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TENN(テン)さんの残した遺書【ET-KING】1978年12月11日~2014年9月25日

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遺書  多香子へ ありがとう そして さようなら 子供が出来ない体でごめんね 本当に本当にごめんなさい。 幸せだった分だけ、未来が怖いから  何も無さそうだから 許してください。 僕の分まで幸せになってください。 きっと阿部力となら乗りこえられると思います。 次は裏切ったらあかんよ。 お酒は少しひかえないとあかんよ。 嘘はついたらあかんよ。 多分、僕の事を恨むでしょう? でもいつかは許してくださいね 最後はいろいろと重荷になるけど…ごめんなさい。 これが、未来を考えた時の僕のベストです。 ワガママを許してください。 いつか忘れる日が来るよ。 きっと大丈夫  今から大変だろうけど がんばって  トントンとお幸せに 車は開けないで  警察を呼んでください TENNは日本のJ-POPグループであるET-KINGのメンバーで、MCを担当。大阪府出身。本名は森脇 隆宏。血液型はAB型。 妻はSPEEDの上原多香子。

川島なお美さんの残した遺書【女優】1960年11月10日~2015年9月24日

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遺書 私は蝶となって 咲きみだれるお花から花へと舞い 毎年咲く桜となって花ふぶきをお客様に散らし たわわに実る果実となってあなたの作品として美味しくお皿の上にのります 美しく生き生きとしたファームガーデンは私の夢です その夢をかなえて下さい 今までありがとう なお美より 日本の女優、タレント、歌手である。 戸籍名は、鎧塚 なお美。 血液型はAB型。 二人姉妹の長女。 愛知県守山市出身。 2010年6月より太田プロダクション所属。 夫はパティシエの鎧塚俊彦。

向田邦子さんの残した遺書【シナリオライター御三家】1929年11月28日~1981年8月22日

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「どこで命を終わるのも運です。体を無理したり、仕事を休んだりして、骨を拾いに来ることはありません」 (遺書) テレビドラマ脚本家、エッセイスト、小説家。第83回直木賞受賞。 週刊誌のトップ屋時代は幸田 邦子名義で執筆していた。共同ペンネーム「葉村彰子」の一員でもある。

松本清張さんの残した遺書【小説家】1909年12月21日~1992年8月4日

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「自分は努力だけはして来た」 (遺書) 日本の小説家。 1953年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞。以降しばらく、歴史小説・現代小説の短編を中心に執筆した。1958年には『点と線』『眼の壁』を発表。これらの作品がベストセラーになり松本清張ブーム、社会派推理小説ブームを起こす。 以後、『ゼロの焦点』『砂の器』などの作品もベストセラーになり戦後日本を代表する作家となる。その他、『かげろう絵図』などの時代小説を手がけているが、『古代史疑』などで日本古代史にも強い関心を示し、『火の路』などの小説作品に結実した。 緻密で深い研究に基づく自説の発表は小説家の水準を超えると評される。また、『日本の黒い霧』『昭和史発掘』などのノンフィクションをはじめ、近代史・現代史に取り組んだ諸作品を著し、森鴎外や菊池寛に関する評伝を残すなど、広い領域にまたがる創作活動を続けた。

山本真純さんの残した遺書【アナウンサー】1976年6月11日~2010年7月27日

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「私を愛してくださったすべての皆さま、ありがとうございました」 (遺書) 元日本テレビアナウンサー。血液型はO型。1999年入社。

