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一休宗純さんの残した言葉【一休さん】1394年2月1日~1481年12月12日

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「夫れ人間あり様 万事とどまる事なし もとより生のはじめを知らざれば 死の終をわきまへず。」 「有露地より無露地へかえる一休み 風吹けば吹け 雨降らば降れ。」 「女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む。」 「花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖 はもみじ、花はみよしの。」 「借り置きし 五つのものを 四つ返し 本来空(くう)に 今ぞもとづく。」 「もし私の性欲を昇華して雅やかな歌にかえられるなら、その価値ははかり知れぬほどの黄金に匹敵するはず。」 「美人の陰部は水仙の香りがする。楚々とした腰に口づけしよう。もっと抱きしめて愛したい。」 「経文に気をとらわれてこだわりすぎると、有害なものになる。私も経にとらわれてしまって、犬や猫にも及ばない。犬でさえ仏殿に向かって、何の迷いもなく小便を引っ掛けるのに。」 「日々なすべき正しいことは、弓を引いて『心中の賊』を射落とすこと。今の世は仏と魔物が混ざり合っている。」 「世の中に我れぞ悟ると自慢して 名利求むる人の多さよ。」 「私は元々道に迷う凡夫であって、愚かな迷いが深いので迷っていることすら気づかない。しかし、悟りに至らなくても、もし道を求める心さえあるならば、自然に成仏することだろう。」 「わざわいというものは、元々福の裏返しにすぎず、福と禍は一筋の縄に過ぎないと信じる。」 「釈迦は、生まれつき偉い人のように思いがちだが、元々我々と同じような人間であった。しかし釈迦は6年間苦しみながら修行をし仏となった。そこが我々と違うのだ。」 「むさぼりと怒り・恨みの煩悩の根本は、言ってもしょうがないことを言って嘆くことにある。」 「私が詩づくりに励むのは自分への執着が強く、自分を偉そうに見せようとする煩悩があるからだ。注意しなければいけない。」 「世の中は起きて稼いで寝て食って、後は死ぬを待つばかりなり。」 「南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ。」 「今日は大燈国師の命日の前日で本堂ではたくさんの坊主たちが、禅商売用の香を焚き、経を読んでいる。その声がうるさく邪魔になってしょうがない。私はちょうど美人との情事を終えたあとで、こっちの方が私には大事だと話し

一休宗純さんの残した辞世の句【一休さん】1394年2月1日~1481年12月12日

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「濛々淡々として六十年 末期の糞をさらして梵天に捧ぐ 借用申す昨日昨日 返済申す今日今日 借りおきし五つのもの(地水火風空)を 四つ(地水火風)返し 本来空に、いまぞもとづく」 (ぼんやりと、また、こだわらずに生きた60年だが、昨日借りたらものを、今日返すように人生はあっという間である。借りたものを返して、今、空へ帰る。) (辞世の句) 室町時代の臨済宗大徳寺派の僧、詩人。説話のモデルとしても知られる。

一休宗純さんの残した最後の言葉【一休さん】1394年2月1日~1481年12月12日

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「死にとうない。」 (といって、座ったまま眠るように亡くなった。) (最後の言葉) 室町時代の臨済宗大徳寺派の僧、詩人。説話のモデルとしても知られる。

