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久米一正さんの残した言葉【Jリーグ初代事務局長】1955年7月26日~2018年11月23日

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「交渉に必要な資料を整えて、分かりやすく説明しているだけ。でも、資料なんてどれも大して変わらない。同じ資料であっても、どのように話すかで、結果が違ってきます。」 「まずは、相手の懐に飛び込んでいく。初対面は重要です。『今日来た奴は久米というのか。面白い男だな』というインパクトを残し、『また会って、話を聞いてみるか』と思ってもらう。まずは久米とはどんな人間か、そこを知ってもらって、次のステップへ進みます。」 「大事なのは、プライドを捨てて、相手に順応すること。そうしてこそ、信頼関係が生まれます。『プライドを捨てる』と言うとネガティブに捉える人がいるかもしれませんが、プライドが柔軟性や可能性を奪うことは意外と多いんです。それは交渉の席だけに限りません。」 「上司などに自分の考えが否定された時でも、『なるほどな』と相手の意見を吸収し、新たな力にできる人は、伸びます。自分らしさやプライドにしがみつくことで、学びの機会を失うのは、非常にもったいない。」 「自分の意見だけを述べてもダメなんです。相手の気持ちを想像し、彼らの意見を引き出す場面を作ることも大切です。『こういう場合はどうなんですか?』と言わせ、『その時は……』とすかさず対応策を提案する。すると、相手は『そこまで考えていてくれたのか』と、こちらの本気度を認識してくれる。そうやって信頼は深まっていく。」 「資料作りで手を抜くと、すべてが台無しになります。交渉の現場に出てくる相手は当然、交渉することに慣れている。片手間で作った資料は、一目で見抜かれてしまいます。だから、『どうすれば交渉をうまく運べるか?』を日々考え続け、そのためにはどんな提案の仕方がいいのか、徹底的に考えを巡らせます。」 「資料に書いてあることはすべて頭に入れておく。実際の交渉時には資料を一切見ず、相手の目を見て話す。たとえ相手がこちらを見ていなくとも。向こうがいつこちらを見ても、私は相手を見ているという姿勢で臨む。そこまでしなければ、熱意は伝わらない。」 「丁寧な資料に沿って、キチンと説明を受けたとしても、熱意のないもので人は動きません。『この交渉を何としてもまとめたい』という意欲を伝えることが、交渉の重要なカギなんです。」 「交渉していた選手が他のクラブへ加入したこともあります。でも、だからといって、失敗だとは思わない。全力で取り組んだ

デットマール・クラマーさんの残した言葉【日本サッカーの父】1925年4月4日~2015年9月17日

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「私はサッカーを好きではない、心から愛している。」 「サッカー、それは本当に素晴らしい競技だ。なぜなら、子供を大人に、大人を紳士に育て上げる競技だから。」 「サッカーは理論ではなく、試合を通して学べるもの。」 「グラウンドはサッカーだけをやるところではない。人間としての修練の場である。」 「勝った時に友人は集まる。しかし本当に友人を必要とするのは負けた時である。」 「タイムアップの笛は、次の試合へのキックオフの笛だ。」 「よい準備がなければ、よい試合はできない。」 「経験を積んだプレーヤーは、スキルを、どこで、いつ生かすかを心得ている。いまドリブルするのか、パスするのかの判断もできる。」 「二人の間で話し合うこと。そして、互いの仕事のやり方を理解すること。それと反復練習をしなければならない。そうすれば、うまくいくものだ。」 「才能ある者がトレーニングをし、自分のプレーをオートマティックにできるようにしていくことが大切だ。」 「スキルは大切に違いない。多分、サッカーでは最も重要なものの一つだろう。しかし、あまりにもスキルにこだわると現実的でなくなる。サッカーで現実的というのは得点をすること(失点を防ぐこと)。そこを考えなくてはならない。」 「システムというのはスーツみたいなものだ。私に合うスーツでも、別の人には合わないことがある。テーラーが、その人に合わせてスーツを仕立てるように、選手たちに合わせてシステムを考えるのが当然だろう。」 「ガールハントをし酒を飲み煙草も吸いながら一流のプレーヤーになろうと思ってもそれは不可能だ。サッカーは心の教育の場である。」 「君は今たいへんなことをやろうとしている。たいへんなことだからすばらしいのだ。すばらしいことをする人間がくじけてはいけない。」 「背を向けて去るな。みんな必要な人間なのだ。」 「コックが多すぎるとスープがまずくなる。」 「おのれの役割をまっとうした人間ほど美しいものはない。」 ドイツのドルトムント出身のサッカー選手、サッカー指導者。デトマール・クラマーと表記されることもあった。 クラマーは日本サッカー界初の外国人コーチであり、サッカー日本代表の基礎を作り日本サッカーリーグの創設にも尽力したことから「日本サッカーの父」と称された。

