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坂村真民さんの残した言葉【癒しの詩人】1909年1月6日~2006年12月11日

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「よい本を読め よい本によって己れを作れ 心に美しい火を燃やし 人生は尊かったと叫ばしめよ。」 「長く生きていることは無駄ではなかったとしみじみ思う年になった 見えなかったものや聞こえなかったものが 見えだし聞こえだしたのもありがたい喜びの一つだが 一番大きな喜びは色々の悲しみを知ったことだった。」 「いのちいっぱい生きるのだ 念じ念じて生きるのだ 一度しかない人生を 何か世のため人のため 自分にできることをして この身を捧げ生きるのだ。」 「冬がきたら うすら陽ざしのなかに咲く冬花のつつましさをじっと見つめてゆこう 冬花の持つ香気と清純さとをわが体のなかに浸透させよう。」 「生きているものはみな美しい 妙な顔をした虎魚(おこぜ)でも実に愛嬌(あいきょう)がある 一体この美しさはどこからくるのだろう やはり懸命に生きるという命から発する美しさだ それにくらべてこの美しさを持たない人間が急に増えてきた。」 「決して妥協するな 妥協したらもうおしまい 一番恐ろしいのは 自己との妥協だ つねに鞭うち つねに叱し つねに前進せよ。」 「つきつめてものを思えばみなかなし されどこのかなしさのなかにこそ花も咲くなれ 匂うなれ 人の心も通うなれ。」 「あとから来る者のために 田畑を耕し 種を用意しておくのだ 山を 川を 海を きれいにしておくのだ ああ あとから来る者のために苦労をし我慢をし みなそれぞれの力を傾けるのだ あとからあとから続いてくるあの可愛い者たちのために みなそれぞれ自分にできるなにかをしてゆくのだ。」 「美しい花より よい香りを持つ花がいい 美しい人より よい性質の人がいい。」 「日々の生活を人間らしく生きてゆくのも立派な修行である。そしてそれらはすべて喜びを持って行ってゆかねばならない。喜びなくして行うものは、どんな難行を果しても、よい実を結ぶことはできない。」 「万巻の書を読んでもその姿勢が正しくなかったら何の価値もない 大切なのは人間を見る眼の人間に対する姿勢の 正しさにある 真実さにある 純粋さにある。」 「大切なのは、かつてでもなく、これからでもない。ひと呼吸ひと呼吸の今である。」 「順調に行く者が必ずしも幸せではないのだ 悲しむな タンポポを見よ 踏まれても平気で花を咲か

サム・クックさんの残した最後の言葉【ソウルシンガー】1931年1月22日~1964年12月11日

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「Lady You Shot Me!」 (あんた、俺を撃ったな!) (最後の言葉) アメリカのソウル歌手、ゴスペル歌手、ミュージシャン。 ミシシッピ州クラークスデイル生まれ。後に家族とともにシカゴに移住。父親は牧師であり、幼い頃から聖歌隊で歌う。19歳のときにゴスペル・グループのソウル・スターラーズのリードボーカルとなり、端正なルックスでゴスペル界ではアイドル的人気を博した。1957年にソロ歌手としてR&Bに転向し、「ユー・センド・ミー」がヒット。これをきっかけにR&B界で数々のヒットを飛ばし、発展目覚ましかったソウル/R&B界のスターとなる。それまでの黒人歌手のスタイルとは一線を画した洗練された音楽性で、声の良さと歌唱力もさることながら、「クック調」と呼ばれる鼻にかかった歌い方は白人にも高く評価され、後世に大きな影響を与えた。 1958年には、マネージャーのJ.W.アレクサンダーと共に音楽出版社を設立。後にはSARレコードを設立する。R&Bが流行した当時、黒人のアーティストは曲を作っても満足な対価を得られず、白人の会社に「搾取」されるのが通例だった中にあって、自らの著作権を管理するのは画期的なことであった。 1959年にキーン・レコードを離れる。1960年にRCAビクターと契約するも、キーン・レコード時代に録音し未発表だった「ワンダフル・ワールド」が同レーペルから発売されヒット。 クックの曲は、『ビルボード』のR&Bチャートだけでなくポップ・チャートでも上位に入った。1960年代には「チェイン・ギャング」(2位)、「ツイストで踊りあかそう」(9位)、「こんどの土曜に恋人を」(10位)、「シェイク」(7位)を全米トップ10に送り込んでいる。 黒人の権利に対する意識が高く、公民権運動にも積極的な関わりを持ち、マルコムXやモハメド・アリとも親交を深める。1964年の「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」は、ボブ・ディランの「風に吹かれて」に影響を受けて生まれた、人種平等社会が訪れることへの期待を込めたメッセージソングであった。 1964年12月11日、クックはロサンゼルスのハリウッドにある酒場で知り合った女性を「別の店へ行こう」と誘い出し、そのままイタリア製の高級スポーツカーでサウスセントラル地区にあるモーテ