古賀政男さんの残した遺書【作曲家】1904年11月18日~1978年7月25日

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遺書 <昭和53年7月23日>  今宵も又、ナツメロ大会を放送している。 私の歌は、いつまで繰り返されるのだろう。 私の歌の好きな人はみんな悲しい人達ばかりだ。 早くこんな歌は唄われなくなる日が来ると好い。 みんなハッピーになって欲しい。 日本人が、明るく楽しく愉快に暮らしてゆける時代が来ると好い。 悲しみなんかもう沢山だ。 戦争の傷もピカドン(原爆)の慟哭も、早く、早く消えろ。 そして古賀メロディも早く去れ。 私も早く消えたい。  この世から、日本から、 誰かがきっと、明るいハッピーをもたらすだろう。 みんな幸せになって欲しい。 私の願いはこれだけだ。 しかし、私はもう秋の蝉だ。 声もなく、只沈黙を守って、ジッと樹にしがみついているだけだ。 霜が降りて、私は土の中で、奥深くもぐってゆくばかりだ。  古賀政男 拝 (遺書) 昭和期の代表的作曲家であり、ギタリスト。国民栄誉賞受賞者。栄典は従四位・勲三等・瑞宝章・紫綬褒章。明治大学商学部卒業。本名、古賀正夫。 少年時代に弦楽器に目覚め、青年期はマンドリン・ギターのクラシック音楽を研鑽しつつ、大正琴を愛した。

芥川龍之介さんの残した遺書 (妻宛て)【小説家】1892年3月1日~1927年7月24日

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芥川文子あて 追記。この遺書は僕の死と共に文子より三氏に示すべし。尚又右の条件の実行せられたる後は火中することを忘るべからず。 再追記 僕は万一新潮社より抗議の出づることを惧るる為に別紙に4を認めて同封せんとす。 4.僕の作品の出版権は(若し出版するものありとせん乎)岩波茂雄氏に譲与すべし。(僕の新潮社に対する契約は破棄す。)僕は夏目先生を愛するが故に先生と出版書肆を同じうせんことを希望す。但し装幀は小穴隆一氏を煩はすことを条件とすべし。(若し岩波氏の承諾を得ざる時は既に本となれるものの外は如何なる書肆よりも出すべからず。)勿論出版する期限等は全部岩波氏に一任すべし。この問題も谷口氏の意力に待つこと多かるべし。 生かす工夫絶対に無用。 絶命後小穴君に知らすべし。絶命前には小穴君を苦しめ并せて世間を騒がす惧れあり。 絶命すまで来客には「暑さあたり」と披露すべし。 下島先生と御相談の上、自殺とするも病殺とするも可。若し自殺と定まりし時は遺書(菊池宛)を菊池に与ふべし。然らざれば焼き棄てよ。他の遺書(文子宛)は如何に関らず披見し、出来るだけ遺志に従ふやうにせよ。 遺物には小穴君に蓬平の蘭を贈るべし。又義敏に松花硯(小硯)を贈るべし。 この遺書は直ちに焼棄せよ。 他に貸せしもの、――鶴田君にアラビア夜話十二巻あり。 他より借りしもの、――東洋文庫より Formosa(台湾)一冊。勝峯晋風氏より「潮音」数冊。下島先生より印数顆、室生君より印二顆。(印は所持者に見て貰ふべし。) 沖本君に印譜を作りて貰ふべし。わが追善などに句集を加へて配るもよし。 石塔の字は必ず小穴君を煩はすべし。 あらゆる人々の赦さんことを請ひ、あらゆる人々を赦さんとするわが心中を忘るる勿れ。 (遺書) 日本の小説家。本名同じ、号は澄江堂主人、俳号は我鬼。 その作品の多くは短編である。また、「芋粥」「藪の中」「地獄変」など、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多い。「蜘蛛の糸」「杜子春」といった児童向けの作品も書いている。

