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扇谷正造さんの残した言葉【週刊紙の鬼】1913年3月28日~1992年4月10日

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「名刺で仕事をするな。」 「四十にして初めて惑い、五十にして志を立て、六十にして事に励み、七十にして事をなしとげ、八十にして引退する。」 「ただ、言われた通り、何も考えずに行動するのは、『仕事をしている』ではなく、『仕事を流している』に過ぎない。」 「プロサラリーマンを生みだすものは衝動的な気まぐれではなくて、持続的な努力である。」 日本の評論家、編集者、ジャーナリスト。"週刊誌の鬼"の綽名で知られた。 1946年春、復員。1947年『週刊朝日』編集長に就任。1948年6月、太宰治の心中に際して山崎富栄の遺書を入手し太宰特集号を発行、この号はたちまち完売、同誌を十万部から百五十万部に伸ばした。1953年、菊池寛賞受賞。

加藤周一さんの残した言葉【評論家】1919年9月19日~2008年12月5日

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「目的は必ずしも手段を正当化しない。目的が手段として犯罪を要求するとき、その他の有効な手段を発見できなければ、目的そのものを再検討するほかに、抜本的な解決を見出すことはできない」 「文化は無からの創造ではなく、伝統からの創造である。過去を失うものは、未来をも失うだろう」 日本の評論家。医学博士。 上智大学教授、イェール大学講師、ブラウン大学講師、ベルリン自由大学およびミュンヘン大学客員教授、コレージュ・ド・フランス招聘教授、ブリティッシュコロンビア大学教授、立命館大学国際関係学部客員教授、立命館大学国際平和ミュージアム館長などを歴任。 哲学者の鶴見俊輔、作家の大江健三郎らと結成した「九条の会」の呼びかけ人。妻は評論家・翻訳家の矢島翠。岩村清一海軍中将は大叔父。 1980年に『日本文学史序説』上・下で大佛次郎賞、1993年に朝日賞、2000年にその長年の文化功労に対してフランス政府からレジオンドヌール勲章(オフィシエ賞)を授与される。

三宅久之さんの残した言葉【政治評論家】1930年1月10日~2012年11月15日

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「政治家がダメだって言うけども、選んだのはみなさんが選んだんですよ。政治家を見抜くのはなかなか難しいけども、やっぱり製造者責任っていうのもありますからね」 「私は政治家にむいてないと思っていた。電信柱にまで頭を下げるなど大衆迎合的になることには我慢ならない性質なので」 「子分になると、あなたに直言できなくなる」 (秘書官になることを誘われた際に) 「愛妻・納税・墓参り」 日本の政治評論家、コメンテーター。元毎日新聞記者。 座右の銘は「愛妻・納税・墓参り」。愛妻家であり、夫婦旅行のため番組を休むこともあった。平成期に渡部昇一などと1930年の昭和で最初の午年生まれの著名人の同級生会の昭和初午会を組織した。昭和一桁世代の三宅より1つ世代が上の大正世代の戦死した若い日本兵を尊敬している事から靖国神社によく参拝していた。2006年には金婚式を迎えた。 読売新聞グループ本社代表取締役会長の渡邉恒雄とは新聞記者時代からの友人だった。 何度か選挙出馬を持ちかけられたこともあったが、総て辞退している。出馬辞退については、晩年「私は政治家にむいてないと思っていた。電信柱にまで頭を下げるなど大衆迎合的になることには我慢ならない性質なので」と語っている。大臣の秘書官になることを誘われた時も、「子分になると、あなたに直言できなくなる」という理由から断っている。 威厳ある天皇像を望み、天皇が被災地で膝行したり、天皇が手を出す前に握手を求める者に天皇が応じることに否定的であり、そんな手は撥ね退けるべきと主張している。また、女性宮家の是非については、『たかじんのそこまで言って委員会のそこまで熱くなって委員会』や自身のFacebook等で一応賛成だが、女系天皇を認めることに対しては疑問を呈し、「伝統を失えば天皇制ではなくなり、男系を維持するべき」と云う考えを主張している。

