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グレタ・ガルボさんの残した言葉【伝説のスター】1905年9月18日~1990年4月15日

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「Anyone who has a continuous smile on his face conceals a toughness that is almost frightening.」 (いつも微笑んでいる人はだれでも、驚くほどの強さを秘めているものよ。) 「I’m a completely worthless woman and no man should risk his life for me.」 (わたしはくだらない女。わたしのために命をささげるべき男なんてひとりもいない。) 「I never said, ‘I want to be alone.’ I only said ‘I want to be let alone!’ There is all the difference.」 (独りになりたいなんていってないわ。ただそっとしておいて欲しいといったの。それはまったく違うことよ。) 「Life would be so wonderful if we only knew what to do with it.」 (生きがいさえわかっていれば人生はとても素晴らしいものになるでしょうね。) 「I’m not always sincere. One can’t be in this world, you know.」 (わたしはいつでも正直になんてなれない。そんな人、いるはずないわよね。) 「You don’t have to be married to have a good friend as your partner for life.」 (人生のパートナーとして親友を持つために、必ずしも結婚する必要はないわ。) 「It is bitter to think of one’s best years disappearing in this unpolished country.」 (つらいのは、この洗練されていない国で人生の最もすばらしい時期が消えていくこと。) 「If you are blessed, you are blessed, whether you are married or single.」 (結婚してようがしてまいが、あなたが幸せならそれが幸せなのよ。) 「There seems to be a law that g

サラ・ベルナールさんの残した言葉【聖なる怪物】1844年10月25日~1923年3月26日

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「Life begets life. Energy creates energy. It is by spending oneself that one becomes rich.」 (命が命を生み、エネルギーがエネルギーを生む。自分自身を投じることによって、人は豊かになる。) 「Those who know the joys and miseries of celebrity when they have passed the age of forty know how to defend themselves.」 (40歳を過ぎて、名声というものの喜びとみじめさを知っている人間は、自分を守る方法を知っている。) 「Your words are my food, your breath my wine. You are everything to me.」 (あなたの言葉はわたしの料理。あなたの呼吸はわたしのワイン。あなたはわたしのすべてなの。) 「ひと目惚れを信じることよ。」 「The actor is too prone to exaggerate his powers; he wants to play Hamlet when his appearance is more suitable to King Lear.」 (俳優は自分の才能を大きく見せる傾向がある。自分の風貌がリア王に適していても、ハムレットを演じたがる。) 「Once the curtain is raised, the actor ceases to belong to himself. He belongs to his character, to his author, to his public.」 (ひとたび幕が上がれば、俳優は自分ではなくなる。役に入り込み、作品や観客のものとなる。) 「I do love cricket – it’s so very English.」 (わたしはクリケットが大好き。とってもイギリス的だわ。) 「Although all new ideas are born in France, they are not readily adopted there. It seems that they must first comme

キャサリン・ヘプバーンさんの残した言葉【伝説のスター】1907年5月12日~2003年6月29日

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「I never lose sight of the fact that just being is fun.」 (生きているだけで楽しいってことを、わたしは忘れたことはないわ。) 「Love has nothing to do with what you are expecting to get – only what you are expecting to give – which is everything. 」 (愛するとは与えてもらうことではなく、与えること。それがすべてよ。) 「If you obey all the rules, you miss all the fun.」 (すべてのルールに従えば、すべての楽しみを取り逃がしてしまうわ。) 「I’ve made enough money to support myself, and I’m not afraid of being alone.」 (自分でやっていけるだけのお金は稼いだから、独りでいるのはこわくない。) 「Plain women know more about men than beautiful women do.」 (美しい女よりも不器量な女のほうが男についてよく知っている。) 「Never complain. Never explain.」 (不平を言わない。言い訳をしない。) 「Sometimes I wonder if men and women really suit each other. Perhaps they should live next door and just visit now and then.」 (男女は本当にお互いうまくいくのかしらと、ときどき思います。もしかすると、隣同士の家に住んで、行ったり来たりするのがいいのではないかしら。) 「Choose a road and stick to it.」 (道を選んだら、決してあきらめない。) 「Life is hard. After all, it kills you.」 (人生はつらい。最後には死んじゃうんだから。) 「If you always do what interests you, at leas

