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マーガレット・ミードさんの残した言葉【文化人類学者】1901年12月16日~1978年11月15日

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「『知識があり覚悟を決めたからといって小人数では世界を変えられない』などと思ってはいけない。実際に世界を変えてきたのはそんな人たちなのだ。」 「どんな大きな社会運動も、始まりは一人だった。」 「思慮深い献身的な市民の小さなグループが世界を変えられることを決して疑ってはならない。それはまさに起こったことなのだ。」 「心に性別はない。」 「明日、起こる大人の問題を解決できるかどうかは、今日の子供たちの成長を、どれだけ大きなスケールで測ることができるかにかかっている。」 「未来とは、今である。」 「人類は太古の昔から、帰りが遅いと心配してくれる人を必要としている。」 アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア生まれの文化人類学者である。コロンビア大学でミードを指導したルース・ベネディクトとともに20世紀米国を代表する文化人類学者と評価されている。

星野哲郎さんの残した言葉【作詞家】1925年9月30日~2010年11月15日

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「才能というのは、触発してくれる人がいて初めて花咲くものです。」 「歌詞は出だしの2行で決まる」 日本の作詞家であり、戦後歌謡界を代表する作詞家の一人。各所で「星野哲朗」という表記がされることがあるが、「哲郎」が正しい表記。「有田めぐむ」「阿里あさみ」など、数多くのペンネームが存在する。 山口県大島郡森野村出身で、東京都小金井市に在住していた。 星野節とも称される、自分の実体験をベースにした独特の世界観を持つ作風で知られる。船村や石本と銀座に繰り出しては音楽論を戦わせ、そのとき思い浮かんだフレーズをコースターにしたため、翌朝までに夫人がそれを清書した物を作詞の下地としていたという。 こういった形で生まれた歌詞を星野自身は「演歌」と称さず、遠くにありて歌う遠歌、人との出会いを歌う縁歌、人を励ます援歌などと称していた。星野哲郎記念館でも、これらをまとめて星野えん歌と表現している。 なかにし礼によると、性格は大変穏和で「荒っぽい大声はついぞ聞いたことがなく、後輩でも丁寧に扱った」という。

三宅久之さんの残した言葉【政治評論家】1930年1月10日~2012年11月15日

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「政治家がダメだって言うけども、選んだのはみなさんが選んだんですよ。政治家を見抜くのはなかなか難しいけども、やっぱり製造者責任っていうのもありますからね」 「私は政治家にむいてないと思っていた。電信柱にまで頭を下げるなど大衆迎合的になることには我慢ならない性質なので」 「子分になると、あなたに直言できなくなる」 (秘書官になることを誘われた際に) 「愛妻・納税・墓参り」 日本の政治評論家、コメンテーター。元毎日新聞記者。 座右の銘は「愛妻・納税・墓参り」。愛妻家であり、夫婦旅行のため番組を休むこともあった。平成期に渡部昇一などと1930年の昭和で最初の午年生まれの著名人の同級生会の昭和初午会を組織した。昭和一桁世代の三宅より1つ世代が上の大正世代の戦死した若い日本兵を尊敬している事から靖国神社によく参拝していた。2006年には金婚式を迎えた。 読売新聞グループ本社代表取締役会長の渡邉恒雄とは新聞記者時代からの友人だった。 何度か選挙出馬を持ちかけられたこともあったが、総て辞退している。出馬辞退については、晩年「私は政治家にむいてないと思っていた。電信柱にまで頭を下げるなど大衆迎合的になることには我慢ならない性質なので」と語っている。大臣の秘書官になることを誘われた時も、「子分になると、あなたに直言できなくなる」という理由から断っている。 威厳ある天皇像を望み、天皇が被災地で膝行したり、天皇が手を出す前に握手を求める者に天皇が応じることに否定的であり、そんな手は撥ね退けるべきと主張している。また、女性宮家の是非については、『たかじんのそこまで言って委員会のそこまで熱くなって委員会』や自身のFacebook等で一応賛成だが、女系天皇を認めることに対しては疑問を呈し、「伝統を失えば天皇制ではなくなり、男系を維持するべき」と云う考えを主張している。

故人が残した名言集【11月15日】

三宅久之さんの残した言葉【政治評論家】1930年1月10日~2012年11月15日 「政治家がダメだって言うけども、選んだのはみなさんが選んだんですよ。政治家を見抜くのはなかなか難しいけども、やっぱり製造者責任っていうのもありますからね」 「私は政治家にむいてないと思っていた。電信柱にまで頭を下げるなど大衆迎合的になることには我慢ならない性質なので」 「子分になると、あなたに直言できなくなる」 (秘書官になることを誘われた際に) 「愛妻・納税・墓参り」 日本の政治評論家、コメンテーター。元毎日新聞記者。 座右の銘は「愛妻・納税・墓参り」。愛妻家であり、夫婦旅行のため番組を休むこともあった。 平成期に渡部昇一などと1930年の昭和で最初の午年生まれの著名人の同級生会の昭和初午会を組織した。 昭和一桁世代の三宅より1つ世代が上の大正世代の戦死した若い日本兵を尊敬している事から靖国神社によく参拝していた。 2006年には金婚式を迎えた。 読売新聞グループ本社代表取締役会長の渡邉恒雄とは新聞記者時代からの友人だった。 何度か選挙出馬を持ちかけられたこともあったが、総て辞退している。 出馬辞退については、晩年「私は政治家にむいてないと思っていた。電信柱にまで頭を下げるなど大衆迎合的になることには我慢ならない性質なので」と語っている。 大臣の秘書官になることを誘われた時も、「子分になると、あなたに直言できなくなる」という理由から断っている。 威厳ある天皇像を望み、天皇が被災地で膝行したり、天皇が手を出す前に握手を求める者に天皇が応じることに否定的であり、そんな手は撥ね退けるべきと主張している。 また、女性宮家の是非については、『たかじんのそこまで言って委員会のそこまで熱くなって委員会』や自身のFacebook等で一応賛成だが、女系天皇を認めることに対しては疑問を呈し、「伝統を失えば天皇制ではなくなり、男系を維持するべき」と云う考えを主張している。 星野哲郎さんの残した言葉【作詞家】1925年9月30日~2010年11月15日 「才能というのは、触発してくれる人がいて初めて花咲くものです。」 「歌詞は出だしの2行で決まる」 日本の作詞家であり、戦後歌謡界を代表する作詞家の一人。 各所で「星野哲朗」という表記がされることがあるが、「哲郎