徳大寺有恒さんの残した言葉【自動車評論家】1939年11月14日~2014年11月7日

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「イギリスのクルマは最高を求めない。『たかがクルマじゃないか』と思っているところがいい」 「キャディ(キャデラック)の味はキャディでなければ得られないのだ。その味をよしとすればメルツェデスにその代役はつとまらないのだ。今、外国車に乗るということはその味を買うことだろうと思う。機能を買うなら多くの国産車がそれを果たしてくれるし、経済的でもある。しかし味は買えない。」 「スズキというメーカーはおもしろい。まずカッコをつけない。これがいいと思う。そして、案外強固な自分の意思を持っていて、それを信じているように思える。こういうメーカーは案外少ない。」 「MR-Sのようなクルマの楽しさは、これに乗ってどこに行こうかといろいろ想像できるところだ。MR-Sはいま流行のミニヴァンが失ってしまった、クルマとして最も大事なものを持っている。」 「やっぱり、イタリア車には、ほかの国のクルマにはない人間的な魅力があるからじゃないかな。壊れないとかさ、そんなことばっかり大事にしていないで、気持よく走るとか、いい音を聞かせるとか、そういうクルマなんだよ。だから、人間がわざわざ乗る甲斐がある。」 「『これ1台あれば、オレは十分だ』と考える人たちが増えたからこそ、ユーノスは日本で月から3000台も売れる。この種のクルマをセカンドカーだと思わない人たちが増えてきたというのは日本のモータリゼーションの大きな変化を示している。」 「ジャグァーはもともと『貴族の出』ではない。ジェントリーが貴族に憧れて、貴族以上に貴族らしくふるまうのと同じように、高級車に憧れて、高級車以上に高級車たらんとしたのである。そうして生まれ育ってきたからこそ、ジャグァーが発するメッセージは『上品であれ、紳士たれ』なのだ。」 日本の自動車評論家。元・レーシングドライバー。本名 及び 旧ペンネームは、杉江 博愛。 自動車評論家という職業柄、膨大な台数の車を購入しては手放した。外国車を中心に常時5-6台を所有していた。小型スポーツ車から大型セダンまで旧い英国車が好みで、1990年代には旧車を中心にイギリス車、日本車、イタリア車、フランス車、アメリカ車など数台を所有した。 SUVではミドルサイズのダッジダコタを導入したり、またドイツ車はメルツェデスのSLなどを所有したりと嗜好の幅が広く、多くの読者を生んでいる。フラン

大内順子さんの残した言葉【ファッション評論家】1934年5月4日~2014年10月30日

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「先日友人と、『もし今死ぬとしたら、最後にどんな言葉を残したいか』という話題になりました。私は『いろいろありがとうございました』という言葉しか思いつかなかった。いつも、今が満足なんです」 ファッション評論家、ファッションジャーナリスト。豊橋市立豊城中学校、愛知県立豊橋東高等学校、青山学院大学文学部英米文学科卒業。161cm。本名、宮内順子。トレードマークはサングラスとボブヘア。 太平洋戦争(昭和16年12月8日)直前に母と姉と共に帰国。岡山や福岡など疎開先を転々とし、岡山で終戦と父親の帰国を迎えた。戦後、大地主だった大内家の地福岡県八女市に移り住む。小学校だけで6回も転校を重ねたが、中学の途中から高校卒業まで愛知県豊橋市に住む。父・義郎は愛知大学創設に関わる為に豊橋市に転居。家族も豊橋に住む。父は愛知大学教授になる。大学在学中に婦人画報などの雑誌やファッションショーのモデルとして活躍する。画家宮内裕が学生向けファッション誌のモデルを探していたことから知り合い、後に学生結婚する。大学の同級生に森村誠一。 また彼女のひときわ目立つ美貌と可憐で上品な顔立ちは、画家の中原淳一の描いた美少女のイメージそのままであり、中原お気に入りのモデルであった。彼の発行する雑誌それいゆのグラビアに何度も登場し、モデル引退後はそれいゆのファッションコラムの執筆の仕事の依頼を受けた。 卒業後はモデルから評論家に転身して雑誌、新聞、ラジオ、テレビなど幅広い分野で活動し、日本におけるファッションジャーナリストの草分け的存在となる。しかし、20代前半に交通事故で眼窩や頬骨に大怪我を負い右目の視力を失ってからは、人前に出る際は必ず顔の半分ほどもある大きなサングラスを着用するようになった。 世界各地でファッションコンクール審査委員を歴任し、パリ市、ミラノ市、NYファッショングループ、FEC等から多数の受賞歴がある。2001年に仏政府から芸術文化勲章オフィシエ章を受けた。