松澤隆司さんの残した言葉【鹿実の名将】1940年10月19日~2017年8月11日

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「いつも子ども達といるんで、まだ18歳のつもりです。」 「突出した選手はいないが、鹿児島の子どもたちには『ハート』がある。」 鹿児島県鹿児島市出身のサッカー指導者。鹿児島実業高等学校サッカー部総監督。鹿児島県サッカー協会副理事長、九州サッカー協会常任理事、全日本ユース選手権大会実施委員。 市立甲南中学校時代にサッカーを始める。鹿児島市立鹿児島商業高等学校2年次の1958年に高校選手権に出場したが、2回戦で静岡県立藤枝東高等学校に敗れた。卒業後は一般企業に就職するが、知人の勧めもあり無線通信士を目指す様になった。上級資格試験まであと一歩の時に、鹿児島実業高校の教員に採用。当初は国家試験までの半年間の約束であったが、サッカー部の顧問も同時に引き受け、九州大会予選で優勝したことから本格的にサッカー指導者の道へ進む事になった。

松田直樹さんの残した言葉【サッカー選手】1977年3月14日~2011年8月4日

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「マジで、もっとサッカーやりたいです。」 「俺は負けるのが許せないし、だからこそプロの世界で生きてこられた。」 「本当は冷静なのに相手との駆け引きで熱く見せたりすることもある」 「イエローカードも一つの勲章だと思っていた。」 「あいつらはプロじゃない。必死に戦ってくれているサポーターの気持ちが分からないのかな」 「やるよ、やっちゃうよ」 群馬県桐生市出身のサッカー選手。元日本代表。ポジションはディフェンダー。 2002 FIFAワールドカップに出場。 日韓W杯と前後して試合中に松田がつけていたヘアバンドが世間で流行する現象が起きた。当時はヘアゴムを大きな輪にしてはめていただけであったが、その後アディダスにより製作されており、背番号3と共に松田を象徴する代名詞と言われた。写真集の初版限定盤にはヘアバンドがつき、死去後設立した一般財団法人松田直樹メモリアルでは、3の入った黒のヘアバンドが販売されている。

松田直樹さんの残した最後の言葉【サッカー選手】1977年3月14日~2011年8月4日

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「やばい、やばい」 (と言いながら横になって倒れた。) 「あー!だりぃー!」 (と言葉を発して仰向けにこん倒。) (最後の言葉) 群馬県桐生市出身のサッカー選手。元日本代表。ポジションはディフェンダー。 2002 FIFAワールドカップに出場。 日韓W杯と前後して試合中に松田がつけていたヘアバンドが世間で流行する現象が起きた。当時はヘアゴムを大きな輪にしてはめていただけであったが、その後アディダスにより製作されており、背番号3と共に松田を象徴する代名詞と言われた。写真集の初版限定盤にはヘアバンドがつき、死去後設立した一般財団法人松田直樹メモリアルでは、3の入った黒のヘアバンドが販売されている。

ヴヤディン・ボシュコヴさんの残した言葉【忘れられた天才】1931年5月16日~2014年4月27日

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「全ての試合は0-0から始まる。」 「ペナルティは、主審が笛を吹いた時にのみ起こる」 「se vinciamo siamo vincitori se perdiamo siamo perditori」 (勝てば勝者、負ければ敗者だ) 「loro sono loro, noi siamo noi」 (相手は相手、自分たちは自分たちだ) セルビア出身のサッカー選手、サッカー指導者。

石井義信さんの残した言葉【サッカー指導者】1939年3月13日~2018年4月26日

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「人生でありふるさと ベルマーレ!」 (「石井さんにとってベルマーレとは?」という質問に) 広島県福山市出身の 元日本代表サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはミッドフィールダー。 元フジタ工業監督、元日本代表監督。2001年よりFC東京アドバイザー。

アンリ・ミシェルさんの残した言葉【フランスの名将】1947年10月28日~2018年4月24日

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「このチームは病気だ。フィジカル、技術、戦術、そして気持ち、集中力。すべて悪い。医師が必要だ。」 フランス・ブーシュ=デュ=ローヌ県エクス=アン=プロヴァンス出身のサッカー選手、サッカー指導者。大会ごとに異なる代表チームを率いて、監督として4回のFIFAワールドカップに出場した。

チェザーレ・マルディーニさんの残した言葉【サッカー指導者】1932年2月5日~2016年4月3日

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「アッズーリが必要とするのは『労働者』であって、ファンタジスタではない。」 「サッカーに古いも新しいもない。あるのは、良いサッカーと悪いサッカーだけだ。」 イタリア・トリエステ出身の元同国代表サッカー選手、監督。元イタリア代表のパオロ・マルディーニは息子である。