サム・クックさんの残した言葉【ソウルシンガー】1931年1月22日~1964年12月11日

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「素晴らしくいい感じだ 素晴らしくいい感じだ 何も難しいことはない ただ感じるんだ 慌てないで 慌てないで 皆はパーティーを続けてくれ 僕は行かなきゃならない 家に帰ってもパーティーを続けてくれ どこに居てもパーティーを続けることを忘れないで 愛する人と一緒にいる時もパーティーを続けるんだ、分かったかい? ラジオを聴けば一人でも気分がいいし 車に乗ってるときもラジオつけてパーティーを続けよう ああ もう 行かなきゃ・・・・・・」 (遺言的なメッセージ) アメリカのソウル歌手、ゴスペル歌手、ミュージシャン。 ミシシッピ州クラークスデイル生まれ。後に家族とともにシカゴに移住。父親は牧師であり、幼い頃から聖歌隊で歌う。19歳のときにゴスペル・グループのソウル・スターラーズのリードボーカルとなり、端正なルックスでゴスペル界ではアイドル的人気を博した。1957年にソロ歌手としてR&Bに転向し、「ユー・センド・ミー」がヒット。これをきっかけにR&B界で数々のヒットを飛ばし、発展目覚ましかったソウル/R&B界のスターとなる。それまでの黒人歌手のスタイルとは一線を画した洗練された音楽性で、声の良さと歌唱力もさることながら、「クック調」と呼ばれる鼻にかかった歌い方は白人にも高く評価され、後世に大きな影響を与えた。 1958年には、マネージャーのJ.W.アレクサンダーと共に音楽出版社を設立。後にはSARレコードを設立する。R&Bが流行した当時、黒人のアーティストは曲を作っても満足な対価を得られず、白人の会社に「搾取」されるのが通例だった中にあって、自らの著作権を管理するのは画期的なことであった。 1959年にキーン・レコードを離れる。1960年にRCAビクターと契約するも、キーン・レコード時代に録音し未発表だった「ワンダフル・ワールド」が同レーペルから発売されヒット。 クックの曲は、『ビルボード』のR&Bチャートだけでなくポップ・チャートでも上位に入った。1960年代には「チェイン・ギャング」(2位)、「ツイストで踊りあかそう」(9位)、「こんどの土曜に恋人を」(10位)、「シェイク」(7位)を全米トップ10に送り込んでいる。 黒人の権利に対する意識が高く、公民権運動にも積極的な関わりを持ち、マルコムXやモハメド

