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ビング・クロスビーさんの残した言葉【ホワイト・クリスマス】1903年5月3日~1977年10月14日

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「人生は楽しむためにあるもので、苦しみは味付けに少々。」 「どうしても友達になれない人種がいる。小さなウソをつくやつと、アイアンの飛距離を自慢するやつ。」 アメリカ合衆国の歌手、俳優。アメリカのマルチエンターテイナーのひとり。 歌手として1940年以降、13曲の全米No.1ヒットを持つ。「ホワイト・クリスマス」や「星にスイング」、「サイレント・ナイト」などの数々のヒット曲を世に出したこともあり、生涯のレコード売上は4億枚を超えるという。 第二次世界大戦中の1942年に発売され、リメイク版を含めて全世界で4千500万枚を超える大ヒットとなった「ホワイト・クリスマス」が有名 なお、この曲は発売以降ビルボードで14週間1位を記録した。クロスビーは他にも多くのクリスマスソングを歌っており、「クリスマスソングの王様」とも呼ばれている。

ナタリー・コールさんの残した言葉【シンガーソングライター】1950年2月6日~2015年12月31日

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「誰も支持してくれる人がいなければとてもつらい事。しかし夢を持っているならば毅然と立ち上がり突き進む。それはとても勇気のいる行為です。」 アメリカ合衆国のシンガーソングライター。ナット・キング・コールの実娘。 カリフォルニア州ロサンゼルス生まれ。子供の頃から歌手として活動し、1975年にデビュー。デビュー曲の「ジス・ウィル・ビー」はビルボード全米総合チャート6位のヒットを記録し、グラミー賞の最優秀R&B女性ボーカル賞、最優秀新人賞に輝く。 1976年に初来日を果たし、「Mr. Melody」が第5回東京音楽祭でグランプリを受賞。1977年には全米総合チャート5位、R&B部門1位に輝いた「I've Got Love On My Mind」等のヒットを飛ばす。しかし、1980年代に入るとセールスは大きく落ち込み、また麻薬中毒に陥って一時活動を休止するなど、不遇の時を過ごした。 1988年に「ピンク・キャデラック」のヒットで復活すると、翌1989年にはビルボードのR&B部門とアダルト・コンテンポラリー部門ともに第1位、全米シングルチャート第7位、全英オフィシャルチャートのシングルランキング第2位という殿堂に輝いた「Miss You Like Crazy」、さらに1991年には偉大な父ナット・キング・コールのカバー集「アンフォーゲッタブル (Unforgettable... with Love)」を発表。全米ポップチャートで5週1位というジャズ作品としては異例の大ヒットを記録し、グラミー賞の最優秀アルバム賞を受賞した。シングル「アンフォーゲッタブル」では、亡き父が歌った音源とのオーバーダブによる「共演」が大きな話題を呼び、この曲も同年のグラミー賞のソング・オヴ・ザ・イヤーに輝いている。

中島啓江さんの残した言葉【オペラ歌手】1957年11月15日~2014年11月23日

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「ありがとうは魔法のことば。」 「私はこの体型が気に入っている。ダイエットなんて考えたこともない。それが私の生き方。」 日本の女性オペラ歌手。鹿児島県肝属郡南大隅町佐多出身。本名同じ。最終所属はピュアハーツ/太田プロダクション。血液型A型。身長165cm、体重180kg。 デビュー時にはその音域の広さ(4オクターブと言われていた)から、「和製フレディ・マーキュリー」と度々呼ばれることがあった。しかし、それについてマーキュリーおよびクィーンのファンから批判を受けたこともある。 51歳で189.2kgだった中島は、病院で健康診断を受けたところ、太りすぎで心臓に過度の負担がかかっていることが判明。そこで中島は、脂肪燃焼成分・カルニチンの合成を高め、たんぱく質をアミノ酸に分解するアクチニジンを含むキウイを毎朝食べる“朝キウイダイエット”に挑戦。「20kgは絶対やせるつもりです」とステージ上でファンに宣言していた。中島は、ベッドから起き上がるのも一苦労だったという状態から順調に体重を落とし、水泳やウォーキングで「汗をかいて気持ちいい」と語るほど運動にも慣れていった。その結果、3か月で20kgの減量に成功し、168.4kgとなった。しかし晩年には180㎏までリバウンドしたことにより膝を痛め、杖や車いすを使って生活していた。 「啓江」と書いて「けいこ」と読むのは、中国の揚子江沿いで生活したことのある母親が、そのときに中国の人々から受けた好誼に感謝する意を込めて、揚子江の「江」に因んで名付けたためである。 前歯を外側からかぶせる形で補強している。ある音階を歌うと共振で前歯がぐらぐらと揺れてしまうのを防ぐためである、と『平成教育委員会2010!!祝たけし先生勲章受賞 春の連休ボケ解消SP』へのゲスト出演時に告白している。