マリリン・モンローさんの残した言葉【ハリウッドのセックスシンボル】1926年6月1日~1962年8月5日

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「Fear is stupid. So are regrets.」 (恐怖はくだらないもの。だから後悔となる。) 「All I want is to be loved, for myself and for my talent.」 (私が望むことは、私自身と私の才能を愛されること、それがすべて。) 「Just because you fail once doesn’t mean you’re gonna fail at everything.」 (あなたが一回失敗したからといって、すべてにおいて失敗するわけじゃないわ。) 「We are all of us stars, and we deserve to twinkle.」 (誰もがスターなのよ。みんなが輝く権利を持っている。) 「I am good, but not an angel. I do sin, but I am not the devil.」 (私は良い人間だけど天使ではないわ。私は罪を犯すけど悪魔でもないわ。) 「A girl doesn’t need anyone that doesn’t need her.」 (誰も必要としていない女の子は、誰からも必要とされないものよ。) 「Wanting to be someone else is a waste of the person you are.」 (他の誰かになりたいと思うことは、あるべきあなた自身の無駄遣いをしているということだわ。) 「You never know what life is like, until you have lived it.」 (あなたの人生がどんなだったか、生き終えるまで結局わからないわ。) 「I’m very definitely a woman and I enjoy it.」 (私は女だし、女であることを楽しんでるわ。) 「I trust love. When loving a person, it’s to believe it perfectly.」 (私は愛を信じる。人を愛するときは完全に信じることよ。) 「It was determined that I’d like to become an actress. After that, I thought I made sure

ジョーン・クロフォードさんの残した言葉【女優】1904年3月23日~1977年5月10日

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「If I can't be me, I don't want to be anybody. I was born that way. 」 (私が私になれないのなら、誰にもなりたくない。 私はそのように生まれたの。) アメリカ合衆国テキサス州サンアントニオ出身の女優。映画、舞台、テレビで活躍した。 ブロードウェイのコーラスガールとして舞台に出演するまでは、アメリカ各地を巡業する演劇一座のダンサーだった。

オードリー・ヘプバーンさんの残した言葉【女優】1929年5月4日~1993年1月20日

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「You go back. You search for what made you happy when you were smaller. We are all grown up children, really… So one should go back and search for what was loved and found to be real.」 (過去へさかのぼりましょう。小さかったときに何に幸せを感じたのかをさがすの。私たちはみんな成長した子供。本当に…。だから人は回想し、愛したものや気付いた現実を探し求めるべきなのです。) 「People, even more than things, have to be restored, renewed, revived, reclaimed, and redeemed; never throw out anyone.」 (人は、物以上に、回復して、新しくなり、生き返り、再生し、報われることが必要なの。決して、誰も見捨ててはいけません。) 「I don’t want to be alone, I want to be left alone.」 (一人ぼっちになるのはいやだけど、そっとしておいて欲しいの。) 「You can tell more about a person by what he says about others than you can by what others say about him.」 (人の評価は、他の人たちの意見よりも、その人が他の人たちについてどのように言っているのかでより分かるものです。) 「幸福のこんな定義を聞いたことがあります。『幸福とは、健康と物忘れの早さである』ですって! わたしが思いつきたかったくらいだわ。だって、それは真実だもの。」 「The most important thing is to enjoy your life – to be happy – it’s all that matters.」 (何より大事なのは、人生を楽しむこと。幸せを感じること、それだけです。) 「母から一つの人生観を与えられました。他者を優先しないのは、恥ずべきことでした。自制心を保てないのも、恥ずべきことでした。」 「愛は行動なのよ。言葉だけではだめ

