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盛田昭夫さんの残した言葉【ソニー創業者】1921年1月26日~1999年10月3日

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「自分の正しいと思ったことはどんどんやれ。間違っていたら変えればいいだけだ。」 「マーケットサーベイ(市場調査)には頼らない。『あなたは何がいりますか』と聞いてつくっていたんでは遅いんですよ。」 日本の技術者、実業家。井深大と共に、電気機器メーカーソニー創業者の一人。1992年、名誉大英帝国勲章を受勲。 愛知県名古屋市(盛田家の出自は常滑だが、盛田自身は名古屋出身である)に盛田久左衛門・収子の長男として生まれる。生家は、代々続いた造り酒屋で父・久左衛門は盛田家第14代当主。母・収子は、元大垣共立銀行頭取戸田鋭之助の娘であり、元仙台市長・早川智寛の姪、会社再建の神様といわれた早川種三のいとこにあたる。また、敷島製パン創業家とは親戚、三省堂創業家・亀井家とも姻戚関係にある。 愛知県第一師範学校附属小学校(現・愛知教育大学附属名古屋小学校)、旧制愛知県第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)、第八高等学校(現・名古屋大学)、大阪帝国大学理学部物理学科卒。 太平洋戦争中、海軍技術中尉時代にケ号爆弾開発研究会で井深大と知り合う。 終戦後、1946年(昭和21年)に井深大らとソニーの前身である東京通信工業株式会社を設立し、常務取締役に就任。

榊莫山さんの残した言葉【バクザン先生】1926年2月1日~2010年10月3日

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「仲間内で展覧会やって、典雅ですな、優雅ですな、くらいしか評する言葉を持たん同士が褒め合うてる。むつかしい漢字を続け字で書いて、そんなん誰も読めへんやろ。かしこい言葉を書くほど人は離れていく。」 「真っすぐ前ばかり見とっても、何も見えてこんで。人生、大事なことは横っちょの方に転がってるもんや。」 「思い通りにできる、っちゅうのは、決まっていっぱい失敗した後や。」 日本の書家・作家・元教諭。 「バクザン先生」の愛称で知られる。前衛的な書画と、作品のイメージ通りの飄々とした印象で、宝酒造の「よかいち」のテレビCMをきっかけにバラエティ番組などにも多数出演。 また、エッセイなども多数著し、関連も含めると100冊を超える。 京都府相楽郡大河原村南大河原(現・南山城村)にて、小学校の校長の長男として生まれ、三重県名賀郡古山村菖蒲池(現・伊賀市)で育つ。1938年、三重県立上野中学校 (旧制)に入学。同校では、書を松永楳園に、油絵を佐々木三郎に学ぶ。 1943年に同校を卒業し、三重師範学校(現・三重大学教育学部)に入学。在学中、学徒出陣で徴兵され、沖縄に派遣される予定だったが、艦船がなかったために鹿児島で足止めされ、そこで敗戦を迎える。敗戦と同時に三重に帰郷し、聴講生として京都大学文学部の井島勉に美学を学ぶ。隣村の国民学校(現在の公立小学校に相当)に小学校の教員として勤務。教員時代には公立学校の教職員組合活動にも参加したことがあった。1946年、奈良国立博物館の第1回正倉院展を観に行った足で奈良在住の書家・辻本史邑に入門し、書の道に入る。日本書芸院展に出品した漢詩で推薦一席(最高賞)を1951年から2年連続で受賞するなど20代の頃から頭角をあらわし、辻本の死を機に1958年に日本書芸院や上田桑鳩の奎星会を退会して書壇から退き、以後は独自の世界を展開させ、自分の主宰する団体を立ち上げた。自身の主宰する団体で多くの弟子を育てた。弟子には東大寺の歴代の管長や、近畿大学文芸学部講師の岸玲州と喜家村信一に荻野丹雪など。末弟には川合正宏など大勢いる。近畿大学文芸学部出身の弟子も多くいる。 榊莫山は在野ではない。書道団体を立ち上げ、会の名前は山径社→墨象展→墨の芸術展→莫門展→墨象展と幾度か変更したり戻したりしている。 故郷の伊賀から、大阪へ移住し、大阪府大阪市や八尾市