ヨハン・クライフさんの残した言葉【サッカー選手】1947年4月25日~2016年3月24日

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「すべての短所に長所がある。」 「才能ある若手にこそ、挫折を経験させなければならない。挫折はその選手を成長させる、最大の良薬だからである。」 「ボールなしでもゲームを支配することは可能だし、ボールありでも可能だ。」 「10年前ほど私は速くないかもしれない。けど今はもっとよく見えるようになったし、若くて速かった頃のようにエネルギーを消費しないんだ。」 「大量にリードしているときはわざとシュートをバーに当てる。そのほうが盛り上がるからね。」 「フットボールはとてもシンプルなものである。しかし、最も難しいのはシンプルにプレーすることである。」 「良い監督は、あるプレーヤーの短所を、別のプレーヤーの長所でカモフラージュする。」 「本当に素晴らしいフットボールは、国境を超え、自分の属する国籍までも忘れさせ、人々を熱狂させることだ。」 「近年、試合中に最も多くの距離を走った攻撃陣の選手が賞賛される傾向にあるが、私のサッカー観とは相反している。中略、攻撃陣の選手が走り回り、体力を消耗することは重要な局面での瞬間的なひらめきや、判断力がにぶり、チームに悪影響をおよぼすことに繋がる。」 「サッカーでは100mより30mから40mをはやく走ることが重要。だがもっと重要なのは”いつ”走るかだ。」 「ボールを持てば私が主役だ。決定するのは私で、だから創造するのは私だ。」 「私が現役の頃は、サッカーが楽しくて仕方がなかったが、時代が変わったのだろうか?顔を引きつらせ、拳を握りしめながらプレーする選手は、プレーを楽しんではいないし、サッカー選手というよりも陸上選手である。私は理想主義者だから、サッカー選手を求める。」 「フットボールの試合は、まず観客を 楽しませなければならない。」 「プレーがうまく行くか行かないかは、だいたい5m以内で決まるんだ。」 「私はフットボールを始めて以来、多くの選手を見てきたが、みんな私より下手だった。」 「守り切って勝つより、攻め切って負ける方が良い。」 「現代のサッカーは楽しさが欠けている。子供の頃から走ること、戦うこと、結果を求めることばかりを追求し、基本的な技術すら身につけないことは馬鹿げている。」 「いくら技術に優れたスーパースターでも、その上には、

岡野俊一郎さんの残した言葉【サッカー指導者】1931年8月28日~2017年2月2日

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「チームの中で自分の役割を果たすには、チームの一員としてチームにプラスになる自分の長所を伸ばし、マイナスになる短所を消していく毎日の努力を怠ってはいけない。」 東京都出身のサッカー選手・サッカー指導者。第9代日本サッカー協会会長、企業経営者。学校法人日本体育大学顧問。 東京・上野の和菓子店「岡埜栄泉」代表取締役。

ルイス・アラゴネスさんの残した言葉【サッカー指導者】1938年7月28日~2014年2月1日

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「You don’t play finals, you win them.」 (ただ決勝戦に出場するんじゃない、決勝戦で勝つんだ) 「The ball is musical and you have to know how to play it properly.」 (ボールは楽器であり、正しく弾く方法を知らなければならない。) 「Winning and winning and winning, winning again, and winning and winning and winning… That’s football.」 (勝って、勝って、勝って。再び勝って、さらに勝って勝って…。それがサッカーだ。) スペインのマドリード出身の元サッカー選手、サッカー指導者。主にリーガ・エスパニョーラのアトレティコ・マドリードの選手・指導者として活躍した。

ウド・ラテックさんの残した言葉【サッカー指導者】1935年1月16日~2015年2月1日

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「もう21世紀を迎えた。今日のサッカー業界はもう自分には合わない」 「サッカーの事を全く知らない会長に振り回されるのはもう充分。多くのタイトルを獲得したし、監督業はもう引退する」 東プロイセンゼンスブルク出身のサッカー選手、サッカー指導者。複数のクラブで数々のタイトルを獲得し、「優勝請負人」の異名を持ったドイツサッカーの歴史に残る名監督の一人である。

アゼリオ・ビチーニさんの残した言葉【サッカー指導者】1933年3月20日~2018年1月31日

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「相手から攻め込まれたとき、サッカーは11人で守るのが当然だ。守って、守って、苦しみながらも最後には勝つ。本当の、『生きた』サッカーとはそういうものだ。」 イタリア・チェゼーナ出身の元サッカー指導者、元サッカー選手。