高峰秀子さんの残した言葉【昭和を代表する大女優】1924年3月27日~2010年12月28日

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「人間は一人では、生きることも死ぬこともできない。」 「現場で働く人間にとって、何より嬉しいのは、同じ現場の人間に慕われること。」 日本の女優、歌手、エッセイスト。本名は松山 秀子、旧姓は平山。愛称は「デコちゃん」。 子役から大人の女優へ成長、戦前・戦後を通じて半世紀にわたり日本映画界で活躍した女優の1人。1929年に松竹蒲田撮影所で子役デビューし、天才子役スターとして活躍。 子役から大人の女優へ成長、戦前・戦後を通じて半世紀にわたり日本映画界で活躍した女優の1人。1929年に松竹蒲田撮影所で子役デビューし、天才子役スターとして活躍。ハリウッドの名子役シャーリー・テンプルとも比較されるほどの天才子役ぶりで名を馳せた。その後東宝、新東宝を経てフリーとなる。木下惠介、成瀬巳喜男監督作品に常連出演したほか、小津安二郎、豊田四郎、稲垣浩、五所平之助など日本映画界を彩る巨匠監督の名作に数多く出演した。1979年(昭和54年)に女優を引退し、その後はエッセイストとして活動。主な出演作品に『カルメン故郷に帰る』『二十四の瞳』『浮雲』など。著書に自伝『わたしの渡世日記』など。夫は映画監督の松山善三。

デビー・レイノルズさんの残した最後の言葉【雨に唄えば】1932年4月1日~2016年12月28日

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「キャリーと一緒にいたい」 (最後の言葉) アメリカ合衆国テキサス州エルパソ出身の女優、歌手、声優。出生名はMary Frances Reynolds。娘のキャリー・フィッシャーさんが死去した、その翌日に死去。 ワーナー・ブラザースの映画2本で端役を演じた後、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーと契約。1950年にフレッド・アステアの映画に出演。その2年後、ジーン・ケリーのミュージカル『雨に唄えば』に抜擢され、一躍スターとなった。1957年、『タミーと独身者』の中で歌った主題歌「タミー」が全米5週連続1位の大ヒットとなり、アカデミー音楽賞にノミネートされる。 その後も『年頃ですモノ!』『恋に税金はかからない』『ママは二挺拳銃』などのヒット映画に多く出演し、タイタニック号の生存者で実在のモリー・ブラウンを演じた1964年の『不沈のモリー・ブラウン』ではアカデミー主演女優賞にノミネートされた。 また1960年代マネー・メーキング・スターの5位に2度選出されるなど、人気女優の一人として長い期間活躍した。

キャリー・フィッシャーさんの残した言葉【レイア姫】1956年10月21日~2016年12月27日

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「歳を重ねるにつれ、収入はスリムになっていくけれど、人は違う」 「恨み辛みというのは、毒を飲んで相手が死ぬのを待つのと同じようなもの」 「私の人生がこれほど面白味のないものでも、それはそれで本来の姿でしょう。でもそれは受け入れられないわね」 「有名人一家に育ったから、プライベートの生活はまるでなかった。どうせ公になるのなら、どこかの誰かが勝手に想像したものではなくて、実際に私が経験した通りに報じて欲しいわね。恥ずかしい思いをさせられるのはごめんだわ」 「最近学んだのは、ひっきりなしにつぶやいて、次々と誤解を生み出す方法だけね」 「歳をとっていくのは嬉しいことではないわ。でも避けられないことでしょ?」 「自分がどんなにクレイジーかってことは、自分がよく心得ているつもりだわ」 「成功してよかったのは、収入が増えたことと、あちこちを旅していろいろな人たちと出会えたことね。逆によくなかったのは、やっぱりお金と旅行と人間関係ね」 「基本的に私は世渡り上手だと思う。ただ残念なことに渡り歩いているのはロデオ・ドライブなんだけど」 「即座に得られる喜びというのは、得るまでに時間がものすごくかかるもの」 「地獄を見てこそ、そこからじわじわと本当の幸せを感じられることもあるのよ」 「これまで自暴自棄に陥ることはなかったわ。たぶんそれはドラッグのおかげね」 「ルーカス監督には、『宇宙空間には下着なんてないんだから、衣装にブラはなし』って言われたの」 「あなた(ジョージ・ルーカス)は丸々3年間、私の肖像権を握っている。だから私が鏡に映る自分の姿を見るたびに、あなたへ数ドルずつ小切手を切らなければならないの」 「こんにちは!私はハン・ソロの夫人でアル中です。アル中になった原因はジョージ・ルーカスに人生をボロボロにされたからです」 「私は防空壕の中で他のみんなを励ましているような人間よ」 「歳をとったセレブがどうなるか知ってる?くたばるかヴェガスへ行くかよ」 「誰でも他人の人生を狂わせる可能性はあるわ。私はただ、他の人よりもその程度が大きいだけなの」 「映画は夢よ!潜在意識に訴えかけるのよ。才能豊かで独立心が強く、賢明な兵士や戦士、そして支配者とまではいかない女将軍としてのレイア姫は、誰でも演じることができるわ。でもすべての女性の偏見を克服して真の女性支配者

