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アルフレッド・ヒッチコックさんの残した言葉【サスペンス映画の神様】1899年8月13日~1980年4月29日

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「If I won’t be myself, who will?」 (もしわたしが自分らしくならなければ、いったい誰が?) 「Always make the audience suffer as much as possible.」 (常に観客をできるだけ苦しませなさい。) 「The length of a film should be directly related to the endurance of the human bladder.」 (映画の長さは、ひとの膀胱がどれだけ我慢できるかということに直結させるべきだ。) 「For me, the cinema is not a slice of life, but a piece of cake.」 (わたしにとって映画とは、人生の一片を描写するようなものではなく、一切れのケーキをペロリと食べるように苦もなくできることなんだ。) 「In feature films the director is God; in documentary films God is the director.」 (長編映画では監督が神であり、ドキュメンタリー映画では神が監督だ。) 「Revenge is sweet and not fattening.」 (復讐は甘いがふとらない。) 「Drama is life with the dull bits cut out.」 (ドラマとは、退屈な部分がカットされた人生である。) 「Television is like the American toaster, you push the button and the same thing pops up every time.」 (テレビはアメリカのトースターのようなものだ。ボタンを押すと毎回同じものが飛び出してくる。) 「Self-plagiarism is style.」 (自己盗用はスタイルだ。) 「I am a typed director. If I made Cinderella, the audience would immediately be looking for a body in the coach.」 (わたしは型にはめられた映画監督だ。もしわたしが『シンデレラ』を撮れば、観客はすぐに馬車の

大林宣彦さんの残した言葉【時をかける少女】1938年1月9日~2020年4月10日

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「政治家も経済家も、芸術家のように生きてほしい。それこそが、痛みを知っている敗戦国民の生き方だろうと思う。」 「未来に向って飛び出す勇気と知恵が何処から来るかというと、未来と同じくらい長く、深い過去の歴史から学ぶことで湧き出てくるものです。」 「映画というのはそうだなあ、「傷つきあって、許し合って、愛を覚える。」というのが、あらゆる映画のテーマでしょうかね。」 「良い映画というのは正直に一生懸命自分が信じることを描くだけ。」 「文化とは、言ってみれば「故郷自慢」であり、「スローライフ」であり、さらに言えば「温故知新」である。」 「芸術はジャーナリズムだと僕は思ってるんですね。優れたジャーナリズム。平和に向かうジャーナリズムだと思うんです。」 「ジャーナリズムとはまさに庶民1人1人が語るもの。民主主義の多数決なんかじゃありません。」 「みんな考え方が違い、自分と考えが違う人をいかに愛するかが芸術の本質。」 「黒澤(明)や小津(安二郎)の続きをやったら、お前達大監督だぜ。」そういうと彼らは黒澤や小津をようやく見始めるんですよ。それが伝統というのの大事なところでね。」 「競争社会の中にある限りは、突き詰めると戦争になっちゃう。」 「マイナスで考えたらマイナスのことばっかりですよ。予定通りに行くことなんて何にもない。」 「抱負というのを持ったことがない。」 「今の時代の危険は、全てが他人事になってしまったこと。」 「心とは物語のようなものです。つまり、喜怒哀楽も、喜・怒・哀・楽がそれぞれ一つひとつの独立したものだと情報ですが、これが循環し出すと物語になります。」 「僕は死と言うのはいまだにわからないです。でも少なくとも、その瞬間まで映画を撮っていようとは決めています。」 「映画というのはね、ハッピーエンドなんですよね。これは、僕は映画が生んだ素晴らしいフィロソフィーだと思う。」 「表現者というのは、チャーミングな常識人であるべきだと僕は思っています。」 「戦争という犯罪に立ち向かうには、戦争という凶器に立ち向かうには、正義なんかでは追いつきません。人間の正気です。正しい気持ち。人間が本来自由に平和で健やかで、愛するものとともに自分の人生を歩みたいということがちゃんと守

