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永峰肇さんの残した辞世の句【神風特別攻撃隊】1925年4月1日~1944年10月25日

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「南溟に たとえこの身が 果つるとも いくとせ後の 春を想へば」 (たとえ南方の大海にこの身が果てたとしても 何年もの後の春を想えば) (辞世の句) 大日本帝国海軍軍人。 貧しい農家の長男として学費をかけず勉強し、地元では優秀な子として知られていた。1944年(昭和19年)神風攻撃隊敷島隊四番機として出撃、散華。19歳の若さでなくなった。

細川ガラシャさんの残した辞世の句【明智光秀の娘】1563年~1600年8月25日

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「散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」 (花も人も散りどきを心得てこそ美しい。) (辞世の句) 戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。明智光秀の三女で細川忠興の正室。諱は「たま」または玉子。法名は秀林院。キリスト教徒。 子に、於長、忠隆、興秋、忠利、多羅などがいる。

一休宗純さんの残した辞世の句【一休さん】1394年2月1日~1481年12月12日

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「濛々淡々として六十年 末期の糞をさらして梵天に捧ぐ 借用申す昨日昨日 返済申す今日今日 借りおきし五つのもの(地水火風空)を 四つ(地水火風)返し 本来空に、いまぞもとづく」 (ぼんやりと、また、こだわらずに生きた60年だが、昨日借りたらものを、今日返すように人生はあっという間である。借りたものを返して、今、空へ帰る。) (辞世の句) 室町時代の臨済宗大徳寺派の僧、詩人。説話のモデルとしても知られる。

松尾芭蕉さんの残した辞世の句【奥の細道】1644年~1694年11月28日

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「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」 (辞世の句) 江戸時代前期の俳諧師。伊賀国阿拝郡出身。幼名は金作。通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門、のち宗房。俳号としては初め宗房を、次いで桃青、芭蕉と改めた。北村季吟門下。

大石内蔵助さんの残した辞世の句【忠臣蔵】1659年4月24日~1703年3月20日

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「あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」 (辞世の句) 「極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人」 (辞世の句) 江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩の筆頭家老。元禄15年、赤穂四十七士を率いて吉良邸に討ち入り、吉良義央ほか二十余名を斬殺した。大石らは自ら出頭し、公儀の裁きに処分を委ねた。翌16年、幕府の処断により四十六士は切腹となった。 良雄は諱で、通称は内蔵助。一般にはこの大石 内蔵助の名で広く知られる。

良寛さんの残した辞世の句【天上大風】1758年11月2日~1831年2月18日

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「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」 (辞世の句) 江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。号は大愚。本名は山本栄蔵。 良寛は「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈し、子ども達と遊ぶことを好み、隠れん坊や、手毬をついたりしてよく遊んだという(懐には常に手毬を入れていたと云う)。名書家として知られた良寛であったが、高名な人物からの書の依頼は断る傾向があったが、子ども達から凧に文字を書いて欲しいと頼まれた時には喜んで『天上大風』(てんじょうたいふう)の字を書いた(現在でもその凧は残っている)。

葛飾北斎さんの残した辞世の句【富嶽三十六景】1760年10月31日~1849年5月10日

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「ひと魂で ゆく気散しや 夏の原」 (人魂になって夏の野原にでも気晴らしに出かけようか) (辞世の句) 江戸時代後期の浮世絵師。化政文化を代表する一人。 代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表した。若い時から意欲的であり、版画のほか、肉筆浮世絵にも傑出していた。しかし、北斎の絵師としての地位は「富嶽三十六景」の発表により、不動のものとなっただけでなく、風景画にも新生面を開いた。

山岡鉄舟さんの残した辞世の句【一刀正伝無刀流の開祖】1836年6月10日~1888年7月19日

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「腹痛や 苦しき中に 明けがらす」 (手にうちわを握り、座禅を組んだまま大往生をとげた。) (辞世の句) 幕末から明治時代の幕臣、政治家、思想家。剣・禅・書の達人としても知られる。 鉄舟は居士号、他に一楽斎。通称は鉄太郎。諱は高歩。一刀正伝無刀流の開祖。「幕末の三舟」のひとり。栄典は従三位勲二等子爵。愛刀は粟田口国吉や無名一文字。