河西昌枝さんの残した言葉【東洋の魔女】1933年7月14日~2013年10月3日

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「わたしたちは、『できない』ということは禁句であった。できないことをやるのが練習だったからである。 そして、これらの過程で手足もからだも鍛えられた。」 「命がけで世界一を目指したのは、長い人生の中でたった4年間だったような気がします。」 「日本中の声援が忘れられません。みなさんがほんと、ひとつになって、『がんばれよ』『勝ってほしい』と応援して下さった。プレッシャーでもなんでもなく、こんなに応援してくださっているのだから金メダルをとるしかないと思っていました。」 日本の元女子バレーボール選手。 河西は『東洋の魔女』の主将として1962年世界選手権優勝、1964年東京五輪でコーチ兼主将として優勝に大いに貢献した。ポジションはセッターで、長身を生かして前衛ではセンタープレーヤーも務めた。 1965年1月に日紡を退社、同年5月30日に当時の総理大臣である佐藤栄作の取り計らいで2歳年上の自衛官と結婚した。 選手のファンであった女優の淡島千景がオーナーとなって設立したバレーボールのクラブチーム「フジクラブ」にも参加、同クラブの中心選手として活躍した(フジクラブは国民体育大会バレーボール競技一般女子の部において、1965年、1966年と二連覇した。1968年頃までには活動を終えたという)。またその後は、ママさんバレー教室の講師も務め、普及に尽力した。 2003年3月に日本バレーボール協会の女子強化委員長に就任し、 2004年アテネ五輪では全日本女子チームの団長(チームマネージャー)を務めた。 2008年にバレーボール殿堂入りを果たした。

佐伯敏子さんの残した言葉【原爆供養塔の守り人】1919年12月24日~2017年10月3日

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「人間は意識して勤勉になるのではありません。思いの強さが、人を勤勉にするのです。」 日本の反核運動家。広島市への原子爆弾投下による被爆者の1人。広島平和記念公園内で被爆者たちの遺骨を供養する原爆供養塔の清掃活動のボランティアを長年にわたって続けていたことから「原爆供養塔の守り人」「ヒロシマの大母さん」とも呼ばれる。 1945年8月6日、佐伯は長男に逢うために姉の家を訪ねていた。同日、広島市に原子爆弾が投下。姉の家は爆心地から10キロメートル離れていたために佐伯は直撃を避けられたが、母と夫の家はいずれも爆心地近くであったため、被害に遭った家族や親族たちを捜して、まだ火の海となっている市内の爆心地を駆け回った。この際、まだ生存している重傷者たちが無傷の佐伯に助けを求めたが、家族を捜す佐伯は彼らを見捨てざるを得なく、大きな後悔を残すこととなった。また、市内を歩くには道を埋め尽くす多くの死没者たちの遺体を踏みつけるしかなく、このときの足の感触はその後も10年以上にわたって佐伯の心を苦しめることとなった。この40年後にも当時のことを「足が熱く、人の上を踏んで歩いた。人間としてやってはいけないことをした」と振り返っている。 日本国外にいた夫は被爆を免れたものの、直撃を受けた兄2人や妹はその後に佐伯の目の前で次々に変わり果てた姿で死去し、母は首だけの姿となって翌月に発見され、加えて夫の両親、義姉(長兄の妻)、甥と姪(長兄の次男と長女)、伯父2人、伯母、従兄弟、計13人を70日間で失った。この間、佐伯の家族・親族同士の間ですら、「病気がうつる」といって原爆症を発症した者に近づくのを嫌がったり、負傷者を一時的に別の家へ預けようとしても、食い扶持が減ると言って断られることがあり、佐伯は戦争や原爆が人間の体のみならず心をも傷つけることを見せつけられた。 佐伯自身も被爆直後に入市したことで、残存放射能で被曝(入市被曝)しており、一時的に体調不良に見舞われたものの、後に回復。終戦後の同1945年末に復員した夫、1947年に誕生した次男たちと共に広島での生活を続けた。しかし、やがて入市被曝による原爆症が本格化した。歯がすべて抜け落ち、28歳にして総入れ歯となった。白血球減少にも見舞われ、体重は28キログラムにまで落ちた。当時はまだ被爆者健康手帳による医療扶助もなく、収入も少ないた