乙羽信子さんの残した言葉【おしん】1924年10月1日~1994年12月22日

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「いつも闘いです。自分の古いものを捨て、いかに新しいものを出すか」 日本の女優。愛称は「オカジ」。 宝塚退団後、大映に入社する。大映は、宝塚時代から人気のあったえくぼに「百萬弗のゑくぼ」というキャッチフレーズをつけて、純情型のスターとして売り出す。デビュー作は同年の新藤兼人脚本、木村恵吾監督の『處女峰』で、上原謙と共演した。その後、何作かに出演した後、1951年(昭和26年)の新藤兼人の第1回監督作品『愛妻物語』で、夫を陰で支える妻を演じ、映画界でもスターの地位を手に入れる。

ミシェル・モルガンさんの残した言葉【フランスの大女優】1920年2月29日~2016年12月20日

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「いつまでも新鮮な愛は、すこし冷たさも混じっている愛だけです。」 フランスの女優。イル=ド=フランス地域圏オー=ド=セーヌ県ヌイイ=シュル=セーヌ生まれ。日本語では他にミッシェル・モルガン、ミシェール・モルガンとも表記されている。主に1930年代後半から1960年代後半まで活躍した。 パリ西部近郊ヌイイ=シュル=セーヌ生まれ。15歳で女優になる決心をし、映画のエキストラをしながら、演劇学校で演技を学び、当時の著名なフランスの俳優レーミュ主演の映画“Gribouille”でメジャー・デビューをする。 そして、ジャン・ギャバンと共に2つの映画『霧の波止場』と『曳き舟』に主演し、スターの座に上った。 第二次世界大戦中には渡米し、アメリカ人俳優ウィリアム・マーシャルと結婚、一男を産むが、離婚する。 1946年の映画『田園交響楽』では第1回カンヌ国際映画祭 女優賞を受賞した。 他の主な出演作は、イタリア映画『ファビオラ』(、ジェラール・フィリップと共演した2作『狂熱の孤独』と『夜の騎士道』、『マリー・アントワネット』等がある。 1970年代以降はほとんど映画出演はなく、時折テレビと劇場に出演しつつ、趣味の絵画と詩作に耽って平穏な生活を送った。 1969年にはフランス政府からレジオンドヌール勲章を、1992年にはセザール賞の名誉賞を、1996年にはヴェネツィア国際映画祭で栄誉金獅子賞を授与された。

ヴィルナ・リージさんの残した言葉【女優】1936年11月8日~2014年12月18日

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「思えば恋っておかしなもの。自分がするまでは誰もがせせら笑うんだもの。」 「あんなに自慢さえしなければ、男性はもっとらくらく女性を征服できるのに。」 イタリアの女優。他にビルナ・リージの表記もある。 1953年から映画に出演し始める。イタリア映画やフランス映画で活躍していたが、ハリウッドにも進出し、ジャック・レモン共演の『女房の殺し方教えます』やフランク・シナトラ共演の『クィーン・メリー号襲撃』やジョージ・C・スコット共演の『おれの女に手を出すな』などの映画に出演。現在でもイタリアのテレビ等で活躍している。 1966年4月に開催された第38回米国アカデミー賞授賞式で、ジェームズ・コバーンと一緒にプレゼンターを務めた。 『王妃マルゴ』で第47回カンヌ国際映画祭の女優賞を受賞。