成田賢さんの残した言葉【サイボーグ009】1945年10月22日~2018年11月13日

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「死ぬまで歌いますよ。声が出るうちは」 「今年で72歳(当時)過ぎるんですけど、精神年齢は26歳くらいだと思って生活してますね」 日本の歌手、ブルースハープ奏者。本名は成田 慶一。 満州国大連生まれ。 1979年に日本コロムビア関係者からオファーを受け、テレビアニメ『サイボーグ009』のオープニングテーマ「誰がために」を歌唱。翌年には特撮テレビドラマ『電子戦隊デンジマン』の主題歌を担当するなど、テレビ主題歌の依頼が増えてきた矢先にオートバイ事故で負傷し、その後遺症のため1981年に一度歌手を引退。 それ以降は長らく表舞台から遠ざかっていたが、2007年1月7日に開催されたイベント「ANIME JAPAN FES 2007 "冬の陣"」で歌手活動を再開。同年、特撮テレビドラマ『獣拳戦隊ゲキレンジャー』の挿入歌で26年ぶりの新曲を発表した。

島倉千代子さんの残した言葉【お千代さん】1938年3月30日~2013年11月8日

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「私はいい人達に恵まれました。」 「振り返ると遅れちゃう。一歩進めるところが半歩になっちゃう。」 日本の演歌・歌謡曲歌手。東京府東京市品川区北品川出身、日本音楽高等学校卒業。愛称は「お千代さん」。 地方小唄や音頭といった新民謡を数多くレコードに吹き込んでいた。それらの中には、『松井田小唄』『祇園まつり音頭』『七夕おどり』など地元の人以外にも広く親しまれ、全国的によく知られた歌もある。それぞれの地元では、大スターである島倉がレコードに吹き込んだこともあって、親しまれている場合が多い。当時の音源を祭りの際に使用し続けているところもある。 また、仙台市の『ミス仙台』(二葉あき子のカバー)や、大阪市の『小鳥が来る街』などといった、地方の愛唱歌の類もレコードに吹き込んでいる。また、民謡で『祖谷の粉ひき節』『島原の子守唄』『五木の子守唄』などをレコードに吹き込み、ヒットさせている。

島倉千代子さんの残した最後の言葉【お千代さん】1938年3月30日~2013年11月8日

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「私の部屋の中にスタジオができて、そこで私はできる限りの声で歌いました。自分の人生の最後に、二度と見られない風景を見せて頂きながら歌を入れられるって、こんな幸せはありませんでした。人生の最後に素晴らしい時間をありがとうございました」 (最後の言葉) 日本の演歌・歌謡曲歌手。東京府東京市品川区北品川出身、日本音楽高等学校卒業。愛称は「お千代さん」。 地方小唄や音頭といった新民謡を数多くレコードに吹き込んでいた。それらの中には、『松井田小唄』『祇園まつり音頭』『七夕おどり』など地元の人以外にも広く親しまれ、全国的によく知られた歌もある。それぞれの地元では、大スターである島倉がレコードに吹き込んだこともあって、親しまれている場合が多い。当時の音源を祭りの際に使用し続けているところもある。 また、仙台市の『ミス仙台』(二葉あき子のカバー)や、大阪市の『小鳥が来る街』などといった、地方の愛唱歌の類もレコードに吹き込んでいる。また、民謡で『祖谷の粉ひき節』『島原の子守唄』『五木の子守唄』などをレコードに吹き込み、ヒットさせている。