三輪壽雪さんの残した言葉【陶芸家・人間国宝】1910年2月4日~2012年12月11日

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「若い連中がまねしてやろうという根性になってはだめ。自分の仕事の力になるように受け止めないと」 日本の陶芸家。第11代三輪休雪。1983年に人間国宝に認定された。本名は節夫。 山口県萩市出身。代々萩焼を家業とし、旧萩藩御用窯であった三輪窯の九代休雪・三輪雪堂の三男として誕生する。 1927年旧制萩中学校卒業後、兄である十代休雪を助けながら伝統技法を学んだ。1941年に三重県津市に工房を構えていた川喜田半泥子に師事し、茶陶の制作技法を身につける。独立までの約30年間ひたすら修練に打ち込み、召集令が出された1944年以外は作陶の手を休める事はなかった。 1955年に雅号を「休」と称し作家活動を開始。1957年日本伝統工芸展に初出品した「組皿」が入選し、1960年には日本工芸会正会員になるなど、十代休雪と並び高い評価を受けた。萩焼の伝統を受け継ぎながらも独特な感覚による作陶を為し、因習的な茶陶の作風に新たな展開を示した。長石を原料とした釉薬を用いる伝統的な萩焼に加え、休雪が大成した純白の藁灰釉による「休雪白」の作品を発表しているが、特に後者は豪快かつ大胆な意匠と融合し大きな特色となっている。 1967年、兄の休雪の隠居後、三輪窯を受け継ぎ第11代休雪を襲名。 1976年紫綬褒章、1982年には勲四等瑞宝章を受章、1983年4月13日に重要無形文化財「萩焼」保持者に認定された。兄弟での人間国宝認定は陶芸界で前例の無い快挙であった。 その後も作陶への探究を続け、粗めの小石を混ぜた土を原料とした古くからの技法である「鬼萩」を自らの技法へと昇華させた。2003年に長男龍作へ休雪を譲り、自らは壽雪と号を改めた。土練機を用いず土踏みでの粘土作りを続けるなど、全ての作陶過程を自らの手で行う事にこだわりを持ち、晩年まで活動を続けた。2012年12月11日、老衰のため死去。102歳没。叙従五位。

故人が残した名言集【12月11日】

三輪壽雪さんの残した言葉【陶芸家・人間国宝】1910年2月4日~2012年12月11日 「若い連中がまねしてやろうという根性になってはだめ。自分の仕事の力になるように受け止めないと」 日本の陶芸家。第11代三輪休雪。1983年に人間国宝に認定された。本名は節夫。 山口県萩市出身。代々萩焼を家業とし、旧萩藩御用窯であった三輪窯の九代休雪・三輪雪堂の三男として誕生する。 兄弟での人間国宝認定は陶芸界で前例の無い快挙であった。 サム・クックさんの残した言葉【ソウルシンガー】1931年1月22日~1964年12月11日 「素晴らしくいい感じだ 素晴らしくいい感じだ 何も難しいことはない ただ感じるんだ 慌てないで 慌てないで 皆はパーティーを続けてくれ 僕は行かなきゃならない 家に帰ってもパーティーを続けてくれ どこに居てもパーティーを続けることを忘れないで 愛する人と一緒にいる時もパーティーを続けるんだ、分かったかい? ラジオを聴けば一人でも気分がいいし 車に乗ってるときもラジオつけてパーティーを続けよう ああ もう 行かなきゃ・・・・・・」 (遺言的なメッセージ) 「Lady You Shot Me!」 (あんた、俺を撃ったな!) (最後の言葉) アメリカのソウル歌手、ゴスペル歌手、ミュージシャン。 ミシシッピ州クラークスデイル生まれ。 後に家族とともにシカゴに移住。父親は牧師であり、幼い頃から聖歌隊で歌う。 19歳のときにゴスペル・グループのソウル・スターラーズのリードボーカルとなり、端正なルックスでゴスペル界ではアイドル的人気を博した。 1957年にソロ歌手としてR&Bに転向し、「ユー・センド・ミー」がヒット。 これをきっかけにR&B界で数々のヒットを飛ばし、発展目覚ましかったソウル/R&B界のスターとなる。 それまでの黒人歌手のスタイルとは一線を画した洗練された音楽性で、声の良さと歌唱力もさることながら、「クック調」と呼ばれる鼻にかかった歌い方は白人にも高く評価され、後世に大きな影響を与えた。