投稿

ラベル(教育学者)が付いた投稿を表示しています

大田堯さんの残した言葉【日本子どもを守る会名誉会長】1918年3月22日~2018年12月23日

イメージ
「希望がなけりゃ、生きてても楽しくない。」 「日本の近代は表面が立憲制で中身は絶対主義。国民には『お上』の意向に従順な価値観が染みついており、それが政権を勢いづかせる。」 「人づくりと言えば格好いいけれど、特定の理想を掲げ同調を求める教育は、国のために犠牲になる人間を生んだ戦時中の人民教化と変わらない。子供はみんな違っていて、伸びる力も持っている。教師は介添え役でいい。」 「上官に服従し、上意下達に終始する自分は何者なのか。何のために生きているのか。何もわからなくなった。」 日本の教育学者。東京大学名誉教授、都留文科大学名誉教授。日本子どもを守る会名誉会長。シューレ大学アドバイザー。専攻は教育学、教育史、教育哲学。 戦後の日本を代表する教育学者として著名である。2011年に大田を主人公としたドキュメンタリー映画「かすかな光へ」が公開され、再びその活動が注目されている。 最近は講演・執筆など多忙だが、その中で故郷の広島県本郷町の「ほんごう子ども図書館」の設立に尽力。長年の研究者としての実績とあわせて、同町から名誉町民の表彰を受けている。「九条の会」傘下の「九条の会・さいたま」呼びかけ人を務めている。2013年末から、自身の初の著作集となる、『大田堯自撰集成』が藤原書店から刊行されている。

昇地三郎さんの残した言葉【しいのみ学園初代園長】1906年8月16日~2013年11月27日

イメージ
「人は昔から、言葉を心の糧として生きてきました。 私たちはできるだけよい言葉、よい教えにふれ、それを糧とすべく心術の工夫をしていかねばなりません」 日本の教育者、教育学者。教育学・心理学・精神医学が専門。日本初の知的障害児通園施設しいのみ学園を設立、運営した。 福岡教育大学教育学部教授、韓国社会事業大学教授・大学院長、社会福祉法人しいのみ学園理事長兼園長を歴任。関西大学法学士、広島文理科大学文学博士、九州大学医学博士。 1954年、郊外に家のとなりに、1000坪を購入し、妻の実家の造り酒屋などを売却した金で養護学校「しいのみ学園」を設立。障害児教育に挺身するが、2年後に違法行為があったとして認可取消処分を受ける。当時はまだ学校教育法に基づく養護学校(現在の特別支援学校)制度が整備されていなかった時代であっただけに、日本初の障害児のための教育施設として注目を集めた。長男・有道は、校務員として働いていたが、1960年に掘りごたつに落ちて大やけどを負って以来寝たきりとなってしまった。 1956年、九州大学から医学博士の学位を取得(第3378号)。1874年からの100年間で、森鴎外に続き2人目の医学博士と文学博士の両学位を有する者となる。同年、広島文理科大学からペスタロッチ賞を授与される。

板倉聖宣さんの残した言葉【教育学者】1930年5月2日~2018年2月7日

イメージ
「どっちに転んでもしめた。」 「多くの若者を見ていると『妥協したくない』ことが先行して、少し困難にでくわすとすぐに理想を捨ててしまうことが多いようです。理想を捨ててしまえば妥協もなにもなくなってしまいます。問題は妥協しても理想を捨てないことなのです。」 日本の教育学者。「仮説実験授業」の提唱者として知られる。理学博士。自称「いたずら博士」。板倉研究室室長。

水越敏行さんの残した言葉 【教育学者】1932年5月13日~2019年1月1日

イメージ
「子ども達の携帯電話の使い方など、 情報教育の始まりのころからコミュニケーションの方法、メディアとの関わり方が大きく変わってきた。良い悪いではなく、 教員も新しい波を受けなければ社会との間に溝が生まれてしまう」 日本の教育学者、大阪大学名誉教授。教育工学専攻。 三重県桑名市出身。