ザ・ザ・ガボールさんの残した言葉【ハリウッドの名花】1917年2月6日~2016年12月18日

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「ダイヤモンドは女のベストフレンドで、犬が男のベストフレンド。どっちが理にかなっているか分かるでしょ」 「女は愛を求めて結婚するのよ。で、愛をみつけるために結婚を続けるの」 「男には親切で理解があって欲しいわ。百万長者にそれを望むのはムリかな」 「男と離婚するまでは、その男をよく知っているとはいえないわ」 「私、セックスのことはよく知らないの。ずっと結婚していたから」 「私は誰でもダーリンって呼ぶの。名前を覚えきれないから」 「男が後ろへ下がったら、それは引き下がったってこと。でも女が下がるのは助走のためなのよ」 「私はダイヤモンドを男に返すほどにその男を嫌いになったことはないわ。」 「夫を愛せないというだけで離婚するのは、愛しているというだけで結婚するのと同じくらい愚かなことである。」 「私は素晴らしい家政婦よ。だって男と別れるたびに、彼の家を自分の物にするんだから。」 「男性は常に私が好きで、そして、私は常に男性が好きだった。しかし、私は男っぽい男性、女性と話す方法と扱い方を知っている人が好きだ-筋肉を持った男性だけでなくて」 ハンガリー出身のアメリカ合衆国の女優、ソーシャライト。「ザ・ザ・ガボール」は日本における慣用転写で、原語の英語の発音はジャ・ジャ・ガボーアに近い。Zsa Zsa Gaborは渡米後に改名した英語名で、ハンガリー語の本名はガーボル・シャーリ 。 ガボールはウィーンの舞台でその経歴を始め、1936年にミス・ハンガリーに選ばれた。1941年にハンガリーからアメリカに移住。「ヨーロッパの風格と様式」を持つ女優として人気になった。彼女は「魅力と優美さを発散する」という個性を持っているとみなされた。彼女の最初の出演映画は「Lovely to Look At」だった。その後、「結婚協奏曲」、ジョン・ヒューストン監督映画「赤い風車」など数々の映画に出演。ヒューストンは後に彼女を「称賛に値する」女優と表現した。 彼女は演技の経歴の外で、贅沢なハリウッドでの生活様式、華やかな人格、そして多くの結婚歴で知られた。ガボールは計9回結婚しており、その中にはヒルトンホテル創設者のコンラッド・ヒルトンや俳優ジョージ・サンダースが含まれる。彼女はかつてこう語った。「男性は常に私が好きで、そして、私は常に男性が好きだった。しかし、私は男っぽい

岸田今日子さんの残した言葉【個性派女優】1930年4月29日~2006年12月17日

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「演じるとは裸になること」 日本の女優、声優、童話作家。血液型はA型。身長156cm。 自由学園高校卒業。父は劇作家で文学座創設者の岸田國士、母は翻訳家の岸田秋子。姉に詩人で童話作家の岸田衿子、従弟に俳優の岸田森がいる。俳優の仲谷昇は元夫。 吉行和子、冨士眞奈美と親友であった。 1963年、杉村春子ら文学座幹部の運営に限界を感じていた芥川比呂志、高木均、小池朝雄、神山繁、山崎努らと共に文学座を脱退。「劇団雲」を経て、1975年には「演劇集団 円」の設立に参加し、『壊れた風景』、『うしろの正面だあれ』、『トラップ・ストリート』など、別役実書き下ろしの大半の作品に出演。その後もテレビ・映画出演と並行して舞台女優としても第一線で活躍していた。近寄りがたい妖艶さを見せる一方、ユーモラスな役もこなす硬軟自在の演技は若い頃から評価が高かった。その存在感から怪優と賞されることもあった。