佐々淳行さんの残した言葉【初代内閣安全保障室長】1930年12月11日~2018年10月10日

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「尾張の戦国武将・佐々成政を祖とする佐々家の武士の血がそうさせたんでしょうな。主席領事にも言われましたよ。『いったい君になんの得があるんだ。君は見かけによらず要領が悪いんだね』と。自分でもわかっているんですよ。でも、肥後もっこす(正義感が強く頑固な熊本の県民性)というか、へそ曲がりの性分は簡単には『直りゃしねえや』と(笑)。」 「人を大切にすることの要諦は、当たり前のことですが、顔と名前を覚えることです。警視庁外事課第1係長に就任した時には、人事記録を取り寄せ、学生が英単語を覚えるように、105人いた部下全員の名前を配属から2日間で覚えました。『そこの若いの』と呼ぶのと、『山田』と呼ぶのとでは大違いですから。」 「人に投資する時にはお金の使い方も大事です。師である後藤田正晴さんは『佐々は自分のカネで奇麗に飲む』と評してくれました。組織のお金でおごっても駄目なのです。」 「2年前に腰を悪くしてね。それから杖をついているんだけど、不自由になると公共施設や道路の悪い点ばかり目につくんだよね。」 「私が仕事をする上で大切にしてきたのは、何と言っても人を大切にすることです。かなりの時間とお金を人に投資してきました。」 「人を大事にすれば、それは自分に戻って来る。」 「何人かは、わかってくれていました。いつかはみんなにも絶対わかってもらえるという自負があったからやってこれた。」 「泥水を飲まされ続けて、辞表も5回書いたけど、それでも辞めなかったのは、日本を守るというプライドでしょうね。」 日本の警察・防衛官僚。危機管理評論家。 戦国時代の武将・佐々成政、それより下って時代劇『水戸黄門』で知られる助さんのモデルとなった佐々宗淳の兄・佐々勝朗を祖先に持つ。 西南戦争で西郷軍に与し、後に済々黌を創設し、衆議院議員を務めた佐々友房は祖父。政治学者で参議院議員の佐々弘雄は父。朝日新聞記者・作家の佐々克明は兄。日本婦人有権者同盟代表で参議院議員の紀平悌子は姉。

長谷川慶太郎さんの残した言葉【大局を読む】1927年11月29日~2019年9月3日

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「デフレ下で税収を確保しようとすれば直接税を軽くして間接税を強化しなければならない。所得税や法人税を減税して消費税率を上げていくということである」 「デフレ下で直接税中心の税制のままでは国の税収も減ってしまうのだ。デフレ下で税収を確保しようとすれば直接税を軽くして間接税を強化しなければならない」 「つまり、基本的にEVの部品はエンジン車に比べて3分の1に減ってしまう。これはエンジンとトランスミッション関係の部品を提供する企業はEVから弾かれるということだ」 「エンジン車は約3万点の部品で構成されている。そのうち2万点はエンジンとトランスミッションに関係したものだからEVには不要になる」 「核兵器の削減にも費用がかかるが、実は核兵器を維持することのほうがむしろ巨額の費用が必要なのである」 「私は既成政治や利権構造にウンザリしているアメリカ国民がトランプ氏を新大統領に押し上げるのではないかと予想している」 「シェール革命が進行したのはここ5年間のことだが、日本で5年前には誰も知らなかったシェールを最初に取り上げたのが私である。今やそれは一大産業になった」 「ソ連はつぶれた。私はソ連崩壊の6年前に共産党政権がつぶれるといったが、そう断言できた最大の理由は何十年もモデルチェンジしない生産現場を、自分の目で見て知っていたからである」 「いくら聞こえの良い立派な表現の主張をしたとしても、国力がなければ単なる雑音だ。これは本当に過酷なものである」 「外交は力対力のせめぎ合いである。力がなければ何をいっても通らない」 「言論の自由のない中国で画期的な新技術が生まれるはずがない」 「エコノミストは『軍事』という観点をしっかりと押さえていなければいけないのだが、それができている人が日本にはほとんどいない」 「軍事力は国政政治の要であるが、日本人は、この視点がまったく欠如している」 日本の経済評論家。主な評論の対象は時事の経済評論の他、国内政治評論、国際政治、国際経済、軍事関係等である。国際経済・政治評論に製鉄・金属加工の切り口からの分析を加えている。日本個人投資家協会理事長。

