東海林太郎さんの残した最後の言葉【歌手】1898年12月11日~1972年10月4日

「眠いだけだよ」

(最後の言葉)


日本の歌手。ロイド眼鏡・燕尾服を着用し直立不動の姿勢で歌うという特徴があった。1965年、紫綬褒章受章。

声楽を下八川圭祐に師事し、音楽コンクールの声楽部門で「我恨まず」(シューマン)「仮面舞踏会」からのアリア「レナートの詠唱」を独唱し入賞した。

流行歌のレコードは、ニットーレコードでの「宇治茶摘唄」の吹込みが最初。大日本雄辯會講談社レコード部(現:キングレコード)専属になり1933年プロ歌手となった。「河原月夜」「山は夕焼け」などを吹込む。放送オペラにも出演。「椿姫」では医師の役を演じた。

日本ポリドール蓄音機株式会社(現:ユニバーサルミュージック)で吹込んだ「赤城の子守歌」が、1934年2月に新譜で発売され、空前のヒットとなった。その年には「国境の町」も大ヒットし、歌手としての地位を確立した。その後ポリドール専属となり、澄んだバリトンを活かして「むらさき小唄」「名月赤城山」「麦と兵隊」「旅笠道中」「すみだ川」「湖底の故郷」などのヒット歌謡で東海林太郎時代を到来させた。また、「谷間のともしび」など外国民謡においても豊かな歌唱力を示した。大戦中はテイチクへ移籍し、「あゝ草枕幾度ぞ」や「琵琶湖哀歌」、「戦友の遺骨を抱いて」などを吹き込んでいる。

戦後は、戦前のヒット曲が軍国主義に繋がるとして国粋的なヤクザものが禁止され、また進駐軍からも睨まれ、不遇の時代が続いた。

1946年、ポリドール復帰第一作が「さらば赤城よ」。1949年、キングレコードへ復帰。1953年、日本マーキュリーレコードへ移籍。その後、次第に地方公演で人気を回復し1957年、東京浅草国際劇場で「東海林太郎歌謡生活25周年記念公演」を開催。1963年に日本歌手協会初代会長に就任。空前のなつかしの歌声ブームのなか東海林太郎の人気が復活し、懐メロ番組に出演するなどして脚光を浴びた。

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