横溝正史さんの残した辞世の句【小説家】1902年5月24日~1981年12月28日

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「どん栗の落ちて虚しきアスファルト」 (辞世の句) 日本の小説家、推理作家。本名は同字で「よこみぞ まさし」である。当初は筆名も同じ読みであったが、誤読した作家仲間にヨコセイと渾名されているうちに、セイシをそのまま筆名とした。兵庫県神戸市東川崎生まれ。 金田一耕助を探偵役とする一連の探偵小説で知られる。また、薬剤師の免許を持っていた。 1968年、講談社の『週刊少年マガジン』誌上で、影丸穣也の作画により漫画化された『八つ墓村』が連載されたことを契機として、注目が集まる。同時に、江戸川乱歩、夢野久作らが異端の文学としてブームを呼んだこともあり、横溝初の全集が講談社より1970年から1976年にかけて刊行された。また、1971年から、『八つ墓村』をはじめとした作品が、角川文庫から刊行され、圧倒的な売れ行きを示し、角川文庫は次々と横溝作品を刊行することになる。少し遅れてオカルトブームもあり、横溝の人気復活もミステリーとホラーを融合させた際物的な側面があったが、映画産業への参入を狙っていた角川春樹はこのインパクトの強さを強調、自ら陣頭指揮をとって角川映画の柱とする。

坂本龍馬さんの残した辞世の句【土佐藩士】1836年1月3日~1867年12月10日

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「世の人は 我を何とも 言わば言え 我なす事は我のみぞ知る」 (辞世の句) 江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。 諱は直陰、のちに直柔。通称は龍馬。 他に才谷 梅太郎などの変名がある 。 土佐藩郷士の家に生まれ、脱藩したあとは志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中を結成した。薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与した。

本多忠勝さんの残した辞世の句【戦国一の武芸者】1548年3月17日~1610年12月3日

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「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず。主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍という(略)」 (辞世の句) 「死にともな(死にたくない) 嗚呼死にともな 死にともな 深き御恩の君を思えば」 (辞世の句) 戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。 生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられている。 忠勝の名采配ぶりを見た配下の将達は、「忠勝の指揮で戦うと、背中に盾を背負っているようなものだ」と称えた。 一言坂の戦いでの殿軍での戦いぶりを武田軍の小杉左近から「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」との狂歌の落書をもって賞賛された。(「唐の頭」は当時徳川家中で流行っていた兜などにつけるヤクの尾毛の飾り物を指す) 織田信長はその並はずれた武勇を武田征伐後、「花も実も兼ね備えた武将である」と侍臣に紹介した。 豊臣秀吉には「日本第一、古今独歩の勇士」と称され、また、「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と勇将として引き合いに出された。 関ヶ原の戦い終了後、福島正則は忠勝の武勇を褒め称えた。忠勝は「采配が良かったのではない、敵が弱すぎたのだ」と答えたという。 戦場に出て敵と戦う時の槍働きは古今無双だったが、教練などでの槍術は甚だ不器用で戦場での忠勝を知らぬ人が見ると意外と思ったという(『甲子夜話』)。 桑名へ移封後のある日、息子の忠政と小舟で巡視に出ている時に「櫂で葦を薙いでみろ」と言い、忠政が葦を薙ぎ倒したのに対し、忠勝は鎌で刈ったように切り取ってしまった。

小早川秀秋さんの残した辞世の句【金吾中納言】1577年~1602年12月1日

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「名のために 捨つる命は惜しからじ つひに止まらぬ浮き世と思へば」 (辞世の句) 安土桃山時代の大名。丹波亀山城主、筑前名島城主を経て備前岡山城主。名は関ヶ原の戦いの後に秀詮と改名した。 豊臣秀吉の正室・高台院の甥。秀吉の親族として豊臣家では重きをなし、小早川隆景と養子縁組した後には、関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に寝返り、豊臣家衰退の契機を作った。

