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夏目漱石さんの残した最後の言葉【日本の文豪】1867年2月9日~1916年12月9日

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「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」 (最後の言葉) (寝間着の胸をはだけながら) 「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」 (最後の言葉) (四女・愛子が泣き出し、それを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめるように) 日本の小説家、評論家、英文学者。本名は夏目 金之助。俳号は愚陀仏。代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こゝろ』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなり、講演録「私の個人主義」も知られている。漱石の私邸に門下生が集った会は木曜会と呼ばれた。 江戸の牛込馬場下横町出身。

夏目漱石さんの残した言葉【日本の文豪】1867年2月9日~1916年12月9日

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「月が綺麗ですね。」 「ああ、苦しい、今、死にたくない。」 「自分のしている事が、自分の目的(エンド)になっていない程、苦しい事はない。」 「時代の風潮、自分を取り巻く環境、さまざまな価値観、それらを正しく見きわめ、自分の判断で行動できるのは、どこにも属さない『迷子』だけだ。」 「表面を作る者を世人は偽善者という。偽善者でも何でもよい。表面を作るという事は、内部を改良する一種の方法である。」 「世の中に片付くなんてものは、殆どありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから、他にも自分にも解らなくなるだけの事さ。」 「金を作るにも三角術を使わなくちゃいけないというのさ。義理をかく、人情をかく、恥をかく、これで三角になるそうだ。」 「他の親切は、その当時にこそ余計なお世話に見えるが、後になると、もういっぺんうるさく干渉してもらいたい時期が来るものである。」 「人間はね、自分が困らない程度内で、なるべく人に親切がしてみたいものだ。」 「人間は角があると世の中を転がって行くのが骨が折れて損だよ。」 「教えを受ける人だけが自分を開放する義務を有っていると思うのは、間違っています。教える人も己れを貴方の前に打ち明けるのです。」 「あらゆる芸術の士は、人の世をのどかにし、人の心を豊かにするがゆえに尊い。」 「道徳に加勢する者は、一時の勝利者には違いないが、永久の敗北者だ。自然に従う者は、一時の敗北者だが、永久の勝利者だ。」 「自分の好きなものは、必ずえらい人物になって、きらいなひとは、きっと落ちぶれるものと信じている。」 「自己を捨てて神に走るものは神の奴隷である。」 「私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼等何者ぞやと気概が出ました。」 「四角の世界から常識と名のつく一角を摩滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでも良かろう。」 「運命は神の考えることだ。人間は人間らしく働けばそれで結構だ。」 「鏡は自惚れの醸造器である如く、同時に自慢の消毒器である。」 「細君の愛を他へ移さないようにするのは、夫の義務である。」 「全ての夫婦は新しくなければならぬ。新しい夫婦は美しくなければならぬ。新しく美しき夫

開高健さんの残した言葉【行動する小説家】1930年12月30日~1989年12月9日

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「何かを得れば、何かを失う、そして何ものをも失わずに次のものを手に入れることはできない」 日本の小説家。 1960年、中国訪問日本文学代表団(野間宏団長)の一員として大江健三郎らとともに中国を訪れ、毛沢東、周恩来らと会見。随筆『地球はグラスのふちを回る』では当時の大江とのエピソードが記されている。 1964年、朝日新聞社臨時特派員として戦時下のベトナムへ。サイゴンのマジェスティック・ホテルを拠点にベトナム共和国軍(南ベトナム軍)に従軍して最前線に出た際、反政府ゲリラの機銃掃射に遭うも生還。総勢200名のうち生き残ったのは17名であった。『輝ける闇』『夏の闇』『花終わる闇(未完)』の3部作はこの戦争での凄烈な体験をもとに書かれている。 帰国後は小田実らのベ平連に加入して反戦運動をおこなったが、ベ平連内の反米左派勢力に強く反発し脱退、過激化する左派とは距離を置くようになる。その後は保守系の立場をとり、後に谷沢永一や向井敏などの右派系文化人を世に出した。 熱心な釣師としても知られ、日本はもちろんブラジルのアマゾン川など世界中に釣行し、様々な魚を釣り上げ、『オーパ!』、『フィッシュ・オン』など釣りをテーマにした作品も多い。現在では浸透している「キャッチ・アンド・リリース」という思想を広めたのも開高だと言われている。また食通でもあり、食と酒に関するエッセイも多数ある。