伊丹十三さんの残した言葉【映画監督】1933年5月15日~1997年12月20日

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「既成概念に一撃加えることで新しいものが見えてくる」 日本の映画監督、俳優、エッセイスト、商業デザイナー、イラストレーター、CMクリエイター、ドキュメンタリー映像作家。戸籍名は池内 義弘だが、家庭では岳彦と呼ばれて育ったため、本名・池内岳彦とされる場合もある。映画監督の伊丹万作は父。女優の宮本信子は妻。長男は池内万作。次男は池内万平。 1984年、51歳で、『お葬式』で映画監督としてデビューし、日本国内で高い評価をうける。この作品で受賞した映画賞は、日本アカデミー賞、芸術選奨新人賞を始めとして30を超えた。この映画は信子の父の葬式がきっかけであり、わずか一週間でシナリオを書き上げた。なお、本作はその著作を読み漁り講演などには必ず駆けつけるほど傾倒していた蓮實重彦の「理論」を強烈に意識して制作されたものであり、事実、主に30年代 - 40年代に至るハリウッド映画のシーン、ショットの引用が多数ちりばめられている。しかし、試写会に訪れた蓮實に対し伊丹は歩み寄り声を掛けたが、蓮實は無下に「ダメです」と返答しただけだった。伊丹は蓮實からの予想外な酷評にひどく失望したと言われているが、その影響からか二作目以降は「引用の織物」による「芸術的」な側面は姿を消し、もっぱらエンターテインメントに徹した作風となっている。また、この作品で伊丹はその前歴の俳優・エッセイスト・ドキュメンタリー作家・CM作家・イラストレーター・商業デザイナーとしての全ての経験が活かせる事を発見し、その後も食欲と性欲の未分化な人びとを喜劇的に描いた『タンポポ』や国税局査察部・通称「マルサ」に対する徹底した取材を元にした『マルサの女』、ヤクザの民事介入暴力と戦う女弁護士を描いた『ミンボーの女』など、日本の社会に対する強い問題意識をもちながら、かつエンターテインメント性に富み、映画史的引用や細部にこだわった映画作品を作り、一躍当時の日本を代表する映画監督となり、「伊丹映画」というブランドを築くことに成功する。

森田芳光さんの残した言葉【家族ゲーム・失楽園】1950年1月25日~2011年12月20日

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「僕がずっと大切に考えてきたのは、人生の中に『山と谷』をつくるということです。たとえば画家のピカソも、僕が大好きなジャズのトランペット奏者のマイルス・デイヴィスもそう。彼らは年代ごとに新しいテーマを追って成功と失敗を繰り返し、それらが山と谷のようになって彼らの人生を起伏のある味わい深いものにしている。僕自身も、映画をつくるたびに新しいコンセプトの挑戦し、自分の人生の山脈を築いてきたつもりです。」 「ずっと山のてっぺんばかりを歩くような人生は、ドラマとして面白くありません。谷があってこそ山がある。味のある人生にするためには、谷底を経験することも必要だと思うのです。」 「何より大事なことは、ひたむきな向上心を持っているかどうか。そういう人は進化する可能性がある。」 日本の映画監督、脚本家である。 1981年に『の・ようなもの』で、長編映画監督デビューした。以降、シリアスなドラマから喜劇、ブラックコメディー、アイドル映画、恋愛映画、ホラー映画、ミステリ映画と幅広いテーマを意欲的に取り扱い、話題作を数多く発表した。 音楽の大島ミチルとは、『失楽園』『模倣犯』『阿修羅のごとく』『間宮兄弟』など多数の作品で組んでいる。森田によると、大島とのやり取りは毎回「人に見せられないようなシビアな戦い」であるという。 漫画『松田優作物語』によると、『家族ゲーム』以来の森田&松田の次回作の企画段階で、映画の題材のアイデアがなかなか出ず、苛立った松田が森田に言いがかりをつけた際、森田は「お前なんかピストルで撃ち殺してやる!」と絶叫し、その言葉があまりにもナンセンスだったことで松田は吹き出してしまい、イザコザが収まったという。