北島秀一さんの残した遺言【ラーメン評論家】1963年1月1日~2014年9月1日

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「これで僕が死んだら、北島はラーメンのせいで死んだと言われてしまうだろうけれど、僕の病気とラーメンはまったく関係無いということを、僕が死んだ後に必ず伝えて欲しい。」 (遺言) 日本のフードライター、ラーメン評論家。元新横浜ラーメン博物館広報担当。 広島県広島市出身。広陵高等学校卒。進学のため上京、大学の通学路にあった熊本ラーメン桂花に魅せられる。大学卒業後、大手電機メーカーに就職、出張先でラーメンを食べまくる。新横浜ラーメン博物館のサイト「ラーメンネット」の参加が同博物館のスタッフの目に留まり、1997年、テレビ東京『TVチャンピオン』第4回ラーメン王選手権に出場。決勝戦で石神秀幸との激戦の末惜敗、準優勝。これを機にこの後、同番組の問題作成委員会に加わり、また週刊現代など多くの雑誌にラーメン評論を掲載、ラーメンジャーナリストの草分けとなった。同年12月から自身のラーメン食べ歩記サイト「電脳麺記」を開始。1999年同博物館に転職、広報などを担当していたが白血病を患い2003年退職した。 その後はフリーのラーメンジャーナリストとして、雑誌への寄稿やテレビ出演などで活動した。その他、川崎駅前のラーメン横断組織「川崎麺店会」の発起人になるなどの活動も行った。2004年6月には、日本国内の全ての都道府県のラーメン食べ歩きを達成した。また、日本ラーメン協会の設立メンバーの一人で、顧問を務めていた。

枝川公一さんの残した言葉【評論家】1940年11月12日~2014年8月15日

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「文は人を切る。」 日本の評論家、ノンフィクション作家、翻訳家。 東京向島生まれ。東京外国語大学卒業。出版社(光文社)勤務を経てライターとして独立し、下町や酒場などを歩いて探訪するノンフィクション作品、アメリカやアジアの文化と社会のルポなどを発表した。

阿部進さんの残した言葉【カバゴン】1930年6月11日~2017年8月10日

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「子供と話すと、言葉遣いや流行など今の環境がリアルに分かり、それをヒントに次の授業に生かしていく。教育は生ものだから、立ち止まってちゃいけないんですよ。」 「僕の授業は、学校の先を行くんじゃなく、苦手な部分を補ってる。例えば国語は漢字の読みがメーン。小学校で習う約1000字を、自然、植物、道具というふうに分類し、右に音読み、左は訓読みを記したオリジナルドリルを作り、スラスラ読めるようにする。読解力が増すと、新聞や書籍も読むようになり自然と国語力がアップするんです。」 教育評論家。「カバゴン」の愛称で広く親しまれ、「現代っ子」の造語でも知られる。 「カバゴン」を自称し、高度経済成長期から亡くなるまで精力的に教育活動を行っていた。現在でも使われる「現代っ子」は、1962年の阿部の造語。 「カバゴン」は、『日清ちびっこのどじまん』に出演した際に、番組での視聴者からの公募の結果選ばれたものである。投票結果の1位は「ブタゴン」だったが、ブタはエースコックを連想させるため、同番組のスポンサーである日清食品に配慮し、2位だった「カバゴン」に決定した。 また番組内では、「怪獣カバゴン」という持ち歌があった。

犬養道子さんの残した言葉【評論家】1921年4月20日~2017年7月24日

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「止まるところを知らぬ、ダイナミズム・ムーブメントが人間であり、人の生である。」 「真の幸福とは、『ものごとすべてうまく行く』ことではなくて、包囲され閉鎖された心をまず、自由に向かって、開放する努力ー不断の努力ーと創造力に基礎を置く。言いかえれば、『新陳代謝』。」 「愛とは、独白によって自分自身の中に向けて屈折してゆく閉鎖とは正反対のものなのだ。それは、かかわりあいの相手を持つ。相手に向けて、おのれのすべてを発し与える。相手のすべてを受けて答える。これがヨハネのみならず、聖書伝統一切の言う愛なのである。」 日本の評論家。首相を務めた犬養毅の孫。カトリック信徒。 現在の東京都新宿区四谷に犬養健・仲子夫妻の長女として生まれた。父・健は犬養毅の嗣子で親子2代の政治家であり、母方の曾祖父が長与専斎と後藤象二郎である。母方の祖父は男爵長与称吉。また異母妹にエッセイストの安藤和津、従姉の娘に緒方貞子がいる。