水の江滝子さんの残した言葉【男装の麗人】1915年2月20日~2009年11月16日

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「暗い時ほど明るいものを。辛いときほど楽しいものを」 「自分自身が絶えず社会と繋がっていなくてはいけない」 日本の女優、映画プロデューサー、タレント。 1928年に東京松竹楽劇部に第1期生として入団。日本の女性歌劇史上初めて男性様に断髪した男役で「男装の麗人」の異名を取り、「ターキー」の愛称と共に1930年代から1940年代にかけて国民的人気を博した。 1942年の松竹退団後は劇団主宰、映画女優などを経て1955年に日活とプロデューサー契約。日本初の女性映画プロデューサーとなり、石原裕次郎を筆頭に、浅丘ルリ子、長門裕之、岡田真澄、和泉雅子、赤木圭一郎ら数々の俳優や、中平康、蔵原惟繕といった監督を発掘・育成し、『太陽の季節』、『狂った果実』など70本以上の映画を企画、日活の黄金時代を支えた。また、『NHK紅白歌合戦』の司会を2度務めたほか、『ジェスチャー』、『独占!女の60分』といった番組に携わった。 50年以上に亘り芸能活動を続けたが、1984年に甥の三浦和義が妻の不審死に関わったのではないかとしてマスメディアを賑わせた「ロス疑惑」のスキャンダルに巻き込まれ、芸能界を引退した。その後は隠居の傍ら、ジュエリー作家として活動したほか、1993年に自身の生前葬を大々的に催し話題をとった。

森光子さんの残した言葉【女優】1920年5月9日~2012年11月10日

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「奪い合うと足りない。だけど、分け合えば余るから、不思議よね。」 「そのときが誠実で一生懸命だったらそれでいい。あしたを生きましょう。」 「あきらめてはいけない“時”を知る。」 「人生は精いっぱいがんばって生きるのよ!!人生とはぴんぴん生きてれば、ころりと逝くものよだから安心して毎日ガンバルことです。」 「小さいうれしいことをふくらませていこう。」 日本の女優、歌手、マルチタレント、司会者。日本俳優連合名誉副会長、第6代日本喜劇人協会会長、フジテレビジョン番組審議会名誉顧問。国民栄誉賞受賞。栄典は従三位・勲三等瑞宝章・紫綬褒章・文化功労者・文化勲章。東京都名誉都民・京都市市民栄誉賞・京都名誉観光大使。 京都府京都市出身。京都府立第一高等女学校中退。

左幸子さんの残した遺言【女優】1930年6月29日~2001年11月7日

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「命懸けでやりなさい」 (妹(左時枝)への遺言) 日本の女優。富山県下新川郡朝日町出身。本名、額村幸子。 妹は同じく女優左時枝。元夫は映画監督の羽仁進。娘はエッセイストの羽仁未央。 私生活では、1959年に映画監督の羽仁進と結婚。1964年に長女・未央を出産。しかし、1973年に羽仁が未央を連れてアフリカに長期撮影旅行に出かけた際、これに未央とともに同行した左の実妹(四女)で当時羽仁のマネージャー務めていた額村喜美子と不倫関係にあったことを人づてに知り、ショックを受け自殺を図るが事なきを得た。このこともあり1977年、離婚し未央は父側に付き、羽仁はその4ヶ月後の11月8日、喜美子と再婚した。 1985年、胃癌のため胃の一部を切除するも体調が回復せず長く療養生活を送る。1991年に舞台『糸女』でカムバックを果たしたが、その後はバラエティ番組へのゲスト出演が活動の中心になっていった。晩年は『快傑熟女!心配ご無用』のレギュラーパネリストとして出演している。