小津安二郎さんの残した最後の言葉【名監督】1903年12月12日~1963年12月12日

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「映画はドラマだ、アクシデントではない。」 (最後の言葉) 「何も悪いことをした覚えはないのに、どうしてこんな病気にかかったんだろう。」 (最後の言葉) 「右足がどっかに行っちゃったのかね。ベッドの下に落っこちているんしやないかね。」 (最後の言葉) 日本の映画監督・脚本家。「小津調」と称される独特の映像世界で優れた作品を次々に生み出し、世界的にも高い評価を得ている。「小津組」と呼ばれる固定されたスタッフやキャストで映画を作り続けたが、代表作にあげられる『東京物語』をはじめ、女優の原節子と組んだ作品群が特に高く評価されている。 「小津調」とは、小津安二郎がつくりあげた独自の映像世界・映像美をさす。その主な特徴として、ロー・ポジションでとること、カメラを固定してショット内の構図を変えないこと、人物を相似形に画面内に配置すること、人物がカメラに向かってしゃべること、クローズ・アップを用いず、きまったサイズのみでとること、常に標準レンズを用いること、ワイプなどの映画の技法的なものを排することなどがある。また、日本の伝統的な生活様式へのこだわりや、反復の多い独特のセリフまわし、同じ俳優・女優が繰り返しキャスティングされることも小津調を作り上げる要素の一つになっている。 小津が求めた画面の完璧さは小道具や大道具の配置、色調にとどまらず、演じる俳優たちにも求められた。俳優の位置、動きから視線まですべて小津監督の計算したとおり実行することが求められた。これによって画面に完璧な美が生まれた。松竹の後輩として小津監督を見ていた吉田喜重は美しさへのこだわりから生み出される画面の美について「それはこの世界が無秩序であるがゆえに実現した、かりそめの幻惑であったのだろう。おそらく小津さん自身のこの世界を無秩序と見るその眼差しが、このなにげない反復の運動、その美しい規則性を見逃すことなく捉え、無上の至福にも似た、かりそめの調和といったものをわれわれに夢みさせるのである」と述べている。 1920年代、ハリウッドで映画製作に携わっていたヘンリー小谷(小谷倉市)が松竹蒲田撮影所に招かれ、ハリウッド流の映画製作技術を伝えた。その一つに、構図の中に俳優たちを配置し、その構図が崩れないように、カメラの動きと俳優の動きを制限するやり方があった。この手法が小津に大

小津安二郎さんの残した言葉【名監督】1903年12月12日~1963年12月12日

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「男女の仲というのは、『男が夢を見るのをやめ、女が紅を差すのをやめた』ときは、あきらめろ。」 「男女の仲というのは、『予想がつく』ときは、あきらめろ。」 「いたずらに激しいことがドラマの面白さではなく、ドラマの本質は人格を作り上げることだと思う。」 「ぬくもりだの暖かさだの、そんなのはゴマカシですよ。僕は、人生の本当の姿を描きたいんです。」 「しかし、世の中なんて、みんなが寄ってたかって複雑にしてるんだな。案外、かんたんになるもんさ。」 「お茶漬けだよ。お茶漬けの味なんだ。夫婦はこの、お茶漬けの味なんだよ。」 「男女の仲というのは、夕食を二人っきりで三度して、それでどうにかならなかったときは諦めろ。」 「どうでもよいことは流行に従い、重大なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う。」 日本の映画監督・脚本家。「小津調」と称される独特の映像世界で優れた作品を次々に生み出し、世界的にも高い評価を得ている。「小津組」と呼ばれる固定されたスタッフやキャストで映画を作り続けたが、代表作にあげられる『東京物語』をはじめ、女優の原節子と組んだ作品群が特に高く評価されている。 「小津調」とは、小津安二郎がつくりあげた独自の映像世界・映像美をさす。その主な特徴として、ロー・ポジションでとること、カメラを固定してショット内の構図を変えないこと、人物を相似形に画面内に配置すること、人物がカメラに向かってしゃべること、クローズ・アップを用いず、きまったサイズのみでとること、常に標準レンズを用いること、ワイプなどの映画の技法的なものを排することなどがある。また、日本の伝統的な生活様式へのこだわりや、反復の多い独特のセリフまわし、同じ俳優・女優が繰り返しキャスティングされることも小津調を作り上げる要素の一つになっている。 小津が求めた画面の完璧さは小道具や大道具の配置、色調にとどまらず、演じる俳優たちにも求められた。俳優の位置、動きから視線まですべて小津監督の計算したとおり実行することが求められた。これによって画面に完璧な美が生まれた。松竹の後輩として小津監督を見ていた吉田喜重は美しさへのこだわりから生み出される画面の美について「それはこの世界が無秩序であるがゆえに実現した、かりそめの幻惑であったのだろう。おそらく小津さん自身のこの世界を無秩序と見るその眼差しが、このな

若松孝二さんの残した言葉【映画監督】1936年4月1日~2012年10月17日

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「一本の映画が人生を変えることがある。映画っていうのはそれだけの力を持ってるんですよ。俺は叩き上げだから大学出の監督とは違う。予算じゃない。学歴じゃない。文法もない。映画作りで一番重要なのは『志』ですよ。その『志』が俺にはあるし、金がなくても撮れる方法を知っている。」 「本当に、世の中を変えようと立ち上がることができるのは、若者しかいないんじゃないか。…楽な生き方を捨てて、自分の全てを捨てて闘おうとした若者を、単純に『愚かだ』と批判する人間こそ、僕は愚かだと思っている。」 「映画には時効はない。僕が死んでも作品は死なない。 志があれば、表現はできる。」 日本の映画監督、映画プロデューサー、脚本家。宮城県出身。本名は伊藤孝。