水野晴郎さんの残した言葉【映画評論家】1931年7月19日~2008年6月10日

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映画って・・・三段活用 「いやぁー、映画って本当に素晴らしいものですね」(最高) 「いやぁー、映画って本当に良いものですね」(面白い) 「いやぁー、映画って本当に面白いものですね」(イマイチ) 日本の映画評論家、映画監督、タレント。倉敷芸術科学大学教授、大阪芸術大学客員教授。 映画監督としてはMIKE MIZNOの名義を使っていた。

宇野功芳さんの残した言葉【音楽評論家】1930年5月9日~2016年6月10日

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「知識や情報がありすぎると、それにしばられ、作曲家が暗号に託した想いを感じられなくなってしまう。」 日本の音楽評論家、指揮者。東京都生まれ。国立音楽大学声楽科卒。 父は漫談家の牧野周一、二弟の宇野弘二は牧原弘二の芸名でジャズシンガーとして活動、三弟の宇野道義は帝京大学助教授を務めた。 なお功芳は筆名であり、本名は宇野功である。

吉沢久子さんの残した言葉【評論家】1918年1月21日~2019年3月21日

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「生活を投げやりにするのは生きることへの怠慢。丁寧に大切に毎日の暮らしを積み重ねるのが自分に対する責任。」 「数え上げていくと、毎日がもったいないほど、私に色々なものを与えてくれる。」 「当たり前の生活ができること、当たり前に自分でご飯を作り、自分で部屋の片づけをし、自分で庭の花に水をやる。そんな当たり前のことができる幸せ。ごく普通の生活の幸せこそ大事にしたい。」 「生活するということは、自分の頭で考えるということ。食事をつくるのも、掃除をするのも、庭で花や野菜を育てるのも、すべて自分で考えるからこそ喜びが生まれてくる。」 「生きることに怠惰になってはいけません。せっかく与えられた『生』というものを、もっと大切にすること。」 日本の評論家・随筆家。東京都江東区深川出身。文化学院文科卒。

谷沢永一さんの残した言葉【 文芸評論家】1929年6月27日~2011年3月8日

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「自制心が強いかどうかが、人間評価の最後の最後を決める。」 「僕の持論ですが、人間は狂う動物なんです。集団が戦争していれば個人はまともですが、集団がまともになると個人が狂うんです。」 「恥じることはない。嫉妬は人間の本性なのだ。その中にあって、湧き上がる嫉妬心を少しばかり抑えることができたら、その人物は人間として実に素晴らしい、存在となるであろう。自分の内なる嫉妬心の水位を、少しばかり下げればよいのである。そういう人物のまわりに、おのずから人が集まってくるであろう。」 日本の文芸評論家、書誌学者。関西大学名誉教授。専門は日本文学。

中山康樹さんの残した言葉【音楽評論家】1952年5月8日~2015年1月28日

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「マイルスを聴け!」 日本の音楽評論家。

西部邁さんの残した言葉【評論家】1939年3月15日~2018年1月21日

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「サーカスで使われるような、平衡を保つための棒を持たなければ人生は危なくて渡れるものではない。常識というのは、まさに この一本の棒だと思う。」 「人間は、自分の精神を健全に発達させるためには、自分の厄介な獣性や狂気にたいして原罪めいた意識をもっていた方がよい。それが精神活動の根本条件だといわぬまでも、自分自身を一個のプロブレム(問題)ととらえて 自己に懐疑を差し向けることは、精神にたいする調味料であり防腐剤である。人間が一切の苦痛から解放されて快感に打ち震えつづければ、そのとき精神の発達は停止するであろう。」 「現場の経験を共有しなければ通じないというのであれば、そもそも言葉というものが空しくなる。追体験・想像体験も含めながら、言葉を何とか動員してフィクションとしての共有体験を創りだす、それが言語活動の目的であろう。」 日本の保守派の評論家。雑誌『表現者』顧問、元東京大学教養学部教授。

森本哲郎さんの残した言葉【評論家】 1925年10月13日~2014年1月5日

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「風はいつも、遠い日の記憶につながっている。」 日本の評論家。