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エディ・ヴァン・ヘイレンさんの残した言葉【ギタリスト】1955年1月26日~2020年10月6日

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「音楽なんてものはある人にはクズ、ある人にはゴールド。それでいいんだ。」 「もしロックスターや有名人になりたければ、裸で路上を駆け抜ければいい。絶対ニュースになる。もし音楽で生計を立てたいんだったら、弾いて弾いて弾きまくれ!そうすればいつの間にか、立ちたかった場所にいる。」 「おれはバンドメンバーの1人だから、アルバムの制作なしでツアーに出るようなことはしない。」 「ヴァンヘイレンを結成した時、成功への道なんて見えなかった。ただ好きなことをやっていただけだ。」 「ピアノは万能な楽器だ。ピアノから初めて理論や楽譜の読み方を学べば、どんな楽器だって弾ける。」 「めちゃくちゃよく鳴るギターとアンプを持っていて、ギターにその音を出させる方法を知っていれば完璧だ。いい音がなるギターと、どういう音を鳴らすことが出来るかという理解が大事だ。」 「音楽を作る力というのは、神から与えられたものなんだ。俺よりもパワーのある存在が、アイディアを与えてくれるんだよ。」 「俺にとっては、シンプルであることこそが、A地点からB地点までの最も簡単な道だ。どうして皆、物事を複雑にしようとするんだ?と、いつも思うね。」 「俺達はトレンドは追いかけない。俺達は俺達で、誰かより優れているなんて宣言もしないし・・・。心から出てきた音楽をやっているだけだよ。」 「ジャズとロックンロールの唯一の違いはロックンロールの音の方がちょっと大きいってことさ。何をやるにしても型は決まっていないし、どんなことをやってもいいんだ。ルールはないんだよ。」 「俺にとって音楽というのは競争するようなものじゃないんだ。自分を満足させてくれる音楽を書こうとしている。それだけが俺のガイドラインさ。」 「僕達は人々のためにプレイしているんだから、彼らが望むものを与えなければいけないよ。それをやりたくないんだったら、家で1人でプレイするしかないね。(笑)。」 「俺は地球で一番ラッキーな男なんだと思うよ!兄貴と生涯ずっと一緒にプレイしてきて、今では息子とも一緒だなんてね。」 「名誉なことだ。もしも僕が誰かを刺激してギターを弾かせたとしたら、それは素晴らしいことだと思う。」 「自分の周りにあるものが自分に影響を及ぼし、作る音楽、考え方、総てに影響を及ぼすのさ。だが総ては無意識のうちに出て来るんだよ。」 「俺達からミュージシャンという仕事を取

ボブ・ディランさんの残した言葉【歌手で初のノーベル文学賞】1941年5月24日~

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「You can’t be wise and in love at the same time.」 (恋をしながら賢くなんてなれやしない。) 「All I really want to do is, baby, be friends with you.」 (僕が本当にしたいことは、君と友達になることなんだ。) 「I ain’t looking for you to feel like me, see like me, or be like me.」 (君が僕と同じように感じたり、理解したり、君が僕のようになるなんて望んではいない。) 「You don’t need a weatherman to know which way the wind blows.」 (風向きを知るのに天気予報官はいらない。) 「He not busy being born is busy dying.」 (日々生まれ変わるのに忙しくない人は、日々死ぬのに忙しい。) 「Behind every beautiful thing there’s been some kind of pain.」 (すべての美しいものの陰には、何らかの痛みがある。) 「The future to me is already a thing of the past.」 (僕にとって未来とは、既に過去のことなんだ。) 「All the truth in the world adds up to one big lie.」 (世の中のあらゆる真実が積み重なってひとつの大きなウソになる。) 「Colleges are like old-age homes, except for the fact that more people die in colleges.」 (大学なんて老人ホームみたいなもんだ。ただ、大学で死んでしまう人のほうが多いけどね。) 「No one is free, even the birds are chained to the sky.」 (自由なものなど何もない。鳥さえも空につながれている。) 「Miles Davis has been booed. Hank Williams was booed. Stravinsky wa

ジェイソン・ムラーズさんの残した言葉【ミュージシャン】1977年6月23日~

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「You’re not obligated to win. You’re obligated to keep trying. To the best you can do everyday.」 (勝つ義務はありません。挑戦し続ける義務があります。毎日できることまで。) アメリカ合衆国・ヴァージニア州メカニックスビル出身の男性ミュージシャン・シンガーソングライター。オーガニックなアコースティック・ギターのサウンドをベースに、ソウル、ファンク、レゲエ、R&Bを取り込んだ緩やかで和やかなポップ・ソングを、ラップ調の早口なヴォーカルに乗せて唄う。

