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浜口庫之助さんの残した言葉【戦後最大のヒットメーカー】1917年2月27日~1990年12月2日

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「流行歌は作るものではなく生まれてくるもの」 日本のシンガーソングライター。愛称はハマクラ。 兵庫県神戸市出身。東京府立第四中学校卒業。青山学院大学商学部卒業。パーカッショニストの浜口茂外也は息子。元女優の渚まゆみは妻。 1959年、「黄色いさくらんぼ」、「僕は泣いちっち」がヒットし、作詞家・作曲家として頭角を現すようになる。翌1960年に作詞した「有難や節」のヒット以降は社会情勢や大衆心理をとらえた作品作りを意識することで数々のヒット曲を生み出すようになった。また「有難や節」を題材にした日活映画『有難や節 あゝ有難や有難や』にも出演している。 1960年代には数々のヒット曲を出し、ヒットメーカーと呼ばれるようになる。 1965年、「愛して愛して愛しちゃったのよ」を歌った和田弘とマヒナスターズ、ビリーバンバン、西郷輝彦、にしきのあきらなど自らの弟子をスターに育て上げるなど人材育成にも才能を発揮。 1966年、「星のフラメンコ」「バラが咲いた」で日本レコード大賞・作曲賞を受賞。以降、1972年石原裕次郎の「恋の町札幌」に至るまでヒット曲を世に送り続けた。鮮明に訴えかけるような個性の強い詞・曲作りを得意とし、今もなお一節が多くの人の記憶に残るようなヒット作が多い。 晩年の1987年には、島倉千代子に楽曲提供した「人生いろいろ」が大ヒットした。

平山郁夫さんの残した言葉【画家】1930年6月15日~2009年12月2日

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「何事も好調な時にニコニコしているのは当たり前。うまくいっていない時こそ、笑顔で乗り切れるかどうかにその人の真価が問われる。」 「いまのスポーツ選手は体格がいいのに昔ほど強くないのは、野放しにせずはじめから手とり足とり理屈で形を覚えさせるからでしょう。理屈には限界があって、その能力でしか力が出せないんです。絵でもそうです。知識で描くと個性的な主張がなくなります。」 「才能とは持続することである。」 日本画家、教育者。日本美術院理事長、一ツ橋綜合財団理事、第6代・第8代東京藝術大学学長を務めた。文化勲章受章者。称号は広島県名誉県民、広島市名誉市民、鎌倉市名誉市民。 子に古代生物学者の平山廉。妻は平山美知子。実弟は平山助成元海上自衛官 海将補、現平山郁夫美術館館長。 日本とアジア諸国との友好活動や東北アジア・中央アジアでの文化財保護活動はアジア諸国、特に中国政府から評価が高く、日中友好協会会長も務め、「文化交流貢献賞」が贈られている。またマニラ市のラモン・マグサイサイ賞財団よりマグサイサイ賞を贈られている。 一方、「文化大革命や都市開発により中国人自身の手によって破壊された中国の歴史的建造物を『戦時中に日本軍が破壊した』として日本人から寄付金を募って中国の文化財の復元事業に当てた」として批判も受けている。「梁思成は日本の古都の大恩人」という根拠薄弱な説に基づいて寄付金を募り、梁思成の銅像建立事業を主導した事も批判の対象となっている。また国立大学である東京藝術大学の学長という公職にありながら、出版社、百貨店、放送局などとタイアップした自作の展示即売会で多額の利益を上げている点などを批判されることもある。 東京藝術大学学長を辞任した1995年には岩橋英遠の「赤とんぼ」という作品からの盗作疑惑が持ち上がっている。

故人が残した名言集【12月2日】

平山郁夫さんの残した言葉【画家】1930年6月15日~2009年12月2日 「何事も好調な時にニコニコしているのは当たり前。うまくいっていない時こそ、笑顔で乗り切れるかどうかにその人の真価が問われる。」 「いまのスポーツ選手は体格がいいのに昔ほど強くないのは、野放しにせずはじめから手とり足とり理屈で形を覚えさせるからでしょう。理屈には限界があって、その能力でしか力が出せないんです。絵でもそうです。知識で描くと個性的な主張がなくなります。」 「才能とは持続することである。」 日本画家、教育者。日本美術院理事長、一ツ橋綜合財団理事、第6代・第8代東京藝術大学学長を務めた。文化勲章受章者。称号は広島県名誉県民、広島市名誉市民、鎌倉市名誉市民。 子に古代生物学者の平山廉。妻は平山美知子。実弟は平山助成元海上自衛官 海将補、現平山郁夫美術館館長。 浜口庫之助さんの残した言葉【戦後最大のヒットメーカー】1917年2月27日~1990年12月2日  「流行歌は作るものではなく生まれてくるもの」 日本のシンガーソングライター。愛称はハマクラ。 兵庫県神戸市出身。東京府立第四中学校卒業。青山学院大学商学部卒業。 パーカッショニストの浜口茂外也は息子。元女優の渚まゆみは妻。 1959年、「黄色いさくらんぼ」、「僕は泣いちっち」がヒットし、作詞家・作曲家として頭角を現すようになる。翌1960年に作詞した「有難や節」のヒット以降は社会情勢や大衆心理をとらえた作品作りを意識することで数々のヒット曲を生み出すようになった。 また「有難や節」を題材にした日活映画『有難や節 あゝ有難や有難や』にも出演している。 1960年代には数々のヒット曲を出し、ヒットメーカーと呼ばれるようになる。 1965年、「愛して愛して愛しちゃったのよ」を歌った和田弘とマヒナスターズ、ビリーバンバン、西郷輝彦、にしきのあきらなど自らの弟子をスターに育て上げるなど人材育成にも才能を発揮。 1966年、「星のフラメンコ」「バラが咲いた」で日本レコード大賞・作曲賞を受賞。 以降、1972年石原裕次郎の「恋の町札幌」に至るまでヒット曲を世に送り続けた。鮮明に訴えかけるような個性の強い詞・曲作りを得意とし、今もなお一節が多くの人の記憶に残るようなヒット作が多い。 晩年の1987年には、島倉...