加藤治子さんの残した言葉【女優】1922年11月24日~2015年11月2日

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「何か人生が分かったみたいに、人間ができたみたいにしてるのって性に合わないんですよ。自分の好きなことに、みっともないくらい、むきになっちゃう。そんな女でいたいのよ。」 日本の女優。血液型はAB型。 松竹少女歌劇学校を経て、1937年、御舟京子(みふね きょうこ)の芸名で松竹少女歌劇団に入る。同期には、後の男役トップスター・小月冴子や曙ゆり、並木路子、矢口陽子(後の黒澤明夫人)、月城彰子(後の十代目・岩井半四郎夫人)などがいた。1939年には東宝に迎えられ、『花つみ日記』で映画デビューする。榎本健一の相手役など数本の映画に出演した。 1941年に慶應義塾大学の学生だった加藤道夫や芥川比呂志らが結成した新演劇研究会(解散するが、戦後に麦の会として再出発)に入団。同会は1949年に文学座に合流し、以降は主演級で活躍した。 1963年には芥川、高橋昌也、高木均、岸田今日子らと劇団雲の創立に参加した(1975年に退団)。 1964年、『七人の孫』で母親を演じ、森繁久彌らと共演。以後、ホームドラマでの母親役を当たり役にして人気を集める(森繁、大坂志郎、若山富三郎、藤岡琢也との夫婦役は名コンビと呼ばれた)。 いしだあゆみや樹木希林、平田満との共演も多かった。 向田邦子や久世光彦とは公私ともに親しく、向田作品においては常連出演者かつキーマン役を務め、女の業を滲ませた役も演じた。 1994年から2009年までは『浅見光彦シリーズ』にて浅見雪江(光彦の母)役でレギュラー出演した。 晩年までコンスタントに作品を選ばずに出演(映画における遺作は『おとうと』。テレビドラマでの遺作は『魔術はささやく』)。

角替和枝さんの残した言葉【女優】1954年10月21日~2018年10月27日

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「大厄の年こそ大役をすべき。やらないなら一生仕事やめな」 日本の女優。本名:柄本 和枝。 静岡県富士市出身。劇団東京乾電池所属。所属事務所はノックアウト。夫は俳優の柄本明、長男は俳優の柄本佑、次男は俳優の柄本時生。 静岡県立吉原高等学校卒業。内田栄一と金子正次の劇団東京ザットマンの立ち上げに参加し、芝居を始めた後、つかこうへい事務所に所属し、その後に東京乾電池に所属。『コメディー道中でござる』、NHK朝の連続テレビ小説『おひさま』や『ハイカラさん』等に出演し認知度を上げていく、その後も名バイプレーヤーとして人気を博し数多くの作品に出演。 26歳のときに東京乾電池座長の柄本明と結婚。子は俳優として活動する佑、時生に第一子である長女(かのこ)。家族からは「和枝ちゃん」と呼ばれている。夫のことは「えもっちゃん」と呼んでいる。 自他共に認めるゲーマー。佑によれば、怒ると「マリオやゼルダから何を学んだんだ!」とゲームを引き合いにしたり、『クラッシュバンディグー』にハマり過ぎて手を疲労骨折したが、手を固定しながらもやり続けた。 かつてはキャラクターショーにも出演しており、『アルプスの少女ハイジ』ショーのペーター役が神業と評され、様々なショーにペーター役で呼ばれていた。

江波杏子さんの残した言葉【女優】1942年10月15日~2018年10月27日

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「恋愛は苦行よ。苦行じゃない恋に意味ある?」 日本の女優。東京都渋谷区千駄ヶ谷出身。アルファエージェンシー所属。天秤座。 1960年、映画『明日から大人だ』でデビュー。芸名は、母親の芸名と室生犀星の新聞連載小説『杏っ子』に由来している。 長く助演が続いたが、自身の初主演『女の賭場』は当初、若尾文子のために企画されたが、若尾が自宅の風呂で転倒して全治2週間を余儀なくされてしまい、代役として出演本数58本目にして初の主役の座を獲得。女賭博師ぶりがうまくハマり、「昇り竜のお銀」として親しまれた(1971年の『新女賭博師・壺ぐれ肌』まで、全17本が制作された)。新幹線の中でヤクザに「姐さん、きょう賭場が開いてます」と言われたほどの当たり役となった。だが脚本家、中島丈博の証言によれば、江波自身は女賭博師の役柄を嫌っていたという。雑誌の対談をきっかけに、テンプターズの萩原健一と交際したが、これは江波の方から恋愛関係に発展させたものだった。 大映倒産後の1973年、『津軽じょんがら節』に主演してキネマ旬報主演女優賞を獲得。 グラマーな体型だったことから、写真家達の人気の的となり1960年代から1970年代以後もヌードも披露し、グラビアでも活躍した。読書が趣味で、新聞を読むのが一番の楽しみ。特に、寝る前には必ず文字を見なければ寝れないというほどだった。 かなりの酒豪でブランデーを一晩で一本空けたことがある。