ボブ・マーリーさんの残した最後の言葉【魂の反逆者】1945年2月6日~1981年5月11日

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「Money Can't buy life.」 (人生は金で買えない。) (最後の言葉) ジャマイカ出身のレゲエミュージシャン。レゲエの先駆者の一人とみなされており、レゲエ、スカ、ロックステディの要素を融合した曲作り、滑らかで独特な歌声と宗教的・社会的な作詞スタイルで知られる。 10年以上にわたるポピュラーカルチャーの世界的な人物としての活躍により、ジャマイカ音楽の世界的な認知度を高めることに貢献した。また、彼はラスタファリの象徴、ジャマイカの文化とアイデンティティの世界的なシンボルとみなされている。マリファナ合法化支持者であり、汎アフリカ主義。史上最も売れている音楽アーティストの1人としてランク付けされ、推定売上高は世界中で7,500万枚を超え、彼の音楽と思想は数多くの人々に多大な影響を与えた。

ジョージ・ハリスンさんの残した最後の言葉【ザ・ビートルズ】1943年2月25日~2001年11月29日

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「Love one another.」 (愛し合おう。) (最後の言葉) イギリスのミュージシャン。ザ・ビートルズのメンバーである。ビートルズ解散後もソロミュージシャンとして、長期間活躍した。また、エリック・クラプトンとの長きに渡る親交もよく知られている。 ビートルズのメンバーでは最も年下で、主にリードギターとコーラス、ヴォーカルを担当した。自作曲も20曲以上発表している。また、各種楽器の導入にも積極的であり、初期においてはエレクトリック12弦ギターを(後にアメリカのグループ、バーズのサウンドに影響を与えたといわれる)、中期にはインド楽器であるシタールを取り入れ、楽器の導入に留まらず、インド音楽とロックの融合を試みて、後のラーガ・ロックに大きな影響を与えた。また、後期には初期の型のシンセサイザーをいち早く導入している。 ビートルズ時代のジョージの作品の特徴として、メロディーラインにシンコペーションを多用した曲が多いことが挙げられる(「タックスマン」「アイ・ウォント・トゥ・テル・ユー」「嘘つき女」「恋をするなら」など)。インド楽器の導入と同様、ジョンやポールとの違いを打ち出そうとする意識が強かったと思われる。 ビートルズのメンバーとしては、二枚看板で優秀なメロディーメーカーであるレノン=マッカートニーの陰に隠れ、当初は目立たない存在であったが、活動中期に至ってジョージ作の「恋をするなら」と「嘘つき女」がアルバム『ラバー・ソウル』に収録され、「タックスマン」がアルバム『リボルバー』のA面1曲目を飾るなど次第に頭角を現し、「アイ・ミー・マイン」「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」「サムシング」「ヒア・カムズ・ザ・サン」などの楽曲を完成させる。しかし、当時ビートルズ内でジョージは不遇で、アルバム1作につき2曲しか収録されない(『リボルバー』のみ3曲)、自由にリードギターを弾かせてもらえないなどと不満を募らせる。この確執は「ゲット・バック・セッション」で顕在化し、メンバーの中でも彼は早くからソロ活動を志向するようになり、バンド解散の原因の一つともなった。ドキュメンタリー映画「レット・イット・ビー」にギターソロをめぐってポールと口論するシーンが収録されている。ゲットバック・セッションを「最悪だったよ。地獄にいるみたいだった。世界一熱