芥川龍之介さんの残した遺書 (子供達宛て)【小説家】1892年3月1日~1927年7月24日

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わが子等に 人生は死に至る戦ひなることを忘るべからず。 従つて汝等の力を恃むことを勿れ。汝等の力を養ふを旨とせよ。 小穴隆一を父と思へ。従つて小穴の教訓に従ふべし。 若しこの人生の戦ひに破れし時には汝等の父の如く自殺せよ。但し汝等の父の如く 他に不幸を及ぼすを避けよ。 茫々たる天命は知り難しと雖も、努めて汝等の家族に恃まず、汝等の欲望を抛棄せよ。是反つて汝等をして後年汝等を平和ならしむる途なり。 汝等の母を憐憫せよ。然れどもその憐憫の為に汝等の意志を抂ぐべからず。是亦却つて汝等をして後年汝等の母を幸福ならしむべし。 汝等は皆汝等の父の如く神経質なるを免れざるべし。殊にその事実に注意せよ。 汝等の父は汝等を愛す。(若し汝等を愛せざらん乎、或は汝等を棄てて顧みざるべし。汝等を棄てて顧みざる能はば、生路も亦なきにしもあらず) 芥川龍之介 (遺書) 日本の小説家。本名同じ、号は澄江堂主人、俳号は我鬼。 その作品の多くは短編である。また、「芋粥」「藪の中」「地獄変」など、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多い。「蜘蛛の糸」「杜子春」といった児童向けの作品も書いている。

芥川龍之介さんの残した遺書【小説家】1892年3月1日~1927年7月24日

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遺書 僕等人間は一事件の為に容易に自殺などするものではない。僕は過去の生活の総決算の為に自殺するのである。しかしその中でも大事件だつたのは僕が二十九歳の時に秀夫人と罪を犯したことである。僕は罪を犯したことに良心の呵責は感じてゐない。唯相手を選ばなかつた為に(秀夫人の利己主義や動物的本能は実に甚しいものである。)僕の生存に不利を生じたことを少からず後悔してゐる。なほ又僕と恋愛関係に落ちた女性は秀夫人ばかりではない。しかし僕は三十歳以後に新たに情人をつくつたことはなかつた。これも道徳的につくらなかつたのではない。唯情人をつくることの利害を打算した為である。(しかし恋愛を感じなかつた訣ではない。僕はその時に「越し人」「相聞」等の抒情詩を作り、深入りしない前に脱却した。)僕は勿論死にたくない。しかし生きてゐるのも苦痛である。他人は父母妻子もあるのに自殺する阿呆を笑ふかも知れない。が、僕は一人ならば或は自殺しないであらう。僕は養家に人となり、我儘らしい我儘を言つたことはなかつた。(と云ふよりも寧ろ言ひ得なかつたのである。僕はこの養父母に対する「孝行に似たもの」も後悔してゐる。しかしこれも僕にとつてはどうすることも出来なかつたのである。)今僕が自殺するのは一生に一度の我儘かも知れない。僕もあらゆる青年のやうにいろいろの夢を見たことがあつた。けれども今になつて見ると、畢竟気違ひの子だつたのであらう。僕は現在は僕自身には勿論、あらゆるものに嫌悪を感じてゐる。 芥川龍之介 P.S. 僕は支那へ旅行するのを機会にやつと秀夫人の手を脱した。(僕は洛陽の客桟にストリントベリイの「痴人の懺悔」を読み、彼も亦僕のやうに情人に※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)を書いてゐるのを知り、苦笑したことを覚えてゐる。)その後は一指も触れたことはない。が、執拗に追ひかけられるのには常に迷惑を感じてゐた。僕は僕を愛しても、僕を苦しめなかつた女神たちに(但しこの「たち」は二人以上の意である。僕はそれほどドン・ジユアンではない。)衷心の感謝を感じてゐる。 (遺書) 日本の小説家。本名同じ、号は澄江堂主人、俳号は我鬼。 その作品の多くは短編である。また、「芋粥」「藪の中」「地獄変」など、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多い。「蜘蛛の糸」「杜子春」といった児童向...

