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市川森一さんの残した言葉【ウルトラセブン】1941年4月17日~2011年12月10日

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「寒椿は、武士の娘に似ている。寒椿は、寒い時ほど美しい。武士の子なら、逆境にあるときほど、凛として美しくなければならない」 「人生は、出会いが大事ばい。ばってん、出会いたか人とは、滅多に出会わん。出会いたか時に出会えるとも限らん。自分を分かってくれる人はいても、その人と出会うこともなか。そこが、人生のせつなかところたい。・・・僕はね、蝶々さんのお父さんになりたかったなァ」 日本の脚本家、劇作家、小説家、コメンテーター。日本放送作家協会の会長を務めた。長崎県諫早市出身。 妻は『マキちゃん日記』で知り合った女優の柴田美保子。妹は放送作家の市川愉味子。父は旧海軍大村航空隊の教官。 代表作は『傷だらけの天使』『ウルトラセブン』『帰ってきたウルトラマン』『コメットさん』『露玉の首飾り』『TAJOMARU』など多数。 キリスト教の影響を多大に受けており、ウルトラシリーズの脚本では、新約聖書や神話に由来する名前を持つ怪獣や設定を多用したことでも知られる(ペテロ、バラバ、ゴルゴダの丘→ゴルゴダ星、アイスキュロス→アイロス星人、マナ→フルハシ・マナ、プロメテウス→プロテ星人、サロメ→サロメ星人など)。

向田邦子さんの残した遺書【シナリオライター御三家】1929年11月28日~1981年8月22日

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「どこで命を終わるのも運です。体を無理したり、仕事を休んだりして、骨を拾いに来ることはありません」 (遺書) テレビドラマ脚本家、エッセイスト、小説家。第83回直木賞受賞。 週刊誌のトップ屋時代は幸田 邦子名義で執筆していた。共同ペンネーム「葉村彰子」の一員でもある。

向田邦子さんの残した言葉【シナリオライター御三家】1929年11月28日~1981年8月22日

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「私はできるだけ卓袱台と畳にしまして、お父さんお母さんってやっているんですけど。」 「長い人生でここ一番というときにモノを言うのは、ファッションではなくて、言葉ではないのかな。」 「水商売ってのは、七年やりゃ一人前になれるもんだけど、夫とか妻ってのは、七年じゃあ、ダメなのねえ。」 「自分に似合う、自分を引き立てるセーターや口紅を選ぶように、ことばも選んでみたらどうだろう。ことばのお洒落は、ファッションのように遠目で人を引きつけはしない。無料で手に入る最高のアクセサリーである。流行もなく、一生使えるお得な『品』である。ただし、どこのブティックをのぞいても売ってはいないから、身につけるには努力がいる。本を読む、流行語を使わない、人真似をしない。何でもいいから手近なところから始めたらどうだろう。」 「おかしな形はおかしな形なりに均衡があって、それがみんなにとってしあわせな形ということも、あるんじゃないかなあ。」 「言葉は恐ろしい。たとえようもなく気持ちを伝えることの出来るのも言葉だが、相手の急所をグサリと刺して、生涯許せないと思わせる致命傷を与えるのも、また言葉である。」 テレビドラマ脚本家、エッセイスト、小説家。第83回直木賞受賞。 週刊誌のトップ屋時代は幸田 邦子名義で執筆していた。共同ペンネーム「葉村彰子」の一員でもある。

布勢博一さんの残した言葉【脚本家】1931年10月18日~2018年8月13日

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「言葉というのは便利なものだ 口先だけなら何とでも言える。」 日本の脚本家。布施 博一とも表記される。博一を「ひろかず」と読む場合があるが、「ひろいち」と読むのが正式な脚本家名である。 代表作は『熱中時代』、『たけしくん、ハイ!』、『純ちゃんの応援歌』、『天までとどけ』など。

橋本忍さんの残した言葉【脚本家】1918年4月18日~2018年7月19日

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「人は子供の頃から勉強する。なにかを教わる。たくさんの知識を得る。しかし創造力についてはなにも勉強していない。だから、自分の批判力は自分の創造力を遥かに上回ってしまう。だから、自分を批判していてはシナリオなんか書けない。極端に言うとシナリオは、批判力をゼロにした時にはじめて生まれる。そう、下手に、楽に書け。」 日本の脚本家、映画監督。男性。兵庫県神崎郡鶴居村に生まれる。 脚本家の橋本信吾、橋本綾は実子。 1949年、サラリーマン生活のかたわら、芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚色した作品を書く。社用で上京した際に佐伯に渡していた脚本が、黒澤明の手に渡り映画化を打診される。黒澤から長編化するよう依頼され、芥川の短編小説『羅生門』も加えて加筆。最終的に黒澤が修正して完成させた脚本を基に、翌1950年に黒澤が演出した映画『羅生門』が公開され、橋本忍は脚本家としてデビューした。同作品はヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞するなど高い評価を受けた。1951年に退社して上京し専業脚本家となる。 以後、黒澤組のシナリオ集団の一人として、小国英雄とともに『生きる』、『七人の侍』などの脚本を共同で執筆する。しかし、黒澤映画への参加は1960年の『悪い奴ほどよく眠る』で終わっており、あとはその10年後に『どですかでん』で1度だけ復帰する。その後、橋本は日本を代表する脚本家の一人として名声を高めることとなる。代表作に挙げられる『真昼の暗黒』、『張込み』、『ゼロの焦点』、『切腹』、『霧の旗』、『上意討ち』、『白い巨塔』、『日本のいちばん長い日』、『日本沈没』などの大作の脚本を次々と手がけ、論理的で確固とした構成力が高い評価を得る。