レナ・ホーンさんの残した言葉【ジャズシンガー】1917年6月30日~2010年5月9日

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「It's not the load that breaks you down, it's the way you carry it. 」 (行き詰まるのは重荷を背負っているからではないわ。背負い方がいけないだけなの。) 「I'm me,and I'm like nobody else.」 (私は私なのです。他の誰でもありません。) 「My identity is very clear to me now. I am a black woman. I’m free. I no longer have to be a ‘credit.’ I don’t have to be a symbol to anybody; I don’t have to be a first to anybody. I don’t have to be an imitation of a white woman that Hollywood sort of hoped I’d become. I’m me, and I’m like nobody else.」 (今や、私のアイデンティティーは、とてもはっきりしている。私は、黒人の女性であり、私は自由。私は、もはや『何々の』といった形容詞も必要ない。私は誰かにとっての象徴でもなければ、何々をした最初の人物と言われる必要もない。ハリウッドがそうなってほしいと思ったような白人の女性像を真似る必要もない。私は私。私は、他の誰とも違う) アメリカ合衆国のジャズ歌手、俳優。日本ではリナ・ホーンという表記も見られる。広範囲に、そして自主的にジャズ・アーティストと共演した。亡くなるまでニューヨークに在住、2000年以降は公の場に姿を現していなかった。19世紀の政治家ジョン・カルフーンを先祖に持つ。

レス・ポールさんの残した言葉【ギブソン・レスポールの生みの親】1915年6月9日~2009年8月12日

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「成功する秘訣は、今より少しだけ上を目指すこと。これを続けることだね。」 アメリカのギタリストでかつ発明家。ソリッドボディーのエレクトリック・ギター、「ギブソン・レスポール」の生みの親である。 「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第46位、2011年の改訂版では第18位。 ポールは8歳のときに初めて音楽に関心を持ち、ハーモニカの演奏を始める。バンジョーを習った後、ギターを弾き始める。エディ・ラングやジャンゴ・ラインハルトなどに影響を受け、13歳までにカントリーミュージックのセミプロ・ギタリストとして演奏活動を行っていた。17歳の時にルーブ・トロンソンのテキサス・カウボーイズと共に活動し、間もなく高校を落第する。彼はミズーリ州セントルイスのラジオ局 KMOX のバンド、ウォルバートンズ・レディオ・バンドに加入した。 サニー・ジョー&ルバーブレッド(当時のレス・ポールのステージ名)のコンビを1930年代初期に結成。シカゴ中心に人気を得る。1933年に解散。 この頃昼はルバーブ・レッドとしてラジオショーなどに出演、夜は本名でジャズグループに参加していた。 1936年、ジム・アトキンスとアーニー・ニュートンとトリオを組み初めてのレコードをリリース。 1941年、レス・ポールは新しいエレキギター「ログ(角材の意)」を作成した。このギターは4x4の角材の両端にサウンドホールを持ったボディ材を留め、ネックを角材に取り付けたもので、今で言うセンターブロックを持ったギターである。ソリッドボディのエレキギターの原型とも言える代物である。他にもヘッドのないアルミニウムボディの「ヘッドレスワンダー」を開発している。 1946年、ログのアイディアをギブソン社に持ち込んだが一蹴される。この頃自宅に録音スタジオを建設し様々な発明をする。レコードのカッティングマシーンを自作したり、多重録音を可能にしたり、アナログディレイマシンの原型などである。これらの施設は当時最先端の技術を擁していた。 1948年、世界初のオーバーダビングレコーディングで作られた「Lover/Brazil」をリリース。1月26日に交通事故であわや右腕を切断かという大怪我を負うが、1年のリハビリ生活の後奇跡的に復帰(リハビリ中にもリード・パートを

デューク・エリントンさんの残した言葉【A列車で行こう】1899年4月29日~1974年5月24日

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「A problem is your chance to do your best.」 (ピンチをチャンスに。) 「There are simply two kinds of music, good music and the other kind.」 (音楽には二種類しかない。よい音楽とそれ以外だ。) 「My attitude is never to be satisfied, never enough, never.」 (決して満足しない。それが僕の性格なんだ。もう十分ってことはない。絶対にね。) 「The wise musicians are those who play what they can master.」 (賢明なミュージシャンとは、十分に習得できる曲を演奏する人間だ。) 「People do not retire. They are retired by others.」 (人はみずから引退しない。他人に引退させられるのだ。) 「There are two kinds of worries – those you can do something about and those you can’t. Don’t spend any time on the latter.」 (悩みや心配事には二つの種類がある。君が何かできるものと、どうしようもないものだ。後者については、時間をかけてもしょうがない。) 「Love is supreme and unconditional; like is nice but limited.」 (愛とは至上のものであり、無条件のものである。好きとは魅力はあるが、限りがあるものだ。) 「Gray skies are just clouds passing over.」 (空が曇っているときは、雲が横切っているだけなんだよ。) 「Art is dangerous. It is one of the attractions: when it ceases to be dangerous you don’t want it.」 (芸術とは危険なものだ。それが魅力の一つであり、危険さを失った芸術は誰も欲しない。) 「Fate is being kind to me. Fate doesn’t want me