野坂昭如さんの残した最後の言葉【火垂るの墓】1930年10月10日~2015年12月9日

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「戦後の日本は平和国家だというがたった一日で平和国家に生まれ変わったのだから、同じくたった一日でのその平和とやらを守るという名目で軍事国家つまり戦争をすることにだってなりかねない。」 (最後の言葉) 日本の作家、歌手、作詞家、タレント、政治家。 放送作家としての別名は阿木 由起夫、シャンソン歌手としての別名はクロード 野坂、落語家としての高座名は立川 天皇、漫才師としての野末陳平とのコンビ名はワセダ中退・落第。 文壇界きっての犬猫好き、酒好きである。酒に関しては、高校時代に酔っ払って真っ裸で深夜の街を歩いたり、また大学時代に酔っ払って教室の窓から入ったり、などの武勇伝を残している。その後、1952年に自主的に精神病院に入院して治療をしてからは、酒乱の癖はおさまったという。また、「趣味の雑誌『酒』昭和47年新年特別号」の付録「文壇酒徒番附」において、東方横綱に立原正秋と共に列せられている。ちなみに、東方大関三浦哲郎、池波正太郎、西方横綱梶山季之、黒岩重吾、大関吉行淳之介、瀬戸内晴美などがいる。

野坂昭如さんの残した言葉【火垂るの墓】1930年10月10日~2015年12月9日

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「小説はぼくの体験を下敷きにしてはいるが、自己弁護が強く、うしろめたさが残る。自分では読み返すことが出来ない。それでも戦争の悲惨さを少しでも伝えられればと思い、ぼくは書き続けてきた。」 「戦争は人間を無茶苦茶にしてしまう。人間を残酷にする。人間が狂う。だが人間は戦争をする。出刃包丁で殺そうが、核兵器で殺そうが同じことである。戦場で殺し合いをする兵士が、家では良き父であり、夫である。これがあたり前なのだ。」 「戦争は人間を人間でなくす。では獣になるのか。これは獣に失礼。獣は意味のない無駄な殺し合いをしない。人間だけが戦争をするのだ。」 「戦後に生まれ、今を生きる者にも責任はある。繁栄の世を築いたのは戦後がむしゃらに働いた先人たちである。その恩恵を享受した自分たちは後世に何をのこすのか。」 「どんな戦争も自衛のため、といって始まる。そして苦しむのは、世間一般の人々なのだ。騙されるな。このままでは70年間の犠牲者たちへ、顔向け出来ない。」 「空理の際、家族を見捨てたことである。……一度も後をふりかえらず、山の横穴式防空壕へ入っても、ただ自分の身の安全をはかり考え、両親の安否にいささかも思いはせなかったことを思うと、僕はうしろめたい気がする。」 「タイムマシンがあったら、今あるお菓子をみんなかかえて、恵子に食べさせてやりたい。六月五日の朝から八月二十二日の午後死ぬまで、ついにお腹をすかせっばなしで死んでしまった女の子なんて、あまりにかわいそう過ぎる。ぼくは恵子のことを考えると、どうにもならなくなってしまうのだ。」 「戦争をやったのは大人の責任であり、今度戦争をしたらそれは私たちの責任だ。」 「逃げすぎたことのやましさが、 胸の底に澱の如くよどみ、おりにふれて湧き上がる。」 「言葉によって与えられるオルガスムスこそ、基本的人権。」 「言葉狩りの横行する世の中こそ、文化は退廃する。」 「戦争で、最もひどい目に遭うのは、子供たちだ。」 「よく、戦前派、戦中派、戦後派といわれるが、ぼくはどこにもあてはまらない。焼け跡から始まっているのだ。」 「ある日、それまでの生活が断絶された。家族も家も学校も、ぼくの場合、昭和二十年六月五日を境に消えた。混乱しているゆとりもない。今日生きていくのが精一杯。闇市をうろついた。一面の焼け野原から、ぼくらのすべては始まる。」