越路吹雪さんの残した最後の言葉【シャンソンの女王】1924年2月18日~1980年11月7日

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「いっぱい恋をしたし、おいしいものを食べたし、歌も歌ったし、もういいわ」 (最後の言葉) 日本のシャンソン歌手、舞台女優。元宝塚歌劇団男役トップスター。 愛称は「コーちゃん」「コッシー」。 所属レコード会社は日本コロムビア→東芝音楽工業。 越路の活躍の裏には、マネージャーとして最期まで支え、21世紀に入っても現役で活躍していた岩谷時子の存在が大きかった。岩谷が宝塚出版部に勤めていた頃に15歳の越路と知り合い、意気投合した。越路が宝塚を辞めた際に岩谷も一緒に退社、共に上京し東宝に所属。東宝の社員として籍を置いたまま越路のマネージャーも務めた(岩谷は1963年に東宝を退社)。岩谷は自身が作詞家として成功を収めた後も、自分の本業を聞かれるたび「越路吹雪のマネージャー」と答えていた。 越路と岩谷が初めて接触したのは、新人だった越路が自分のサインの見本を書いてほしいと岩谷に相談を持ちかけたときだった。このとき2人でつくったサインを越路は終生使い続け、越路が忙しくなってからは岩谷が「代筆」することもよくあったという。 その後、岩谷は気づけば越路の付き人の役割を担っており、ある日の舞台が終わったあと、越路は不器用ながらも小道具の手入れをする岩谷を見て、「時子さんもどこか抜けているし、私も抜けている、二人でやっと一人前だよね」と言ったという。 宝塚時代から、靴や洋服など欲しいものがあればどんどん買ってしまい、よく給料を前借りしていた越路は、東宝に移籍するときには歌劇団に借金が残っていた。その浪費癖を重々承知していた岩谷は、1978年、越路がパリにアルバムのレコーディングに赴くにあたり、レコード会社の担当ディレクターに「(所持金が)足りなくなったら使ってほしい」とこっそり現金を託した、という話も残っている。 また岩谷はマネージャー業の傍ら、越路の「日本語でしか歌いたくない」という求めに応じて越路が歌うシャンソンなど外国曲の訳詞を担当し、越路の代表曲である『愛の讃歌』『ラストダンスは私に』『サン・トワ・マミー』『ろくでなし』などは岩谷の優れた訳詞によりヒットへ導かれた。越路が亡くなるまで約30年間に渡りマネージャーを務めた岩谷だが、「越路のことが好きで支えていた」と語り、マネージャーとしての報酬は一切受け取っていなかったという。 越路吹雪がこの世を...

本田美奈子さんの残した言葉【歌手】1967年7月31日~2005年11月6日

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「生きるために生きる。」 「白血病と闘うすべての人に、生きる勇気と希望を届けたい。」 7/31 お母さん 私を産んでくれた日です。 生きている喜びを感じながら”ありがとう”を言える事を幸せに思います。 お母さん ありがとう。 美奈子より 日本の歌手、女優、声楽家。80年代アイドル。本名、工藤 美奈子。 身長:162 cm、体重:43 kg、B:74 cm、W:56 cm、H:76 cm。血液型はO型。1985年、シングル「殺意のバカンス」で歌手としてデビュー。 デビュー初期はアイドル歌手として活動したが、本人はアイドルと呼ばれるのを嫌っていた。デビュー曲も本人の強い希望でアイドル色の強い「好きと言いなさい」から大人びた歌謡曲の「殺意のバカンス」に変更された。日頃から「アーティストでありたい」と口にするなど、しばしば事務所やレコード会社の描くイメージ戦略通りの姿を演じることを要求されるアイドル歌手の枠には収まり切らない言動が当初から目立っていた。若い時から自己の信念を確立していた人であったことが窺われる。 その一方で「やっほー」があいさつ代わりの天衣無縫な振る舞いでも知られていた。しかし出演した映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』の音楽監督、渋谷森久との出会いをきっかけに落ち着いて人と接するようになっていった。以前の自分自身については「わがままだった」と述懐している。また『ミス・サイゴン』への出演も歌手としてのキャリアだけでなく、人格の上において大きな転機となった。大勢の人が力を会わせて一つの作品を完成させるという過程を通じて人との共同作業に喜びを見出すようになっていったようである。生前親交のあった関係者は「決して人の悪口を言わない人だった」と口を揃える。 人との絆を大切にする人であったことは毎年正月にわざわざそのための休みをとって2000枚の年賀状を自ら書いていたことにも表れている。メッセージなどの末尾には必ず「心を込めて...」の言葉を添えていた。この言葉は没後に発売されたアルバム『心を込めて...』のタイトルに採用された。ファンを大切にし、いつも「一緒に青春しようね」と呼びかけていた。「青春」は彼女が大切にしていた言葉であり、公式ファンクラブの名称「Blue Spring Club」は「青春クラブ」を訳したものである...

