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勝谷誠彦さんの残した言葉【辛口コメンテーター】1960年12月6日~2018年11月28日

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「『イメチェン』は今回(兵庫県知事選)の戦略の最大の失敗。訳が分からないうちに髪を切られ、スーツを着させられ、写真も撮られて。結果、誰だか分からない。だけど陣営は大まじめにそうさせた。僕も選挙って全く知らない世界だからさ、そういうものなのかなと思うじゃない。でも大間違いだと思うよ。このままでさ、普通にやればよかったんだよ。」 「日本の政治を根底から狂わせているのは組織票だと思いますね。組合員であるとか、会社員であるということで投票行動を規定されるのはおかしい。まだ日本人はそんなものに縛られているのかなと、悲しくなるよね。もうちょっと、自由でいいんじゃないかな。」 「野党が駄目なのはつらい顔をしてつらさばかり訴えるところ。やらなきゃいけないことはたくさんある。それをどうやるかが大事で、つらいことでも明るく楽しくやればいいんですよ。」 「今後については、分からない。人生、その日の朝、起きた気分で決めているから。」 日本のコラムニスト。日本写真家協会会員。 大学受験では、現役時に神戸大学医学部、日本医科大学、東京慈恵会医科大学で不合格となった。翌年には東京大学文科Ⅲ類に不合格となるも、早稲田大学第一文学部に合格した。神戸大学医学部には計3度、東京大学文科3類に計2度不合格となった。慶応義塾大学法学部にも受かったが、勝手に早稲田への進学を決めてしまったため親に仕送りを打ち切られ、家庭教師や土方などのアルバイトで自活した。大学では、『早稲田おとめちっくクラブ』に所属、のちにそこから分立した『早稲田少女マンガ研究会』に所属した。早稲田の文芸専修に進んだのは小説家志望だったためで、平岡篤頼のゼミで小説を書き、2年生で専攻の機関紙『蒼生』に小説『栗の花』が、『早稲田文学』に小説『金魚』が掲載された。在学中より、三尋狂人(みひろ くると)のペンネームで主に風俗関連を専門とするフリーライターとして活動し、大企業の管理職レベルの収入を得ていた。編集プロダクション『ブレーメン・ファイブ』を設立した。

天野祐吉さんの残した言葉【コラムニスト】1933年4月27日~2013年10月20日

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「携帯電話は時間を超えた通路になる。」 「必要なのは、ぼくらに見えているはずなのに、ぼくらが見ていない大切な何かに、はっと気づかせてくれるような面白いアイデアであり表現である。」 「『まず、総理から前線へ。』もいいし、そのほうが多くの人に届きやすいとは思いますが、ぼくはどっちかと言うと、『とにかく死ぬのヤだもんね。』のほうが好きです。」 「自己実現という堅苦しい言葉で、高邁なことを考えることは無い。『自分流に楽しく遊ぶ』という考え方が必要なのではないか。自己実現をはかるというのは、好きに遊ぶということ。好きに遊ぶことが一番結果的に自己実現になる。」 「『笑い』を忘れちゃいけない。 こわばった常識や偽りの形式と戦うためにいちばん役立つのは『武器としての笑い』だ。」 「人間のオカシサを、自分のオカシサとして語れる人を、ユーモリストという。」 「広告は詐術です。嘘八百の世界です。 そんな嘘八百で人びとをだまくらかし、それで人びとからうらまれるどころか、“いやあ、面白かったよ”と感謝されるような、そんな能力の持ち主こそ広告の天才と言っていいでしょう。」 「優れたデザイナー達の仕事を見ていると、頭から血が出るんじゃないかと思うくらい考えて、最後は感覚にパーンと委ねる。トータルなプロセスではすごく考えているわけで、色々言葉で考えた果てに、その言語では表せないものをパッと出す。」 日本のコラムニスト。雑誌『広告批評』主宰者、マドラ出版社主。 出身地は東京市足立区(現東京都足立区)。松山一高併設中学(旧制松山中学、現・松山東高)、松山南高卒業、明治学院大学中退後、創元社、博報堂を経て独立し、雑誌「広告批評」を創刊する。広告に対する批評で知られる。 2002年11月から2007年3月まで、中学・高校時代を過ごした愛媛県松山市にある松山市立子規記念博物館館長を務め、2007年4月より名誉館長に就任している。 2000年、65歳のとき31歳下の天野伊佐子夫人と再婚する。朝日新聞の連載コラム「天野祐吉のCM天気図」はまず夫人に読ませ、反応を見ながらより分かりやすい文章に仕上げていた。 1984年の朝日新聞において後に「CM天気図」と改名となる「私のCMウォッチ」を開始。2013年10月16日まで1132回まで連載した。