エラ・フィッツジェラルドさんの残した言葉【Just One Of Those Things】1917年4月25日~1996年6月15日

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「Just don’t give up trying to do what you really want to do. Where there is love and inspiration, I don’t think you can go wrong.」 (本当にやりたいことに挑戦するのをあきらめないで。愛とインスピレーションがあれば、うまくいかないことなんてないわ。) 「It isn’t where you came from, it’s where you’re going that counts.」 (大事なのは今までのあなたじゃなく、これからのあなた。) 「I stole everything I ever heard, but mostly I stole from the horns.」 (聞いたことすべてを盗んだけど、ほとんどが管楽器からね。) 「The only thing better than singing is more singing.」 (歌うことより優れた唯一のものは、もっと歌うことよ。) アメリカ合衆国のジャズ・シンガー。ビリー・ホリデイ、サラ・ヴォーンと並び称される20世紀の女性トップ・ジャズ・ボーカリストの1人。 13回のグラミー賞受賞に加え、イェール、ダートマス、プリンストン大学において名誉博士号を授与され、ジョージ・W・ブッシュからは大統領自由勲章を授与されるなど、レコードセールス、批評の両面で高い評価を受けた。 「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第25位。

フランク・ザッパさんの残した言葉【ミュージシャン】1940年12月21日~1993年12月4日

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「A mind is like a parachute. It doesn’t work if it is not open.」 (心はパラシュートのようなものだ。開いていないと機能しない。) 「So many books, so little time.」 (たくさんの書物、わずかな時間。) 「If you want to get laid, go to college. If you want an education, go to the library.」 (女と寝たいやつは大学に行け。教養が欲しいやつは図書館に行け。) 「Without deviation from the norm, progress is not possible.」 (規範からの逸脱がない限り、進歩するのは不可能だ。) 「If you end up with a boring miserable life because you listened to your mom, your dad, your teacher, your priest, or some guy on television telling you how to do your shit, then you deserve it.」 (もし君が、両親や教師、牧師、もしくはテレビの中の誰かさんの言うことを素直に聞いてしまったため、退屈で惨めな人生を送るはめになったのなら、それは自業自得というものだ。) 「Jazz isn’t dead. It just smells funny.」 (ジャズは死んじゃいない。ただおかしな匂いがするだけだ。) 「Some scientists claim that hydrogen, because it is so plentiful, is the basic building block of the universe. I dispute that. I say there is more stupidity than hydrogen, and that is the basic building block of the universe.」 (水素が宇宙の基本構成要素だと主張する科学者がいる。なにせ、水素は有り余るほどあるからね。でも俺はその意見に反対だ。俺

ボブ・マーリーさんの残した言葉【魂の反逆者】1945年2月6日~1981年5月11日

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「Say you just can’t live that negative way. You know what I mean. Make way for the positive day. Cause it’s a new day.」 (後ろ向きなやり方では、とても生きては行けないよ。分かるかい。前向きに進むんだ。毎日が新しい日なんだから。) 「One good thing about music, when it hits you, you feel no pain.」 (音に打ちのめされて傷付くものはいない。それが音楽のいいところさ。) 「Before you point your fingers, make sure your hands are clean.」 (指をさして人を非難する前に、君のその手がよごれていないか確かめてくれ。) 「Love the life you live. Live the life you love.」 (自分の生きる人生を愛せ。自分の愛する人生を生きろ。) 「Some people feel the rain. Others just get wet.」 (雨を感じられる人間もいるし、ただ濡れるだけの奴らもいる。) 「Every man gotta right to decide his own destiny.」 (誰もが自分の運命を決定する権利を持っている。) 「Your life is worth much more than gold.」 (君の命には、黄金なんて比べ物にならないほどの価値がある。) 「Judge not, before you judge yourself. Judge not, if you’re not ready for judgment.」 (批判するな。自分自身を批判する前に。批判するな。批判する覚悟がないのなら。) 「Don’t worry about a thing. Cause every little thing gonna be all right.」 (心配しなくていいんだよ。どんな些細なことでもすべてうまくいくからさ。) 「In this bright future you can’t forget your past, so dry your tears