梅宮辰夫さんの残した言葉【辰兄】1938年3月11日~2019年12月12日

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「これは僕の持論だけど、もしもの時にはそれが自分の『寿命』だと受け入れた方がいい。そう考えれば、冷静に物事を判断できるようになるし、むしろ治療に専念する気持ちが湧いてくる。」 「医学のお蔭で僕は生き続けることができた。親父が医者だったことも影響していると思います。」 「信頼のおける医者の説明に耳を傾けて覚悟を決めたら、すべてを委ねる。」 「僕も俳優としての本分を全うしたい。無理かもしれないけど…、それこそが僕に与えられた最後の仕事。」 「僕の場合はまず、がんを踏み潰してやるといった気負いはなるべく持たない。」 「人工透析を30年、40年と続けている患者さんには本当に頭が下がる思いですよ。80歳まで人工透析をせずに生きてこられたことを、僕はありがたく思わなければならない。」 「僕が闘病について洗いざらい話すことで、正に今、がんに直面して悩み、傷つき、希望を失いかけている人やその家族にエールを送りたい。」 「人生で6度ものがんに打ち克って、この年齢まで生きてこられた。」 「正直なところ、自分の『がん』について語るのは気が進まなかった。」 「人間って二面性も三面性もあるのが当たり前。心で何を考えているかわからないのが人間ですよ。だからこそ悪役は人間らしいんじゃないですかね。」 「芸能界に入った頃はヤクザになりたいと思ってた(笑)~中略~ 55年も前のことなので勘弁してくださいね(笑)。」 「(高倉健さんについて)俳優と思って見ていない。兄さん、兄貴なんです。」 「帽子は似合わないんですよ、顔がデカいせいか。」 「アイツら(逝った仲間)の分も含め、頑張っていくしかない。」 「(松方)弘樹も含め、仲間が一人ずつ自分から去っていくのはこれは仕方がないことだよ。だけど精神的にはつらい。」 「昭和の映画俳優のプライドだけは捨てないで、通用しなくてもいいので、まだまだ昭和の俳優が生きているよと思われるぐらい、目障りでいたいと思います。」 「石原裕次郎や高倉健、菅原文太、それに松方弘樹…。どいつもこいつもみんな素敵な、魅力的な奴らばかりだったよ。」 「僕のいい加減さは直ってないが、今さら直す気持ちもない。」 「この人(松方弘樹)は自分と正反対。」 「俳優はCMに出演することじゃなく、芝居を見せるのが仕事。」 「俳優が俳優らしく生きられた昭和の芸能

中岡慎太郎さんの残した言葉【陸援隊隊長】 1838年5月6日~1867年12月12日

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「正道を踏み、義を尽くすのが政府の本務である。戦の一字を恐れて、政府の本務を貶めるようでは、外国から侮蔑されて、却って、好親が敗れてしまう。」 「我輩同志の志を達する日を内にて待ち候ては、決して百年待てもその期これある間敷く。」 「非常の難を救う者は、非常の行なくんば有るべからず。」 「国家興亡は離同にあり、敵の強弱に関係せざるなり。」 「世間因循(いんじゅん)傍観区々として、只(ただ)人の失策を求め笑い、坐して天下の機会を失し甘じて人の後に落つ。」 「邑(むら)ある者は邑を擲(なげう)ち、家財ある者は家財を擲ち、勇ある者は勇を振い、智謀ある者は智謀を尽し、一技一芸ある者はその技芸を尽し。」 「学問を成し遂げる志を立てたのならば、目先の貴賤で心を動かされてはいけない。」 「実に天下、無茶苦茶に相成り候。言語に絶し悲憤極り申し候。天下挽回再挙なきにあらず、しかしながら、今しばらく時を見るべし。涙を抱えて沈黙すべし。外に策なし。」 「大君の辺にこそ死なめ大丈夫 都はなれて何か帰らん」 「俺らを暗殺にくるとは、刺客も偉い奴だな、勇気がある。」 「討幕のために、『戦』の一字あるのみ。」 「志とは目先の貴賎で動かされるようなものではない。今賤しいと思えるものが明日は貴いかもしれない。君子となるか小人となるかは家柄の中にない。君自らの中にあるのだ。」 「謙虚とは堂々として過信しないことだ。それは断じて卑屈であることではない。」 「他に策なし」 「涙を抱えて沈黙すべし」 日本の志士。陸援隊隊長。名は道正。通称ははじめ福太郎、光次、のち慎太郎。号は遠山・迂山など。変名は石川清之助など。坂本龍馬らと共に薩長同盟の斡旋に尽力するも近江屋事件で横死した。贈正四位。