亀渕友香さんの残した言葉【ゴスペル歌手】1944年11月3日~2017年10月22日

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「リズムは人間でいう鼓動、つまり心臓です。心臓のない歌は歌になりません。どんな曲でも、リズムは命なんです。」 日本のゴスペル歌手、ボイストレーナー、女優。 小学校の時、マヘリア・ジャクソン出演映画『真夏の夜のジャズ』を観て彼女の歌声に衝撃を受け涙を流す。以来サッチモ、ゴールデン・ゲイト・カルテット、アレサ・フランクリンなど、ゴスペルミュージシャンをヒーロー&ヒロインとし、ブルース、ジャズ、アフリカン音楽に至るまでの黒人音楽を聴きながら成長。 1968年、R&Bグループ「リッキー&960ポンド」のボーカルとしてデビュー。1980年、米国人と結婚のため渡米。1987年に帰国し離婚後、音楽活動を再開。ジャズライブ、ミュージカル、映画音楽、テレビ出演などの活動をしながら、ボイストレーナーとしても多くのミュージシャンを手がける。1993年、ゴスペルを主とするコーラスグループ「亀渕友香&VOJA(The Voices of Japan)」を結成。現在もライヴ、コンサート活動、アーティスト楽曲コーラス、TVバックコーラス、小中高校での芸術鑑賞会、特別支援学校でのライヴなど、幅広く活動中。2008年には「第1回・野口英世アフリカ賞」の授賞式および記念晩餐会で、上皇明仁・上皇后美智子夫妻や歴代の内閣総理大臣、アフリカ各国の大統領や国王の前で演奏。2009年より、ソロライヴ活動を再開。ジャズスタンダードや、アコースティック編成など様々なジャンルでライヴ活動を行った。 1998年から2006年まで「VOJAコーラスアカデミー」の学長を務めた。2007年には名称を変え、「VOJA Voice Art College」を開校し学長を務めた。 2004年12月にはJ-POPグループの「DEEN」とのコラボレーション楽曲を完成させ、ヒットとなる。2007年3月には、1974年3月に発売されたファースト・ソロ・アルバム「Touch Me, Yuka」が紙ジャケットCDにて限定生産ながら復刻された。 ボイストレーナーとして指導したミュージシャンには杏里、山下久美子、久保田利伸、大黒摩季、MISIA、SPEED、倖田來未、MAX、小沢健二、和田アキ子、平松愛理、研ナオコ、平井堅、持田香織、和央ようか、米倉涼子、観月ありさ、田中ロウマらがいる。

モンセラート・カバリェさんの残した言葉【ソプラノ歌手】1933年4月12日~2018年10月6日

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「まだ埋もれた歌手だった頃よ。1963年蝶々夫人で共演しているうちに愛し合うようになったわけ。ピンカートンに結婚してもらえた蝶々夫人はたぶん、私一人じゃないかしら。…….夫は、1976年から歌ってないわ。アーモンドの栽培、ワイン造り、それに家畜の飼育、それが夫の仕事よ。彼の農園にいると楽しいわ」 カタルーニャ生まれのオペラ歌手で、優れたベルカント歌唱技術とロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティらのベルカント・オペラの諸役での優れた歌唱で名高い。 カバリェが世界的に知られるようになったきっかけは、1965年ニューヨーク市のカーネギー・ホールで行われた演奏会形式の『ルクレツィア・ボルジア』上演で、病気でキャンセルしたマリリン・ホーンの代役を務めたことである。彼女の歌唱はセンセーションを引き起こし、オペラ界にその名を知らしめた。それまで、モーツァルトやドイツオペラを主なレパートリーとしていたカバリェは、この公演を切っ掛けにしてベルカント・オペラにレパートリーを移行していく。同年後半、カバリェはグラインドボーン音楽祭およびメトロポリタン歌劇場にグノーの「ファウスト」でマルグリットを歌って初出演する。また、1970年にはドニゼッティの「ルクレツィア・ボルジア」を歌いミラノ・スカラ座主役デビュー(1960年代前半に傍役でスカラ座に出演している)を、またヴィオレッタ役でロイヤル・オペラハウスへのデビューを果たす。 彼女はベルカント・オペラを当たり役としているが、バロックからヴェルディ、ヴァーグナー、プッチーニ、さらにR.シュトラウスの元帥夫人(『ばらの騎士』)や『サロメ』の主役に至る実に80もの役柄を歌った経験がある。 また彼女はリサイタルも得意で、とくに母国スペインの歌曲の歌唱が名高い。 カバリェの声は純粋な声質、正確なコントロールと力強さが顕著である。彼女は劇的な才能や演技力よりは、高度な歌唱力や陰影にとんだ声色、そして絶妙なピアニシモが評価されている。