大滝詠一さんの残した最後の言葉【ミュージシャン】1948年7月28日~2013年12月30日

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「ママ、ありがとう!」 (最後の言葉) 日本のミュージシャン。 シンガーソングライター、作曲家、アレンジャー、音楽プロデューサー、レコードレーベルのオーナー、ラジオDJ、レコーディング・エンジニア、マスタリング・エンジニア、著述家、元Oo Records取締役など、多くの顔を持つ。 独自の音楽理論を持ち、1990年代に隆盛を誇った渋谷系のように他ミュージシャンからの引用が多いのが特徴。1950年代から1970年代にかけてのアメリカのポップス・ロック、イギリスのリバプールサウンド、日本の歌謡曲・演芸についての豊富な知識をもち、それらを駆使して制作される音楽トラックは、普通に聞こえても分析すると実は非常にマニアックであり、また、自作詞に関しては独特のおふざけが入っている。『ゴー・ゴー・ナイアガラ』時代にリスナーから「あなたには悩みというものがないのですか?」という投稿が送られてきたという。なお、作品はおおまかに分けると、メロディタイプと言われる歌もの、ノベルティタイプと言われるサウンド偏重ものの2種類に分かれる。 楽曲制作の念密さを語る一例として、ある人が大瀧に「あの曲は3つの曲からの剽窃ですね」と指摘し訊ねるたところ「その3つとあと2曲の5曲から出来てるけど、君は3曲しかわからなかったんだ」と大滝が言い返したという逸話(山下達郎がしばしばラジオでする話)や伊藤銀次がレコーディングに参加した際、有名曲のフレーズを音符を逆にして弾くのを強要されて唖然としたという。

大滝詠一さんの残した言葉【ミュージシャン】1948年7月28日~2013年12月30日

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「人生は暇つぶし。」 「今日生きているのだって途中だし、なんだって途中なんだから。一生未完で終わるわけですよ。」 「忙しいと思ったことは一度もないよ。だって、人に言われてやってることじゃないんだもの。」 「エヴェレストは高い エルヴィスは深い。」 「働いてはいないが遊んではいない。引いてはいるが、こもってはいない。」 「期待は失望の母である。」 日本のミュージシャン。 シンガーソングライター、作曲家、アレンジャー、音楽プロデューサー、レコードレーベルのオーナー、ラジオDJ、レコーディング・エンジニア、マスタリング・エンジニア、著述家、元Oo Records取締役など、多くの顔を持つ。 独自の音楽理論を持ち、1990年代に隆盛を誇った渋谷系のように他ミュージシャンからの引用が多いのが特徴。1950年代から1970年代にかけてのアメリカのポップス・ロック、イギリスのリバプールサウンド、日本の歌謡曲・演芸についての豊富な知識をもち、それらを駆使して制作される音楽トラックは、普通に聞こえても分析すると実は非常にマニアックであり、また、自作詞に関しては独特のおふざけが入っている。『ゴー・ゴー・ナイアガラ』時代にリスナーから「あなたには悩みというものがないのですか?」という投稿が送られてきたという。なお、作品はおおまかに分けると、メロディタイプと言われる歌もの、ノベルティタイプと言われるサウンド偏重ものの2種類に分かれる。 楽曲制作の念密さを語る一例として、ある人が大瀧に「あの曲は3つの曲からの剽窃ですね」と指摘し訊ねるたところ「その3つとあと2曲の5曲から出来てるけど、君は3曲しかわからなかったんだ」と大滝が言い返したという逸話(山下達郎がしばしばラジオでする話)や伊藤銀次がレコーディングに参加した際、有名曲のフレーズを音符を逆にして弾くのを強要されて唖然としたという。