オードリー・ウェルズさんの残した言葉【トスカーナの休日】1960年4月29日~2018年10月4日

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「それぞれが生きている。過去、現在、そして未来。」 「求めるのをやめちゃだめよ。いつかきっと得られるわ。」 「参ったか?パンチはあらゆるところから飛んでくる。人生と一緒だ。」 「やがてすべてをあきらめた時、人は大人になるのだろう。」 「空飛ぶ夢を最後に見たのはいつだったか、きみは覚えているだろうか?」 アメリカの映画監督。 サンフランシスコ生まれ。カリフォルニア大学バークレー校を卒業後、カリフォルニア大学ロサンゼルス校の映画学科に進み修士号を取得。脚本家として「好きと言えなくて」や「キッド」の脚本などを手がける。 1999年監督デビュー作「写真家の女たち」でサンダンス映画祭最優秀脚本賞とドーヴィル映画祭の審査員賞特別賞を受賞。 2018年10月4日、癌のためカリフォルニア州のサンタモニカにて死去。58歳没。

黒澤明さんの残した言葉【巨匠】1910年3月23日~1998年9月6日

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「よく絶望とか後悔とは無縁の強い人間だからとか、特別な才能があるとか言われるけど、それは違うよ。センチメンタルな弱虫だから、強そうな顔をして意地を張ってるだけだ。弱みを見せたり、人に負けるのが嫌だから、無茶なほど頑張るだけだ」 「悪いところは誰でも見つけられるけれど、いいところを見つけるのは、そのための目を磨いておかないとできない」 「悪魔のように細心に、天使のように大胆に」 日本の映画監督、脚本家、編集家、映画製作者である。 妻は元女優の矢口陽子。 映画史の中で最も重要かつ影響力のある映画監督、巨匠であり、ダイナミックな映像表現とヒューマニズムに徹した作風で、『羅生門』『生きる』『七人の侍』など30本の監督作品を生み出した。 黒澤映画はヒューマニズムに徹した作風、ダイナミックな映像表現、マルチカム撮影方式(英語版)やパンフォーカスなどを使用した画期的な撮影スタイルで知られる。また大きなセットを組み立てたり、リハーサルを徹底した演技指導を行うなど、完璧主義で妥協を許さない演出でも知られる。生涯で30本の監督作品があるが、そのうち16本で三船敏郎とコンビを組んでいる。 海外ではマカロニ・ウエスタンやアメリカン・ニューシネマ、アンドレイ・タルコフスキー、スティーヴン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラなどの監督に大きな影響を与えた。1990年に日本人で初めてアカデミー名誉賞を受賞し、1999年には『タイム』アジア版の「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」に選出されている。文化勲章受章、文化功労者顕彰、東京都名誉都民選出、贈従三位(没時叙位)、贈国民栄誉賞(没後追贈)。

姫田忠義さんの残した言葉【映画監督】1928年9月10日~2013年7月29日

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「記録は未来のためにある。」 日本のドキュメンタリー映画監督、映像民俗学者である。株式会社民族文化映像研究所名誉所長。特定非営利活動法人「地球ことば村・世界言語博物館」顧問。 中央大学経済学部名誉教授で中国近現代史研究者の姫田光義は弟。長男はフルート演奏家の姫田大。

瀬川昌治さんの残した言葉【映画監督】1925年10月26日~2016年6月20日

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「創作意欲は衰えませんね。もし、衰えたらやめるつもりです。」 日本の映画監督、脚本家、舞台演出家。喜劇映画の名手とされ、1960年代に数多くの喜劇シリーズを監督した。

今村昌平さんの残した言葉【映画監督】1926年9月15日~2006年5月30日

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「回り道なんてものはないと思う。その回り道がまっすぐな道だと思えば、まっすぐな道だと思う道が、本当は回り道ではないだろうか?」 日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、日本映画学校の創設者。 同姓同名の別人で映画関係者がいる。