三島由紀夫さんの残した辞世の句【小説家】1925年1月14日~1970年11月25日

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「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」 (辞世の句) 「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」 (辞世の句) 日本の小説家・劇作家・随筆家・評論家・政治活動家・皇国主義者。血液型はA型。戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家である。

樋口一葉さんの残した辞世の句【たけくらべ】1872年5月2日~1896年11月23日

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「身はもと江湖の一扁舟、みずから一葉となのって、芦の葉のあやうきをしるといえども、波静かにしては釣魚自然のたのしみをわするるあたわず。よしや海龍王のいかりにふれて、狂うらん、たちまち、それも何かは、さりとはの浮世は三分五里霧中」 (辞世の句) 日本の小説家。東京生まれ。戸籍名は「奈津」だが本人は「夏子」と名乗ることが多かった。 中島歌子に歌、古典を学び、半井桃水に小説を学ぶ。生活に苦しみながら、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった秀作を発表、文壇から絶賛される。わずか1年半でこれらの作品を送ったが、24歳6ヶ月で肺結核により死去。 没後に発表された『一葉日記』も高い評価を受けている。

徳川慶喜さんの残した辞世の句【江戸幕府最後の将軍】1837年10月28日~1913年11月22日

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「この世をば しばしの夢と 聞きたれど おもへば長き 月日なりけり」 (辞世の句) 江戸幕府第15代征夷大将軍。江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍。在任中に江戸入城しなかった唯一の将軍であり、最も長生きした将軍。 御三卿一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務める。徳川宗家を相続した約4ヶ月後に第15代将軍に就任。 明治2年9月、戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除され、引き続き、駿府改め静岡に居住した。生存中に将軍職を退いたのは11代・家斉以来であるが、過去に大御所として政治権力を握った元将軍たちとは違い、政治的野心は全く持たず、潤沢な隠居手当を元手に写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送り、「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた。一方で、旧幕臣が訪問しても渋沢栄一など一部人以外はほとんど会わなかった。共に静岡に移り住んだ旧家臣たちの困窮にも無関心で「貴人情を知らず」と怨嗟の声も少なくなかった。

吉田松陰さんの残した辞世の句【松下村塾】1830年9月20日~1859年11月21日

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「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」 (辞世の句 家族宛) 「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」 (私の命がたとえこの武蔵野の野で終えることになっても、自分の思想はここに留めておこう。) (辞世の句 弟子宛) 日本の武士、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者として知られる。私塾「松下村塾」で、のちの明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想的影響を与えた。

石田三成さんの残した辞世の句【治部少輔】1560年~1600年11月6日

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「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」 (辞世の句) 安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。本姓:藤原氏 豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。

大谷吉継さんの残した辞世の句【大谷刑部】1558年~1600年10月21日

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「契りとも 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」 訣別の挨拶として送られてきた平塚為広の辞世「名のために(君がため) 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」への返句となっている。 (辞世の句) 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部の通称でも知られる。

浅井長政さんの残した辞世の句【江北の雄】1545年~1573年9月26日

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「けふもまた尋ね入りなむ山里の花に一夜の宿はなくとも」 (辞世の句) 戦国時代の武将。 北近江の戦国大名。浅井氏の3代目にして最後の当主。 浅井氏を北近江の戦国大名として成長させ、北東部に勢力をもっていた。 妻の兄・織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが、後に信長と決裂して織田軍との戦いに敗れて自害。 浅井氏は滅亡した。 官位は贈従二位中納言。

西郷隆盛さんの残した辞世の句【西郷どん】1828年1月23日~1877年9月24日

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「二つなき 道にこの身を 捨て小舟 波立たばとて 風吹かばとて」 (辞世の句) 日本の武士、軍人、政治家。 薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。名は元服時には隆永、のちに武雄、隆盛と改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲。