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徳川慶喜さんの残した辞世の句【江戸幕府最後の将軍】1837年10月28日~1913年11月22日

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「この世をば しばしの夢と 聞きたれど おもへば長き 月日なりけり」 (辞世の句) 江戸幕府第15代征夷大将軍。江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍。在任中に江戸入城しなかった唯一の将軍であり、最も長生きした将軍。 御三卿一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務める。徳川宗家を相続した約4ヶ月後に第15代将軍に就任。 明治2年9月、戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除され、引き続き、駿府改め静岡に居住した。生存中に将軍職を退いたのは11代・家斉以来であるが、過去に大御所として政治権力を握った元将軍たちとは違い、政治的野心は全く持たず、潤沢な隠居手当を元手に写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送り、「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた。一方で、旧幕臣が訪問しても渋沢栄一など一部人以外はほとんど会わなかった。共に静岡に移り住んだ旧家臣たちの困窮にも無関心で「貴人情を知らず」と怨嗟の声も少なくなかった。

徳川慶喜さんの残した言葉【江戸幕府最後の将軍】1837年10月28日~1913年11月22日

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「これからはお前の道を行きなさい」 「予を殺す者は薩長の徒ではなく、幕臣どもの日なた臭い幕臣意識だ」 「千兵が最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ」 「将軍はよほどの奮発にて、決して油断ならず」 「どうせ助からぬ者を救おうといえば、自分自身が危うくなる」 「昼も居間の雨戸を閉めて、そこへ2寸ほどの竹をところどころにはさんで光を入れた」 「勅許も得ないで外国と条約を結ぶとは何事か。」 「あまかけり いづくの空に いますとも 心はゆきて つかへまつらん」 「将軍になどなりたくない」 「余は有栖川の宮の孫なり」 江戸幕府第15代征夷大将軍。江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍。在任中に江戸入城しなかった唯一の将軍であり、最も長生きした将軍。 御三卿一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務める。徳川宗家を相続した約4ヶ月後に第15代将軍に就任。 明治2年9月、戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除され、引き続き、駿府改め静岡に居住した。生存中に将軍職を退いたのは11代・家斉以来であるが、過去に大御所として政治権力を握った元将軍たちとは違い、政治的野心は全く持たず、潤沢な隠居手当を元手に写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送り、「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた。一方で、旧幕臣が訪問しても渋沢栄一など一部人以外はほとんど会わなかった。共に静岡に移り住んだ旧家臣たちの困窮にも無関心で「貴人情を知らず」と怨嗟の声も少なくなかった。

徳川家茂さんの残した言葉【江戸幕府第14代征夷大将軍】1846年7月17日~1866年8月29日

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「馬に罪はない」 敵である長州藩の毛利家から馬が献上されたときに、家臣は「この馬をどのように処分しますか?」と尋ねると、家茂は、処分はしないと言ったそうです。 長州が敵であったとしても、馬そのものは、敵ではなくため、敵ではない馬を処分する理由はないということだったのです。 江戸幕府第14代征夷大将軍。初めは第12代将軍・徳川家慶の偏諱を賜って慶福と名乗っていた。実父・徳川斉順は家慶の異母弟で、家茂は第13代将軍・家定の従弟にあたる。将軍就任の前は徳川御三家紀州藩第13代藩主。