新藤兼人さんの残した言葉【映画監督】1912年4月22日~2012年5月29日

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「人は一生仕事をして生きる。何人もそうである。君は何のために生きているかと問われれば、躊躇なく、私は仕事のために生きていると答える。」 「人は老いれば、老いというものの中にいろんな問題を抱えます。金銭的に恵まれないとか、健康を害するといったことです。しかし、生き方の成り行きの中でそれらにまみれて自滅していくのはやはり悲しい。できれば、闘いながら終わっていきたい。そのためには何のために生きるかという自分の意志や個性、生き方をしっかり持っていなければならないと私は思います。」 「かつて人生50年と言いました。医学が進歩し、環境が整備されたいまは、人生80年です。それも枯れ木のように老いた期間が長引いたのではなく、才能や知識、見識、経験が頂点に達した期間が引き伸ばされました。いまの80歳といったら、昔の60歳くらいでしょう。まだまだ能力はあります。しかも、それは挫折と闘い、それを乗り越えてきた能力だから、覚悟とか勇気とか生き方とか若い人にはないものが含まれます。そういう年齢自体がひとつの才能です。」 「私自身を例に挙げれば、シナリオを書き、映画を撮っていますが、私に何ら能力がなかったら世間は受け入れてくれません。現実は厳しいから、お前は年を取ってしまってもう駄目だけれど、仕方がないから認めてあげようなどということは絶対にない。価値がなければ認めてもらえないんです。」 「企業の定年退職は、人間の能力について想像力を欠如させた悪しき制度ですね。社会制度、つまり人間の生き方に対する社会的な観念が、寿命の延びに追いついていないのがいまの大きな問題だと思いますが、定年制度はそのひとつです。60歳を超えたら引退して静かに暮らすべきだというのは、老人を理解していません。」 「私は仕事をして生きてきた。その仕事の中に私自身が含まれていると私は思います。仕事とは、私であり続けること、私とは何かを考え続けることなんです。」 「人は皆、仕事をして生きてきました。私みたいな映画監督であろうが、ビジネスマンや農民、医者であろうが、技術を磨き、仕事をすることで、結婚したり子供をつくったりしてきました。家族を養うために仕事をし、仕事をしてきたから過程を作ることができたという意味で、仕事とは生き方そのものです。」 「私は間もなく89歳になりますが、これからも映画を撮り続けようと思っています

降旗康男さんの残した言葉【映画監督】1934年8月19日~2019年5月20日

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「子どもの頃、戦争の最中のことですが、ある日の放課後、担任の先生に呼ばれて「サイパンが陥落した。日本は戦争に負けるよ。お前はお調子者だから、気軽に少年兵志願に手を挙げたりしちゃいけないよ」と言われました。みんなが日本は勝つと信じていた時代だっただけに驚いたと同時に、この先生のようにものを考える人がいることに目を開かされました。そうしたら、今度は近所にやってきた特攻隊の兵士が「君たちは志願して兵隊になってはいけない」と同じことを話してくれた。そのときに「大勢に流されない人たちがいるのだ」と知り、素直にすごいなあと思ったんです。それから絶対、大勢に流されてはいけないと心に言い聞かせ、自分の生きていく指針となっています。安易に迎合しない、自分の意志に逆らうことをしないのは、その経験が大きい。」 「映画には文章と違って『接続詞』がない。見る人の人生がそこを埋める。」 「若いころ何度か挫折を経験し、さすがにもう辞めようと思っていた矢先、宮島義勇さんというカメラマンと出会った。そこで変わりましたね。宮島さんは、たとえば雲を撮影するシーンなど、納得できる雲が出るまで2週間待ち続けたりするわけです。最初は驚いたのですが『映画っていうものは、ただ撮ればいいんじゃない、何を撮るかだ』と。その宮島さんの姿勢、思いが僕にしみ入った。映画の面白さを身体にたたきこんでもらった気がします。」 「世の中に負けた人、はじき出された人、そうならざるを得なかった人。そういった、世間で言うところの『負け組』の人々の生き方にこそ、本当の人間のおかしさ、美しさ、かわいらしさがある。」 日本の映画監督。長野県松本市出身。

鈴木則文さんの残した言葉【映画監督】1933年11月26日~2014年5月15日

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「せめて映画ぐらいは弱い者の味方であってもいいじゃないか、なんて言ったら格好つけすぎかな。」 「一部で無思想無節操の職人監督の典型との評があるが、それが何よりの褒め言葉。」 日本の映画監督・脚本家。静岡県浜松市出身。愛称はコーブン、コーブンさん。代表作は『緋牡丹博徒シリーズ』 、『温泉みみず芸者』『女必殺拳シリーズ』『トラック野郎』シリーズ など。