レミー・キルミスターさんの残した言葉【モーターヘッド】1945年12月24日~2015年12月28日

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「安全な策を取る人間は新しいものを理解したがらない。自分の世界観がひっくり返るのが怖いんだ。」 「何十年も続けていた習慣を止めれば、誰でも文句を言うものさ(笑)」 「俺達には何のプランもない。俺達がやることには何の理由もないんだ。俺たちは“理由や理屈のあるバンド”じゃないんだ。ただ出掛けていってやるだけだ。」 「嫌なヤツらってのは国際的に存在する。」 「俺は客席にいる女の子達を見るのが大好きだよ。」 「可能な限り速いソロを弾くだけの奴らのことは、俺は認めないよ。あいつらは、ただスケールの練習だけを繰り返し、そして物凄く速く弾くだけだ。」 「普段のライヴも若いファンは沢山来るよ。俺達の姿を見ずに音だけ聴いてたら、若い奴らがやってると思えるような音だろ?」 「俺は良い人生を送ってきたし、だからこそ今でもこの仕事をやっている。俺は多分ツアー中に死ぬことになるだろう。何らかのやり方で。」 「俺は1つの所に立ち止まってはいられないタチなんだ。昔の音楽も楽しむけど、新しい音楽も目一杯楽しみたい。ずっと同じことはやってられない。」 「俺達には何のプランもない。俺達がやることには何の理由もないんだ。俺達は“理由と理屈のあるバンド”じゃないんだ。ただ出掛けて行ってやるだけだ。」 「音楽は副業だと言っておく。音楽をやり始めたのも、そもそもは女の尻を追いかけるためだった。本当だ!(笑)」 「どうせ死ぬなら好きなことをして死んだ方がいいじゃないか!アッハッハ!」 「良い子供というのは、親に従わない子供のことだ。年上だというだけで親がすべて正しいなんて、馬鹿な考え方だよ。」 「20世紀はもっと楽しかったと感じてる。今の時代、くだらないルールだらけで最悪だ。」 「俺は俺らしい人生を生きている。これまでずっとそうしてきた。自分がやりたくもないことをやりだしたら死ぬほど惨めになるだろうよ!好きなことをやってから死ぬ方がマシさ。」 「ある年は早く月日が流れるし、ゆっくりな年もある。君の人生と同じだ。2週間のように感じる日もあれば、たった30分のように感じる日もある。誰の人生も同じ。MOTORHEADの25年もな。」 「俺には、他のことをやる能力も技術も全くないんだ。だから、何か別のことをやっていたとしても、不正なことじゃないかな。ドラッグかセックスに関係があることかも

ジェームス・ブラウンさんの残した言葉【ファンクの帝王】1933年5月3日~2006年12月25日

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「リスクを決して恐れない。常に挑戦を繰り返す。」 アメリカ合衆国のソウルミュージック、R&B、ファンク・シンガー、音楽プロデューサー、作曲家、編曲家、レコード・レーベル経営者。 「ナンバーワン・ソウル・ブラザー」「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」「ミスター・ダイナマイト」「ファンキー・プレジデント」など、いくつものニック・ネイムを持っていた。シャウトを用いたソウルフルなヴォーカルと、革新的なファンク・サウンドがブラウンの音楽性の特徴である。 父はアパッチ族インディアンで、母はアフリカ系黒人アメリカ人とアジア人の系統である。 「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第10位。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第7位。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第37位。

ジョージ・マイケルさんの残した言葉【ワム!】1963年6月25日~2016年12月25日

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「I have never thought about my sexuality being right or wrong. To me it has always been a case of finding the right person.」 (僕は、自分の性的指向が正しいか間違っているかなんて考えたことがない。僕はずっと、運命の相手を見つけようとしてきただけ。) 「If we weren’t friends in the first place we wouldn’t have stayed together this long.」 (もし僕らが友達じゃなかったとしたら、そもそもこんなに長い間一緒にやらなかったさ。) イギリス出身のシンガーソングライター。本名:イェオルイオス・キリアコス・パナイオトゥ。 ポップデュオ「ワム!」 ポップデュオ「ワム!」での活動で「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」「ケアレス・ウィスパー」「ラスト・クリスマス」などの世界的ヒット曲を作詞作曲し、ソロシンガーとしてもアルバム『FAITH』が1988年度グラミー賞を受賞するなど成功をおさめた。トータルセールスは1億枚以上。 「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第74位。