三條正人さんの残した言葉【東京ロマンチカ】1943年1月30日~2017年10月5日

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「終る事のない 歌の一本道」 ムード歌謡コーラスグループ「鶴岡雅義と東京ロマンチカ」のリードボーカルで、歌手。 1967年作曲家、鶴岡雅義に請われ、男性歌謡コーラスグループ「鶴岡雅義と東京ロマンチカ」のリードボーカルとして迎え入れられた。『小樽のひとよ』でレコードデビューし、大ヒットとなる。その甘くせつない歌声と美しく哀愁を帯びたレキントギターのメロディーは、ムード歌謡が全盛期であった当時の大人の心を大きく揺さぶった。 1968年、『旅路のひとよ』で日本レコード大賞歌唱賞を受賞。NHK紅白歌合戦に初出場。 1969年には『君は心の妻だから』『北国の町』の大ヒットが続く。 フジテレビの「夜のヒットスタジオ」では毎週レギュラー出演して、お茶の間の人気者になる。端正なマスクと抜群の歌唱力で、多くの女性ファンを獲得する。 人気絶頂の中、1973年女優の香山美子と結婚。1974年、『さだめ』でソロ歌手としてデビュー。 1978年『北の都の物語』で東京ロマンチカに復帰する。以後、ロマンチカからの独立と復帰を繰り返すが、『あなたを待ちます』『ひとりの札幌』などがヒットし、ソロ歌手としての評価も高い。

東海林太郎さんの残した最後の言葉【歌手】1898年12月11日~1972年10月4日

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「眠いだけだよ」 (最後の言葉) 日本の歌手。ロイド眼鏡・燕尾服を着用し直立不動の姿勢で歌うという特徴があった。1965年、紫綬褒章受章。 声楽を下八川圭祐に師事し、音楽コンクールの声楽部門で「我恨まず」(シューマン)「仮面舞踏会」からのアリア「レナートの詠唱」を独唱し入賞した。 流行歌のレコードは、ニットーレコードでの「宇治茶摘唄」の吹込みが最初。大日本雄辯會講談社レコード部(現:キングレコード)専属になり1933年プロ歌手となった。「河原月夜」「山は夕焼け」などを吹込む。放送オペラにも出演。「椿姫」では医師の役を演じた。 日本ポリドール蓄音機株式会社(現:ユニバーサルミュージック)で吹込んだ「赤城の子守歌」が、1934年2月に新譜で発売され、空前のヒットとなった。その年には「国境の町」も大ヒットし、歌手としての地位を確立した。その後ポリドール専属となり、澄んだバリトンを活かして「むらさき小唄」「名月赤城山」「麦と兵隊」「旅笠道中」「すみだ川」「湖底の故郷」などのヒット歌謡で東海林太郎時代を到来させた。また、「谷間のともしび」など外国民謡においても豊かな歌唱力を示した。大戦中はテイチクへ移籍し、「あゝ草枕幾度ぞ」や「琵琶湖哀歌」、「戦友の遺骨を抱いて」などを吹き込んでいる。 戦後は、戦前のヒット曲が軍国主義に繋がるとして国粋的なヤクザものが禁止され、また進駐軍からも睨まれ、不遇の時代が続いた。 1946年、ポリドール復帰第一作が「さらば赤城よ」。1949年、キングレコードへ復帰。1953年、日本マーキュリーレコードへ移籍。その後、次第に地方公演で人気を回復し1957年、東京浅草国際劇場で「東海林太郎歌謡生活25周年記念公演」を開催。1963年に日本歌手協会初代会長に就任。空前のなつかしの歌声ブームのなか東海林太郎の人気が復活し、懐メロ番組に出演するなどして脚光を浴びた。

