) 「私の人生、メデタシ、メデタシ」 (最後の言葉) 日本の俳優。愛知県岡崎市出身。フリーランス。血液型はB型。 1946年春、当時岡崎中学校で教鞭を執っていた画家の山本鍬太郎が演劇部を設立すると、すぐに入部。1948年4月の学制改革により愛知県立岡崎北高等学校に移る。杉浦の所属する演劇部は尾張、西三河、東三河の代表が競う県大会に一度出場するが、台本に三島由紀夫の作品を用いたことから審査員から「学生にあるまじきものだ」と批難を浴びた。1950年、岡崎北高校ではなく、岡崎高校を卒業した(高2回生)。日本大学芸術学部中退。在学中に、西村晃、岡田英次ら所属していた新協劇団の研究生に。1950年に内田良平、小松方正らとともに新演劇研究所を設立し主に舞台演劇で活躍。スタニスラフスキー・システムのもと訓練を行った。 映画では、1957年の石原裕次郎主演の『俺は待ってるぜ』でデビュー。続いて、1958年に石原裕次郎、小林旭、宍戸錠出演の『錆びたナイフ』で印象的な敵役を演じ、注目を集める。1958年に松竹に入社しにんじんくらぶに所属、二枚目役にも挑戦し活動範囲を広げる。1962年には松竹を退社し、1965年のにんじんくらぶ分裂後は、劇団欅の結成に参加した後、フリーとなった。この間、1963年頃、神戸市生田区のキャバレー「新世紀」前の路上で泥酔し、パトロール中の兵庫県警生田署員に発見され、職務質問を受けるとこれに殴りかかり、連行された生田派出所内で暴れてガラスを割り、トラ箱で一夜を過ごしたことがある。 以降はテレビドラマに比重を置き、向田邦子作品(『父の詫び状』『あ・うん』など)での演技で有名になる。