高畑勲さんの残した言葉【映画監督】1935年10月29日~2018年4月5日

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「かつての『ハイジ』にしても、『母をたずねて三千里』や『赤毛のアン』にしても、ぼくは、はじめは、なんでこんなものをアニメーションにしようとするんだろう、する必要はないんじゃないか、というところから出発しました。感動というのは、あっという間に雲散霧消してしまう感情を表現しているだけですよね。知的、理性的に何かを掴んだかどうかはあまり問われないんです。」 「ディズニーは、すでに無声映画時代から絵を描いていません。あとの半生は、優れた才能を集めてイメージを伝え、しかもその人たちの能力を、過酷なまでに、実に見事に引き出したわけで……そういうアンサンブルを作り出すことに徹していました。」 「これはぼくが年をとったせいかもしれませんが、客観的に見れば、人間っていうのは、非常に単純なことで満足できるように思います。」 「『たのしみにしていた遠足の途中で雨が降ってしまったらつまらなくなる』かどうかですが、雨でたいへんな目に遭ったことの方が、かえって印象に残ってしまうほうが多いですよね。あとから客観的に見れば、『それも、よかったことではないですか?』ということです。」 「家族も、ことあるごとに、つまらんことで大騒動しますけれど、大騒動や失敗って、あとで思い出すと、たいていおもしろいことですよね。『待ち合わせをして、相手が来なくて腹を立ててしまい、ひどいことになってしまったけれど……』というような記憶だって、やっぱり、忘れられないもののはずです。」 「ぼくは『おもしろいことができそうだ』というのが好きなんです。自分がいまいる会社をなんとかしたいとか、団結をしたいとかいうことよりは、『おもしろい作品を作りたい』という気持ちの方が先にきています。」 「ぼくはもともと、宮崎駿さんをはじめ、多くのアニメーション仲間とは、仕事ではない場面で話すことで仲良くなっていきました。読んだ本のことであれ、世の中のことであれ、さまざまなことを折に触れて話しあっているなかで、それぞれの人の考えというのは、ちゃんと伝わってきますから。」 「自分で描かないという立場であれば、才能を持っている人を自分の色にねじふせて絵を描かせるのではなくて、『その人の絵の才能を発揮してもらう』という方向にもっていけるのではないでしょうか。いや、もっていくしかないんです。」 「みんなが、他人のことも自分のことも、まず

市川崑さんの残した言葉【映画監督】1915年11月20日~2008年2月13日

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「何をやってもダメという時、そんな時はパスの一手。 一戦戦えるだけのカードが来るまで待つのが一番。」 「スランプというのは、ものが作れなかったり、仕事の口がかかってこなかったり、いろいろの場合がありますが、そんな時こそ、苦しいが飛躍するための力を養うチャンスだ、スランプとの共存、これは、発展しようとしたら一番大切なことだ。」 日本の映画監督。アニメ、人形劇制作者。 娯楽映画からドキュメンタリー、更にはテレビ時代劇ドラマまでを幅広く手がけ、長期間映画制作に取り組んだ。また日枝久、角川春樹、松岡功ら経営者とも親しかった。有馬稲子との交友も有名であった。

鈴木清順さんの残した言葉【映画監督】1923年5月24日~2017年2月13日

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「戦争の体験談とは親が子供にすべきもので他人にすべきものでは本来ないような気がする」 「不得手なものからは奇蹟は生まれない。」 日本の映画監督、俳優。本名は鈴木 清太郎。弟に元NHKアナウンサーの鈴木健二がいる。 日活の専属監督として名を馳せ、小林旭、高橋英樹、宍戸錠らを主演に迎えた。『殺しの烙印』は一般映画のみならずカルト映画としても世界的な評価が高い。

大島渚さんの残した最後の言葉【映画監督】1932年3月31日~2013年1月15日

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「ママ……」 (妻へ) (最後の言葉) 日本の映画監督、脚本家、演出家、著述家。フィクションだけでなくドキュメンタリーも制作した。

大島渚さんの残した言葉【映画監督】1932年3月31日~2013年1月15日

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「職業に貴賎はないが、人に貴賎はある。大事なのは職業ではなく、その人間の実質。そういう時代になりつつある。」 「きっぱりノーと言うことは、人生を楽にしてくれる方法なんです」 「今やれることを、今やらなかったら、一生やれないということなんだ」 「情報もいいでしょう。でも、生の体験は強い。」 日本の映画監督、脚本家、演出家、著述家。フィクションだけでなくドキュメンタリーも制作した。