佐藤しのぶ さんの残した言葉【ソプラノ歌手】1958年8月23日~2019年9月29日

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「(これまでの人生で最大の買い物(投資)は何かと聞かれて)私にかけたお金。無駄が多いんですけれど。でも、無駄こそ人生と思っているからいいんです(笑)。」 「私、計画魔で過剰な計画をするのが好きなんです。でも、ほとんどそのとおりにいったことがなくて(笑)。いずれにしても、時間があれば練習に充ててしまうので、ずっと忙しく、あまり公私の別はないですね。だからこそ、家族と過ごす時間は大切にしています。」 「世の中は変わっても人間の生き様は変わっていない。怒りも喜びも愛することも悲しみも。それをオペラは伝えようとしている。だから面白いんです。ぜひ劇場へオペラを観に来てほしいですね。」 「以前、イタリア人と、『歌うって恥ずかしいよね』って話したことがあります。裸で人前に出るより恥ずかしいって。なぜなら頭で何を考えているか、これまでの人生で何をしてきたか、すべて見えてしまうから。自分と真っ向から対峙するから、弱さもおろかさも全部出すことになる。それでも舞台に立つのは、やはり自分と闘う勇気、成長したいという思いもあるからでしょうね。演奏家や歌手というのはそういう意味で見事なまでに潔い、覚悟の必要な職業だと思います。」 「『仮面舞踏会』はヴェルディの傑作。ありていに言えば不倫の関係。でも、ヴェルディが描きたかったのは人間の気高さ。どんなに善良なひとびとが、善行を行ってもそれが結果的には悲劇につながってしまうこともある。なぜなら、大きな愛の力には誰も抗えない。そういう真実の愛を描いた感動的な作品です。」 「(自分を音楽へ向かわせているものは何かと聞かれて)昔は純粋に音楽が好きという気持ちでした。でも、今はそれ以上に感謝の気持ちが強いですね。歌い手になるなんて宝くじに当たるようなもの。そのうえ、家族も持てたなんて、これ以上の幸運はないですよ。」 「私、人生に無駄は何もない、100回のうち99回失敗しても、その99回は残り1回の成功に必要だったと信じているんです。負け惜しみっぽいのですが、ぶざまに格闘している自分が私は愛しいし、それが自分だなって思う。そういう小さなことを大事にしたうえで、歌っていきたいと思っています。」 「先生から、歌い手というのは、生きている楽器だから見ただけで、どういう声が出るかわかると言われました。痩せているから声が出ないのではなくて、訓練が足りないか...

松尾和子さんの残した最後の言葉【ムード歌謡の女王】1935年5月17日~1992年9月25日

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「高円寺に30年くらい前の話ですが、お墓を買いました。小さくても買っといて良かったとつくづく思います。松尾家は皆高円寺のお墓に入るのですからね。体に気をつけて頑張って下さい。では又ね。母より」 (息子へ) (最後の手紙) 日本の歌手。 ジャズに惹かれたことと自身及び家族の生活のために歌手となり、レイモンド・コンデのバンド、ゲイ・セプテットの専属歌手のひとりとなる。進駐軍のキャンプやナイトクラブなどで歌ううち、徐々に人気が上がっていき、やがて、赤坂のクラブ・リキ(力道山が経営していた)の専属歌手となり歌っていたときに、フランク永井に認められスカウト。吉田正に紹介されて、ビクターに入社。 1959年には「グッド・ナイト/東京ナイト・クラブ」でレコードデビュー。「グッド~」は和田弘とマヒナスターズ、「東京~」はフランク永井との共唱。当時はベテラン/人気歌手でも片面は他の歌手である場合が多く、ビクター及び吉田正の期待のほどが窺える。第2弾として発売した「誰よりも君を愛す」(マヒナとの共唱)が大ヒットし、それと共に「グッド~」もつられる形でヒット、「誰よりも~」は第2回レコード大賞を受賞、「東京ナイト~」はその後長らくデュエットソングの定番として根強い人気を博し、松尾の名は一躍スターダムへとのし上がり、後にムード歌謡の女王と称されるようになった。