ウォーレル・デインさんの残した言葉【サンクチュアリ・ネヴァーモア】1961年3月7日~2017年12月13日

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「ステージにいるのは世界一最高の気分なんだ。出番をじっと待つのは辛いけどね。」 「あの頃は(自分達が)シアトルのバンドであることに奇妙な思いを抱いていた。グランジの人気であれだけ爆発的だったから、それに倣えというプレッシャーが物凄かった。」 「俺だって過去のあるバンドのコンサートを観に行けば昔の曲を聴きたい。それをバンドがやらなかったら腹が立つだろうな。だから俺達もやっているんだ。」 「俺が書く曲は夢の中で思いつくものが多い。俺は夢日記をつけていてね、夢で見たことを常に書き留めている。」 「自分達の音楽だけで食べていけるようになるには、物凄い枚数のレコードを売らなくてはならない。」 「俺は敢えてヘビーメタルは余り聴かないようにしているんだ。聴くと自分の好きなバンドに影響されてしまうからね。(笑)」 「初来日のとき、道端にビールの販売機があるなんて信じられなかったよ。あんなものがアメリカにあったら、設置された瞬間に子供がぶっ壊して盗っていくよ。」 「俺も嫌なことを随分経験したし、苦悩の時期も体験した。嫌なことを経験すると、良い事に対する感謝の気持がずっと大きくなる。」 「心から好きなのはやっぱりヘビーメタルだけど、ミュージシャンだったら色々なタイプの音楽を認めてそれを聴くべきだと思うね。」 「80年代はとても特別な時代だった。凄く良いバンドが成長していたかと思えば、至って普通のバンドもいた。良いバンドはトップに躍り出て、それほど良くないバンドは消えて行ったんだ。」 「俺達はずっと今と同じ音楽をプレイしてきた。正直にやりたい音楽をやっていれば、聴衆にはそれが伝わるはずだ。」 「俺が解釈する言葉の意味と、他の人が解釈する言葉の意味は違っているからね。でも、それこそが芸術や詩や音楽の魅力だと思う。」 「メタルシーンでは誰もが、程度こそ違えど顔見知りみたいなものだからね」 アメリカ合衆国出身のボーカリスト、ミュージシャン。 同国のヘヴィメタル・バンド「サンクチュアリ」及び「ネヴァーモア」のボーカリストとして知られ、ソロも並行して活動している。 かつて5年ほどオペラ歌手としてトレーニングを受けていたこともあり、その声域は彼を教えていた講師によると5~6オクターブあるとの事。通常は独特のバリトンで歌う事が多い。 所属バンドでのソングライティングも

サム・クックさんの残した最後の言葉【ソウルシンガー】1931年1月22日~1964年12月11日

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「Lady You Shot Me!」 (あんた、俺を撃ったな!) (最後の言葉) アメリカのソウル歌手、ゴスペル歌手、ミュージシャン。 ミシシッピ州クラークスデイル生まれ。後に家族とともにシカゴに移住。父親は牧師であり、幼い頃から聖歌隊で歌う。19歳のときにゴスペル・グループのソウル・スターラーズのリードボーカルとなり、端正なルックスでゴスペル界ではアイドル的人気を博した。1957年にソロ歌手としてR&Bに転向し、「ユー・センド・ミー」がヒット。これをきっかけにR&B界で数々のヒットを飛ばし、発展目覚ましかったソウル/R&B界のスターとなる。それまでの黒人歌手のスタイルとは一線を画した洗練された音楽性で、声の良さと歌唱力もさることながら、「クック調」と呼ばれる鼻にかかった歌い方は白人にも高く評価され、後世に大きな影響を与えた。 1958年には、マネージャーのJ.W.アレクサンダーと共に音楽出版社を設立。後にはSARレコードを設立する。R&Bが流行した当時、黒人のアーティストは曲を作っても満足な対価を得られず、白人の会社に「搾取」されるのが通例だった中にあって、自らの著作権を管理するのは画期的なことであった。 1959年にキーン・レコードを離れる。1960年にRCAビクターと契約するも、キーン・レコード時代に録音し未発表だった「ワンダフル・ワールド」が同レーペルから発売されヒット。 クックの曲は、『ビルボード』のR&Bチャートだけでなくポップ・チャートでも上位に入った。1960年代には「チェイン・ギャング」(2位)、「ツイストで踊りあかそう」(9位)、「こんどの土曜に恋人を」(10位)、「シェイク」(7位)を全米トップ10に送り込んでいる。 黒人の権利に対する意識が高く、公民権運動にも積極的な関わりを持ち、マルコムXやモハメド・アリとも親交を深める。1964年の「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」は、ボブ・ディランの「風に吹かれて」に影響を受けて生まれた、人種平等社会が訪れることへの期待を込めたメッセージソングであった。 1964年12月11日、クックはロサンゼルスのハリウッドにある酒場で知り合った女性を「別の店へ行こう」と誘い出し、そのままイタリア製の高級スポーツカーでサウスセントラル地区にあるモーテ