小津安二郎さんの残した最後の言葉【名監督】1903年12月12日~1963年12月12日

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「映画はドラマだ、アクシデントではない。」 (最後の言葉) 「何も悪いことをした覚えはないのに、どうしてこんな病気にかかったんだろう。」 (最後の言葉) 「右足がどっかに行っちゃったのかね。ベッドの下に落っこちているんしやないかね。」 (最後の言葉) 日本の映画監督・脚本家。「小津調」と称される独特の映像世界で優れた作品を次々に生み出し、世界的にも高い評価を得ている。「小津組」と呼ばれる固定されたスタッフやキャストで映画を作り続けたが、代表作にあげられる『東京物語』をはじめ、女優の原節子と組んだ作品群が特に高く評価されている。 「小津調」とは、小津安二郎がつくりあげた独自の映像世界・映像美をさす。その主な特徴として、ロー・ポジションでとること、カメラを固定してショット内の構図を変えないこと、人物を相似形に画面内に配置すること、人物がカメラに向かってしゃべること、クローズ・アップを用いず、きまったサイズのみでとること、常に標準レンズを用いること、ワイプなどの映画の技法的なものを排することなどがある。また、日本の伝統的な生活様式へのこだわりや、反復の多い独特のセリフまわし、同じ俳優・女優が繰り返しキャスティングされることも小津調を作り上げる要素の一つになっている。 小津が求めた画面の完璧さは小道具や大道具の配置、色調にとどまらず、演じる俳優たちにも求められた。俳優の位置、動きから視線まですべて小津監督の計算したとおり実行することが求められた。これによって画面に完璧な美が生まれた。松竹の後輩として小津監督を見ていた吉田喜重は美しさへのこだわりから生み出される画面の美について「それはこの世界が無秩序であるがゆえに実現した、かりそめの幻惑であったのだろう。おそらく小津さん自身のこの世界を無秩序と見るその眼差しが、このなにげない反復の運動、その美しい規則性を見逃すことなく捉え、無上の至福にも似た、かりそめの調和といったものをわれわれに夢みさせるのである」と述べている。 1920年代、ハリウッドで映画製作に携わっていたヘンリー小谷(小谷倉市)が松竹蒲田撮影所に招かれ、ハリウッド流の映画製作技術を伝えた。その一つに、構図の中に俳優たちを配置し、その構図が崩れないように、カメラの動きと俳優の動きを制限するやり方があった。この手法が小津に大

小津安二郎さんの残した言葉【名監督】1903年12月12日~1963年12月12日

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「男女の仲というのは、『男が夢を見るのをやめ、女が紅を差すのをやめた』ときは、あきらめろ。」 「男女の仲というのは、『予想がつく』ときは、あきらめろ。」 「いたずらに激しいことがドラマの面白さではなく、ドラマの本質は人格を作り上げることだと思う。」 「ぬくもりだの暖かさだの、そんなのはゴマカシですよ。僕は、人生の本当の姿を描きたいんです。」 「しかし、世の中なんて、みんなが寄ってたかって複雑にしてるんだな。案外、かんたんになるもんさ。」 「お茶漬けだよ。お茶漬けの味なんだ。夫婦はこの、お茶漬けの味なんだよ。」 「男女の仲というのは、夕食を二人っきりで三度して、それでどうにかならなかったときは諦めろ。」 「どうでもよいことは流行に従い、重大なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う。」 日本の映画監督・脚本家。「小津調」と称される独特の映像世界で優れた作品を次々に生み出し、世界的にも高い評価を得ている。「小津組」と呼ばれる固定されたスタッフやキャストで映画を作り続けたが、代表作にあげられる『東京物語』をはじめ、女優の原節子と組んだ作品群が特に高く評価されている。 「小津調」とは、小津安二郎がつくりあげた独自の映像世界・映像美をさす。その主な特徴として、ロー・ポジションでとること、カメラを固定してショット内の構図を変えないこと、人物を相似形に画面内に配置すること、人物がカメラに向かってしゃべること、クローズ・アップを用いず、きまったサイズのみでとること、常に標準レンズを用いること、ワイプなどの映画の技法的なものを排することなどがある。また、日本の伝統的な生活様式へのこだわりや、反復の多い独特のセリフまわし、同じ俳優・女優が繰り返しキャスティングされることも小津調を作り上げる要素の一つになっている。 小津が求めた画面の完璧さは小道具や大道具の配置、色調にとどまらず、演じる俳優たちにも求められた。俳優の位置、動きから視線まですべて小津監督の計算したとおり実行することが求められた。これによって画面に完璧な美が生まれた。松竹の後輩として小津監督を見ていた吉田喜重は美しさへのこだわりから生み出される画面の美について「それはこの世界が無秩序であるがゆえに実現した、かりそめの幻惑であったのだろう。おそらく小津さん自身のこの世界を無秩序と見るその眼差しが、このな