淡谷のり子さんの残した言葉【ブルースの女王】1907年8月12日~1999年9月22日

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「ブルースの女王?それ、安っぽくてイヤな言葉。ねぇ、『のりちゃん』と呼んで。ジャズもシャンソンも好きだし、クラシックだってもう一度勉強し直したいな、って思ってるのよ。」 「自分から逃げれば逃げるほど、生き甲斐も遠ざかる。」 「 レコード大賞も歌手を堕落させる原因ね。賞を取ればギャラも上がるから血眼でしょう。歌手はね、お金のために歌うようになったらおしまいよ」 「ブルースというものは、だれかが書いて、だれかが曲をつけて歌うもんじゃないの。黒人たちが自分の思いを自分の言葉で、自分のメロディーで叫んだ歌、それがブルースよ」 「あたしはね、やれるところまでやりますよ。歌と一緒に死んでかなきゃいけない、と昔から思ってるんだ。」 「ヘアヌードなんて、ただべローンと裸になるだけ。心の中に何か持ってないと。」 「あまりヨレヨレになって生きているっていうのは…。でも、そうかといって、じゃ華々しいうちにステージをやめればいいじゃないかって言われるけど、そんなものじゃないんですよ。最後まで見きわめたいでしょう。」 「レコード大賞も歌手を堕落させる原因ね。賞を取ればギャラも上がるから血眼でしょう。歌手はね、お金のために歌うようになったらおしまいよ。」 「歌屋は歌だけをちゃんとやればいいのよ。」 「歌手は自分が酔うのではなく、聞き手を酔わせるもの。」 「今の若い歌手のひどいこと。のど自慢で『かね1つ』といったようなものが、恥も外聞もなく盛んに歌っている。テレビのスイッチを思わず切りたくなるような歌手が多いんで、嫌になっちゃいますよ。」 「誰が歌ったんだっけ?『着てはもらえぬセーターを、寒さこらえて編んでます。』着てはもらえないとわかっているのなら、編むことないわよ。自分の中に光を持っているのに、『私はダメかもしれない』ってね。それはせっかく懐中電灯を持ちながら、眼をつぶって歩くようなものです。尊いものを持っているのに、その有り難さに気付かない。贅沢ですよ。」 「せっかく兵隊さんたちが夢を求めているのに、きたならしいもんぺをはいて、化粧もしないで『別れのブルース』歌えますか。そういったら、「歌は歌、服装は服装じゃないか」っていうのね。服装が歌につながってるってことがわからないのよ。それでまた始末書。化粧しちゃいけない...

山口淑子さんの残した言葉【歌手】1920年2月12日~2014年9月7日

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「交流って、一方通行、押しつけじゃダメ。相手が魅力的に思うものを伝えていくことが大切。」 日本の歌手、女優、政治家である。戸籍名:大鷹淑子。 翊教女子中学卒。 さまざまな名前で活動し、戦前の中国と満州国・日本・戦後の香港で李 香蘭、第二次世界大戦後のアメリカ合衆国ではシャーリー・ヤマグチの名で映画、歌などに活躍した。日本の敗戦を上海で迎えた彼女は、中国人として祖国を裏切った漢奸の容疑で中華民國の軍事裁判に掛けられたものの、日本人であることが証明され、漢奸罪は適用されず、国外追放処分となり、日本に帰国した。

藤山一郎さんの残した言葉【歌手】1911年4月8日~1993年8月21日

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「歌は言葉に曲がついたもの。曲は言葉を犠牲にしてはならない」 日本の歌手・声楽家・作曲家・指揮者。本名、増永 丈夫。本名ではクラシック音楽の声楽家・バリトン歌手として活躍した。 東京府東京市日本橋区蛎殻町出身。東京音楽学校を首席で卒業。 東京音楽学校で培った正統な声楽技術・歌唱法・音楽理論と、ハイバリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。