川北博さんの残した言葉【公認会計士】1925年8月1日~2018年12月9日

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「振り返ってみれば、私は若い時分から脇目も振らずに突っ走ってきました。現在も女房からは『好きな絵を描くとか一緒に老後を楽しむはずだったのにね』と言われています。」 「強く記憶に残っているのは、16歳で仙台陸軍幼年学校を卒業するときに、同校訓育部長で後に硫黄島で戦死された千田貞季少将から受けたこの言葉です。『お前たちはいずれ下級指揮官になって剣電弾雨の中で戦う。そのときに任務を忘れるな。進んで難に当たれ』ということでした。」 「77歳のいままで走り続けてきたのですが、まったく後悔していません。本格的に自分自身の時間を持つのは80歳になってからにしようと思っています。『斃れて後已む』ということになるかもしれませんが、それはそれでいいのではないかと思っています。」 「陸軍士官学校卒業の私にとっては『人生意気に感ず』が染みついていたのです。個人的な損得抜きにして世の中のために頑張るということです。」 「士官学校時代に上陸用舟艇で演習していたときのことです。スパイラルスクリューに縄が絡むと、真冬なのに『俺がやる』と言って、真っ先に水の中へ飛び込んで縄を外す。それが若い私たちの男の美学だったのです。」 「企業も含め、どんな組織でも同じだと思いますが、集団では誰かが率先して嫌なことや難しいことをやらなければならないのです。誰も水の中に飛び込もうとしない集団は弱い集団です。」 日本の公認会計士、税理士、不動産鑑定士、司法書士、会計学者。階級は陸軍少尉。学位は博士。公認会計士川北・徳永事務所代表社員、宗和税理士法人代表社員、日本公認会計士協会相談役、静岡県立大学経営情報学部客員教授。 1949年公認会計士2次試験に合格。1955年「公認会計士・税理士川北事務所」を創設。1986年、監査法人トーマツの会長に就任し、1993年まで務める。1990年から1992年に掛けてはデロイトトウシュトーマツインターナショナルの代表者会議にて議長も務めていた。その後、「公認会計士・税理士川北徳永事務所」を設立、川北が代表に就任した。現在は「宗和税理士法人」をたちあげ、監査業務を「公認会計士川北・徳永事務所」で行っている。 日本公認会計士協会会長、大蔵省企業会計審議会委員、大蔵省公認会計士審査会委員、国際会計基準委員会(IASC)日本代表、国際会計士連盟(IFAC)日本代表、アジア太

故人が残した名言集【12月9日】

川北博さんの残した言葉【公認会計士】1925年8月1日~2018年12月9日 「振り返ってみれば、私は若い時分から脇目も振らずに突っ走ってきました。現在も女房からは『好きな絵を描くとか一緒に老後を楽しむはずだったのにね』と言われています。」 「強く記憶に残っているのは、16歳で仙台陸軍幼年学校を卒業するときに、同校訓育部長で後に硫黄島で戦死された千田貞季少将から受けたこの言葉です。『お前たちはいずれ下級指揮官になって剣電弾雨の中で戦う。そのときに任務を忘れるな。進んで難に当たれ』ということでした。」 「77歳のいままで走り続けてきたのですが、まったく後悔していません。本格的に自分自身の時間を持つのは80歳になってからにしようと思っています。『斃れて後已む』ということになるかもしれませんが、それはそれでいいのではないかと思っています。」 「陸軍士官学校卒業の私にとっては『人生意気に感ず』が染みついていたのです。個人的な損得抜きにして世の中のために頑張るということです。」 「士官学校時代に上陸用舟艇で演習していたときのことです。スパイラルスクリューに縄が絡むと、真冬なのに『俺がやる』と言って、真っ先に水の中へ飛び込んで縄を外す。それが若い私たちの男の美学だったのです。」 「企業も含め、どんな組織でも同じだと思いますが、集団では誰かが率先して嫌なことや難しいことをやらなければならないのです。誰も水の中に飛び込もうとしない集団は弱い集団です。」 日本の公認会計士、税理士、不動産鑑定士、司法書士、会計学者。階級は陸軍少尉。学位は博士。公認会計士川北・徳永事務所代表社員、宗和税理士法人代表社員、日本公認会計士協会相談役、静岡県立大学経営情報学部客員教授。 野坂昭如さんの残した言葉【火垂るの墓】1930年10月10日~2015年12月9日 「小説はぼくの体験を下敷きにしてはいるが、自己弁護が強く、うしろめたさが残る。自分では読み返すことが出来ない。それでも戦争の悲惨さを少しでも伝えられればと思い、ぼくは書き続けてきた。」 「戦争は人間を無茶苦茶にしてしまう。人間を残酷にする。人間が狂う。だが人間は戦争をする。出刃包丁で殺そうが、核兵器で殺そうが同じことである。戦場で殺し合いをする兵士が、家では良き父であり、夫である。これがあたり前なのだ。」 「戦争は人間