山本清一さんの残した言葉【日本一の瓦葺職人】1932年11月1日~2018年12月12日

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「職人というのは、人知れず役に立ってればええんや。」 「できへんやつが一生懸命にやるほどきれいなものはない。できるからっちゅうて手を抜くと魂が入った仕事にならへん。」 「一生懸命にやってたら、神さんか何かわからんけど力を貸してくれるんやな。」 「まあ、90%は失敗するやろ。残り10%は勝算やのうて希望ですわ。」 日本の瓦工事技術者、日本伝統瓦技術保存会会長。奈良県生駒市に生まれる。奈良の寺院や姫路城の修理に携わった。 父は瓦を葺く職人で清一は尋常高等小学校卒業後に職人になり21歳まで父の下で仕事をする。その後、文化財の瓦葺きの棟梁の井上新太郎のもとで修行し、26歳で独立した。東大寺大仏殿や法隆寺金堂など多くの伝統的な建築物の復元、再建に取り組む。1960年、28歳で姫路城昭和大修理の瓦工事の棟梁が辞め次の棟梁に抜擢され務める。1963年、31歳で会社組織化し山本瓦工業株式会社を設立する。2000年に従来の瓦の問題点を解決した南都平瓦を開発し特許取得する。 1994年には文部大臣より、選定保存技術保持者「屋根瓦葺(本瓦葺)」に認定される。主に、法隆寺金堂、姫路城、東大寺大仏殿、薬師寺、唐招提寺金堂、平城宮跡朱雀門・大極殿、東本願寺、松本城の修復に携わる。1998年には労働大臣卓越技能者表彰、さらに、2001年には黄綬褒章、日本伝統瓦技術保存会3代目会長に就任する、2007年には旭日双光章を受章する。2011年姫路城の平成大修理の屋根瓦の工事を統括する棟梁に再度選ばれる。現役を続けるとともに次世代の育成に力を入れていた。

故人が残した名言集【12月12日】

梅宮辰夫さんの残した言葉【辰兄】1938年3月11日~2019年12月12日 「これは僕の持論だけど、もしもの時にはそれが自分の『寿命』だと受け入れた方がいい。そう考えれば、冷静に物事を判断できるようになるし、むしろ治療に専念する気持ちが湧いてくる。」 「医学のお蔭で僕は生き続けることができた。親父が医者だったことも影響していると思います。」 「信頼のおける医者の説明に耳を傾けて覚悟を決めたら、すべてを委ねる。」 「僕も俳優としての本分を全うしたい。無理かもしれないけど…、それこそが僕に与えられた最後の仕事。」 「僕の場合はまず、がんを踏み潰してやるといった気負いはなるべく持たない。」 「人工透析を30年、40年と続けている患者さんには本当に頭が下がる思いですよ。80歳まで人工透析をせずに生きてこられたことを、僕はありがたく思わなければならない。」 「僕が闘病について洗いざらい話すことで、正に今、がんに直面して悩み、傷つき、希望を失いかけている人やその家族にエールを送りたい。」 「人生で6度ものがんに打ち克って、この年齢まで生きてこられた。」 「正直なところ、自分の『がん』について語るのは気が進まなかった。」 「人間って二面性も三面性もあるのが当たり前。心で何を考えているかわからないのが人間ですよ。だからこそ悪役は人間らしいんじゃないですかね。」 「芸能界に入った頃はヤクザになりたいと思ってた(笑)~中略~ 55年も前のことなので勘弁してくださいね(笑)。」 「(高倉健さんについて)俳優と思って見ていない。兄さん、兄貴なんです。」 「帽子は似合わないんですよ、顔がデカいせいか。」 「アイツら(逝った仲間)の分も含め、頑張っていくしかない。」 「(松方)弘樹も含め、仲間が一人ずつ自分から去っていくのはこれは仕方がないことだよ。だけど精神的にはつらい。」 「昭和の映画俳優のプライドだけは捨てないで、通用しなくてもいいので、まだまだ昭和の俳優が生きているよと思われるぐらい、目障りでいたいと思います。」 「石原裕次郎や高倉健、菅原文太、それに松方弘樹…。どいつもこいつもみんな素敵な、魅力的な奴らばかりだったよ。」 「僕のいい加減さは直ってないが、今さら直す気持ちもない。」 「この人(松方弘樹)は自分