芥川龍之介さんの残した遺書 (友へ)【小説家】1892年3月1日~1927年7月24日

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或旧友へ送る手記 誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは自殺者の自尊心や或は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであらう。僕は君に送る最後の手紙の中に、はつきりこの心理を伝へたいと思つてゐる。尤もつとも僕の自殺する動機は特に君に伝へずとも善いい。レニエは彼の短篇の中に或自殺者を描いてゐる。この短篇の主人公は何の為に自殺するかを彼自身も知つてゐない。君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。君は或は僕の言葉を信用することは出来ないであらう。しかし十年間の僕の経験は僕に近い人々の僕に近い境遇にゐない限り、僕の言葉は風の中の歌のやうに消えることを教へてゐる。従つて僕は君を咎とがめない。…… 僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。僕のしみじみした心もちになつてマインレンデルを読んだのもこの間である。マインレンデルは抽象的な言葉に巧みに死に向ふ道程を描いてゐるのに違ひない。が、僕はもつと具体的に同じことを描きたいと思つてゐる。家族たちに対する同情などはかう云ふ欲望の前には何でもない。これも亦君には、Inhuman の言葉を与へずには措おかないであらう。けれども若もし非人間的とすれば、僕は一面には非人間的である。 僕は何ごとも正直に書かなければならぬ義務を持つてゐる。(僕は僕の将来に対するぼんやりした不安も解剖した。それは僕の「阿呆の一生」の中に大体は尽してゐるつもりである。唯僕に対する社会的条件、――僕の上に影を投げた封建時代のことだけは故意にその中にも書かなかつた。なぜ又故意に書かなかつたと言へば、我々人間は今日でも多少は封建時代の影の中にゐるからである。僕はそこにある舞台の外に背景や照明や登場人物の――大抵は僕の所作しよさを書かうとした。のみならず社会的条件などはその社会的条件の中にゐる僕自身に判然とわかるかどうかも疑はない訣わけには行かないであ...

つか こうへい さんの残した遺書【劇作家】1948年4月24日~2010年7月10日

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遺書 友人、知人の皆様、つかこうへいでございます。 思えば恥の多い人生でございました。 先に逝くものは、後に残る人を煩わせてはならないと思っています。 私には信仰する宗教もありませんし、戒名も墓も作ろうとは思っておりません。 通夜、葬儀、お別れの会等も一切遠慮させて頂きます。 しばらくしたら、娘に日本と韓国の間、対馬海峡あたりで散骨してもらおうと思っています。 今までの過分なる御厚意、本当にありがとうございます。 2010年1月1日 つかこうへい 日本の劇作家、演出家、小説家。本名、金 峰雄。日本国内での通名、金原 峰雄。福岡県嘉穂郡嘉穂町牛隈生まれ。国籍は大韓民国。三男一女の二男。血液型A型。生前は東京都北区に在住し、同区のアンバサダーも務めた。

沖雅也さんの残した遺書【俳優】1952年6月12日~1983年6月28日

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「おやじ 涅槃で 待つ」 (遺書) 大分県別府市出身の俳優。身長183cm。

太宰治さんの残した遺書【小説家】1909年6月19日~1948年6月13日

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「誰よりも愛してゐました。…小説を書くのがいやになつたから死ぬのです。」 遺族らが公開した太宰の9枚からなる遺書では、美知子宛に「誰よりも愛してゐました」とし、続けて「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と自殺の動機を説明。遺書はワラ半紙に毛筆で清書され、署名もあり、これまでの遺書は下書き原稿であったことが判った。 (遺書) 日本の小説家である。本名、津島 修治。自殺未遂や薬物中毒を克服し戦前から戦後にかけて多くの作品を発表。没落した華族の女性を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳らとともに新戯作派、無頼派と称された。

ケイト・スペードさんの残した遺書【ファッションデザイナー】1962年12月24日~2018年6月5日

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「ビー(ベアトリスの愛称)へ。ずっと愛していました。あなたのせいではありませんからね、パパに聞いてみて!」 (娘へ) (遺書) アメリカ合衆国のファッションデザイナー。出生名はキャサリン・ノエル・ブロズナハン。夫であるアンディ・スペードと、ファッションブランドのケイト・スペード ニューヨークを創立した。姪は女優のレイチェル・ブロズナハンである。

山田康雄さんの残した遺書【声優】1932年9月10日~1995年3月19日

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アリガトウ。 ハヤイ ハナシガ イショ 素敵な人生だったよ。 紀美子がいて、夏織がいて、浩康がいて、ポケがいて ・・・・・・やっぱり紀美子がいて・・・・・・ ありがとう 山田康雄 (遺書) 日本の俳優、声優、司会者、ナレーターである。愛称は「ヤスベエ」。テアトル・エコーに所属していた。 東京府東京市大森区南雪谷出身。身長167cm、体重56kg。血液型はA型。星座はおとめ座。早稲田大学文学部英文科中退。長男は山田浩康。