アレサ・フランクリンさんの残した言葉【クイーン・オブ・ソウル】1942年3月25日~2018年8月16日

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「ゴツゴツとした険しい山の方が登りやすい。だって滑らかな山は捕まるところがないでしょ」 「ほとんどの人は私の音楽をソウルと呼ぶわね。それは、幼い頃から父(C・L・フランクリン)の教会でゴスペルを歌ったり、毎週日曜日に彼の説教を聞いていたりしたことが影響していると思う。父の説教を一度聞いただけで、彼が昔、ソウルマスターであったことが分かってしまうはず」 「若い頃、ミュージックビデオなんてものは存在しなかった。一夜にしてトップスター、なんてあり得ない時代。だからたくさん努力して、自分でスキルを磨くしかなかったの。喉のケアも、コンサートのペース配分も、試行錯誤しながらすべて自分でこなした。長い下積み期間を経験したわ」 「愛が冷めるのも、体重が減るのも同じ。(相手に対する愛情と自分の体重を)増やすのは簡単だけど、減らすのは難しい」 「私たちがホワイトハウスでケンカしたなんて嘘よ。すべて作り話。私たちはお互いのことが好きよ」 (犬猿の仲と呼ばれる歌手のパティ・ラベルについて) 「乙女座の女性がみんなそうであるように、彼女は努力家だと思うし、高く評価しているわ。ブーティリシャス(魅力的なお尻)万歳、ね。もちろん、私もそんなお尻が欲しいと思っているわ」 (ビヨンセについて) 「私の曲が女性のアンセムに選ばれることはないと思う。でも、女性たちが私の曲を聴いて同情の念を抱いたり、歌詞に共感してくれたりするのは嬉しい。私たちは、お互いの経験から学べることがたくさんある。だから私の音楽から刺激を受け、アイディアを得るのは、本当に素敵なことだわ」 「素晴らしい子どもたちに恵まれたと思う。どんなに落ち込んでいても、彼らを見れば元気が湧いてくる。でも一定の年齢に達すると、独立心が芽生えるの…… だから、子離れのタイミングも考えておかないといけないわね。なかなか難しいんだけど」 「私たちはみんな持っているのよ。たくさんの才能に恵まれているし、尊敬に値する。でも、女性、子ども、高齢者の三者は、私たちの社会ので最も尊敬されていないと思う」 「自分の体重を気にしていない人なんて、この世にいる? 体にコンプレックスがない人は、頭の大きさで悩んでいるはずよ」 「誰だって人から尊敬されたいものよ。3歳の子どもだって、それなりにリスペクトされたいし、認められたいと思っているわ」 「わ...

グレン・キャンベルさんの残した言葉【カントリー歌手】1936年4月22日~2017年8月8日

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「私はアーカンソーのなにもないところに住んでた小さな子供だった。ただ早いうちから、ラバのケツを眺めるだけの人生を送りたくはないと思っていた。音楽のおかげで、この素晴らしい人生に導かれたんだ」 「私が子供の頃は家に電気が通ってなかったんだ。親父はラジオをストーブの上に置いて、もう何日分か電池が持つように焼いたりしていた。それくらい本当に貧乏だった。私はカントリー・ウェスタンやシナトラやら、なんでも聴いた。ギターを手にすることは自然な成り行きだった。それしかなかった。牧場でやれることなんて他に大してなかったんだ」 「セッション・ミュージシャン時代は確かに金を稼ぐことができたけれども、もっとやらなければならない自身の歌に集中する時間は妨げられた。問題は当時まだ自分自身に自信が持てていなかったことだ。私がバックを務めたスター達は私の名前すら知らなかった。私は列の後ろでただギターをつま弾いている奴でしかなかったんだ」 「自分が物心ついた頃から覚えていることと言ったら、食べて、息をして、歌って、ギターを弾くことだけだ。1週間だけガソリン・スタンドで働いたけど、タイヤの交換で危うく手を失うところだった。私はギターが弾きたいから辞めたんだ。だって指が潰れたんじゃギターが弾けなくなっちまう」 「キムに出会ってから、世界が変わったよ。彼女は正直な人なんだ。私は不誠実だったことがあるから、言えた立場ではないけど。(彼女と出会う前に)座って神様に奥さんを送ってくれないかと祈ったんだ。どうもうまくいかなくてね。キムと結婚してから本当に幸せだよ」 「私はとても幸運だった。人生を通してずっと、いつもいるべき場所にいるべきタイミングでいたと思う。運命が私を正しい扉に導いてくれていたかのようにね。」 アメリカ合衆国のカントリー・ミュージック歌手、ギター奏者、テレビ司会者、俳優。1960年代および1970年代に多くのヒット曲を生み出し、CBSのバラエティ番組『The Glen Campbell Goodtime Hour』の司会で知られる。

川村カオリさんの残した言葉【歌手】1971年1月23日~2009年7月28日

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ママからのおねがい  夜更かしをしないでください ジャンクフードを好まないでください 乳製品をさけてください 体が冷えることは避けてください がまんをしないでください 強くあろうとしないでください いっぱい運動をしてください こうでなきゃだめというマイルールをつくらないでください まちがってもまっいっかと思ってください こんなひもあるかと鼻歌でもうたってください 理想など追い求めないでください ここじゃないと思ったら逃げてください あなたを大切にしない人と長くいないでください この世界は強くはできていないから この世界は思ったよりきれいじゃないから  (娘へ) 日本の歌手。本名及び旧芸名は川村 かおり。モスクワ生まれ。血液型はB型。父は歴史学者の川村秀、弟は俳優の川村忠。乳がんを患い、闘病しながら音楽活動を継続していたが、2009年7月28日に死去。