サム・クックさんの残した言葉【ソウルシンガー】1931年1月22日~1964年12月11日

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「素晴らしくいい感じだ 素晴らしくいい感じだ 何も難しいことはない ただ感じるんだ 慌てないで 慌てないで 皆はパーティーを続けてくれ 僕は行かなきゃならない 家に帰ってもパーティーを続けてくれ どこに居てもパーティーを続けることを忘れないで 愛する人と一緒にいる時もパーティーを続けるんだ、分かったかい? ラジオを聴けば一人でも気分がいいし 車に乗ってるときもラジオつけてパーティーを続けよう ああ もう 行かなきゃ・・・・・・」 (遺言的なメッセージ) アメリカのソウル歌手、ゴスペル歌手、ミュージシャン。 ミシシッピ州クラークスデイル生まれ。後に家族とともにシカゴに移住。父親は牧師であり、幼い頃から聖歌隊で歌う。19歳のときにゴスペル・グループのソウル・スターラーズのリードボーカルとなり、端正なルックスでゴスペル界ではアイドル的人気を博した。1957年にソロ歌手としてR&Bに転向し、「ユー・センド・ミー」がヒット。これをきっかけにR&B界で数々のヒットを飛ばし、発展目覚ましかったソウル/R&B界のスターとなる。それまでの黒人歌手のスタイルとは一線を画した洗練された音楽性で、声の良さと歌唱力もさることながら、「クック調」と呼ばれる鼻にかかった歌い方は白人にも高く評価され、後世に大きな影響を与えた。 1958年には、マネージャーのJ.W.アレクサンダーと共に音楽出版社を設立。後にはSARレコードを設立する。R&Bが流行した当時、黒人のアーティストは曲を作っても満足な対価を得られず、白人の会社に「搾取」されるのが通例だった中にあって、自らの著作権を管理するのは画期的なことであった。 1959年にキーン・レコードを離れる。1960年にRCAビクターと契約するも、キーン・レコード時代に録音し未発表だった「ワンダフル・ワールド」が同レーペルから発売されヒット。 クックの曲は、『ビルボード』のR&Bチャートだけでなくポップ・チャートでも上位に入った。1960年代には「チェイン・ギャング」(2位)、「ツイストで踊りあかそう」(9位)、「こんどの土曜に恋人を」(10位)、「シェイク」(7位)を全米トップ10に送り込んでいる。 黒人の権利に対する意識が高く、公民権運動にも積極的な関わりを持ち、マルコムXやモハメド

オーティス・レディングさんの残した最後の言葉【ソウルの神様】1941年9月9日~1967年12月10日

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「この曲(ドック・オブ・ザ・ベイ)は俺にとって初めてのミリオンセラーになるよ」 (最後の言葉) アメリカのミュージシャン。独特の歌唱法でソウルに多大な影響を与えた。 「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第8位。 「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第21位。 1960年代初頭にジョニー・ジェンキンズのパイントッパーズで音楽活動を始め、ソロ・シンガーとして契約後1962年に「These Arms of Mine」を発表(R&Bのチャートで最高位20位、Billboard Hot 100で85位と人気を博す)、この歌をきっかけに1964年スタックス傘下のヴォルトからアルバム『Pain in My Heart』を発表、アメリカ国内でアトランティック・レコードのもとで全国流通を果たす。同年、ブッカー・T&ザ・MG'sのスティーヴ・クロッパーと共同制作した「ミスター・ピティフル」は、R&Bシングル・チャートで最高位10位、Billboard Hot 100で41位となるヒットとなった。生前のシングルレコードで最も評判を呼んだのは、ジェリー・バトラーとの「I've Been Loving You Too Long」で、R&Bのシングル・チャートで2位を記録して彼のキャリアの中で最も高い評価を得る作品となり、続く「リスペクト」(後にアレサ・フランクリンによるカヴァーが大ヒットする)はR&Bチャートで4位を記録した。その後、「アイ・キャント・ターン・ユー・ルース」、「サティスファクション」(ローリング・ストーンズのカバー)といった曲がヒットして、古いラブ・ソングをリサイクルした「Try a Little Tenderness」は、1966年の代表曲となった。そして、1967年のモントレー・ポップ・フェスティバルに出演して評価を得た。このフェスティヴァル出演後、喉の異変を訴え、ポリープが見つかり医者から2ヶ月間歌う事を禁じられ、後の曲調の変化に大きな影響を与えた。 モントレー・ポップ・フェスティバル 白人のロック・ミュージシャンが多数出演するモントレー・ポップ・フェスティバルにオーティスが出ることについて、当初は難色を示す者が多かった。オーティ