飯島夏樹さんの残した言葉【プロウィンドサーファー】1966年8月19日~2005年2月28日

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困った時。ずっーと困った時の連続なんだよね人生は、結局。ある本に 『今回悪かったから、次は絶対いいことがある、って思うのは違う。人生そんなに甘くない』 とあった、俺も同感。 悪いこと困難そのものも、そのまま受け取ること。『すべてのことは益となる』結局はこの言葉だろうな。 ふたつの道があったら、自分に都合の悪そうな方へどうぞ。あと、バイブルの箴言と伝道所の書を読んでね。 そして、どうか辛いときには、祈ってみてね、答えは心の中にするから (遺書) 日本のプロウィンドサーファー。日本人として唯一、8年連続でワールドカップに出場した。サニーサイドアップに所属していた。 愛称はなっちゃん。 妻は、DJ・エッセイストの飯島寛子。

シド・ヴィシャスさんの残した遺書【ミュージシャン】1957年5月10日~1979年2月2日

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「俺達は死の取り決めがあったから、一緒に死ぬ約束をしてたんだ。 こっちも約束を守らなきゃいけない。今からいけば、まだ彼女に追いつけるかも知れない。 お願いだ。死んだらあいつの隣に埋めてくれ。 レザー・ジャケットとレザー・ジーンズとバイク・ブーツを死装束にして、さいなら。」 (遺書) イングランド出身のパンクロッカー。 同国のパンク・ロックバンド「セックス・ピストルズ」のメンバーとして知られる。バンド解散後、薬物乱用により若くして他界した。そのカリスマと過激なパフォーマンスに人々は魅了され、波乱に満ちた生涯がパンク・ムーブメントの伝説として語り継がれた。

園山俊二さんの残した言葉【漫画家】1935年4月23日~1993年1月20日

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「メソメソシルナ 世の中グワンバレ」 (遺書) 日本の漫画家。血液型B型。

特攻隊員の遺書 林市造大尉【母親へ】

 一足さきに天国に参ります。  天国に入れてもらえますかしら。お母さん祈つて下さい。  お母さんが来られるところへ行かなくては、たまらないですから。 お母さん。さよなら。 一億の人を救ふはこの道と母をもおきて君は征きけり 母マツヘさんの手記  泰平の世なら市造は、嫁や子供があつて、おだやかな家庭の主人になつていたでしょう。 けれども、国をあげて戦つていたときに生まれ合わせたのが運命です。  日本に生まれた以上、 その母国が、危うくなつた時、腕をこまねいて、見ていることは、できません。  そのときは、 やはり出られる者が出て防がねばなりません。

特攻隊員の遺書 海野馬一少佐【我が子へ】

愛児へ  児等よ嘆ずること勿れ。父の死は決して汝等を不幸にはしない。  汝等は父の死によって何でもよいから一つの教訓を得よ。  他の人の得ることの出来ぬ教訓を得よ。そして立派な人間となれ。  汝等よ。汝等の母は日本一の母なることを汝等に告げる自身あり。  母の言をよく守れ。母の言は即ち父の言だ。  和幸君瑞子様誠子様仲よくよき母の許にてよく勉強して立派な人となれ。  人間は何も高位高官の人となる義務はない。国家のため人にためになる人になるのが人間の義務だ。  和幸君よ父は汝に将来如何なる職業に進めと云ふ権能はない。  又汝の性格も判らぬから申さぬ。然し弱きを助けるのが男だ。  父は軍隊生活中この気概を持してやって来た。 (中略)  「弱きを助ける人となれ」これが父の言葉だ。汝未だ五才と雖も父の言を忘るる勿れ。  瑞子様はお姉さまだから父の心がよく判るであらふ。  和幸や誠子が成長するに従ひ父の心を傳へて下さい。 (後略)