レオン・レーダーマンさんの残した言葉【神の粒子】1922年7月15日~2018年10月3日

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「The physicists defer only to mathematicians, and the mathematicians defer only to God.」 (物理学者は数学者だけに従い、数学者は神のみに従う。) アメリカ合衆国の実験物理学者。2代目の所長としてフェルミ研究所を1978年から1988年まで率いた。1988年ニュートリノビーム法、およびミューニュートリノの発見によるレプトンの二重構造の実証によりノーベル物理学賞を受賞した。 ニューヨーク州バッファローに生まれた。1943年ニューヨーク市立大学シティカレッジ卒業。1951年コロンビア大学で博士号を取得、1989年の定年退職までコロンビア大学で教鞭を執った。その間、Eugene Higgins Professorに就任し、フェルミ国立加速器研究所の所長も兼務した。1962年にブルックヘブンの陽子加速器を使って、ニュートリノの反応を調べ電子ニュートリノとμニュートリノが別のものであることを証明した。1977年ボトムクォークと反ボトムクォークの対である「ウプシロン中間子」を発見した。1978年から1988年までフェルミ国立加速器研究所の所長を務めた。コロンビア大学退職後も、シカゴ大学、イリノイ工科大学で教えた。

高原慶一朗さんの残した言葉【ユニ・チャーム創業者】1931年3月16日~2018年10月3日

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「企業成長は、イノベーションと創造的破壊への挑戦をつづける企業家精神にあるが、その基盤には企業家の経営哲学や人間性がなければならない。」 「父の力をほとんど借りず、友人に株式を引き受けてもらったりして独力で資金を集めました。お金は事業経営の血液。初めから輸血に頼っていてはいけないと思ったのです。そして、自分にない力を持った人材を年齢に関係なく集めました。」 「『3つの友を選べ。人生の師となる友、原理原則を教えてくれる友、直言してくれる友』。私は先輩に教わったこの言葉を大切にしてる。」 「人間の自己実現には3つの『し』、すなわち『志』『師』『詩』が、人生のライフサイクルに共通してある。」 「自分は『健全な欲張り』だと思います。しかし、その姿勢が人間の能力を最も伸ばす資質だと信じています。」 「失敗の原因はすべて自分にあり、自分の責任だと考える。実際にいろいろな失敗について分析してみると、ほとんどが自分の責任に行きつく。」 「企業はリーダーの器以上に成長しない。」 「成功は続けておさめるのは至難の業だが、ひとつ秘訣があるとすれば、それは過去の成功を捨てることから始まる。」 「当たり前のことを、当たり前とバカにしている人は成功できない。当たり前がいちばんむずかしく、また見落としやすい。突飛なことや奇をてらうのは、一見、派手で目立ちやすいが継続がむずかしい。」 「他人との比較で勝ち負けを決めるな。人と比べるのではなく、過去の自分と競争しよう。自己ベストを出した人は、みんな勝者だ。」 「昨日までは取り戻せないが、未来は青天井、現時点の決意いかんでどうにでもなる。」 「『そんなやり方では遅い!ビジネスはもっとスピードが必要だ』そんな声に耳をかす必要は、とりあえずありません。人が一時間で済ませるものを、考えに考えて二時間かけてみよ。『鈍』な体験から得られるものは、決して小さくはない。頭は悪い方が良い、いや頭は悪くなければいけないのです。」 「失敗してもチャレンジすれば、いつも成功の過程にいられる。成功するまで続けることが成功のコツ。」 日本の実業家。ユニ・チャーム創業者で、同社初代代表取締役社長や、日本経団連評議員会副議長等を務めた。第2代ユニ・チャーム代表取締役社長の高原豪久は長男。 愛媛県川之江市(現四国中央市)生まれ。1953年大阪市立大学商学

故人が残した名言集【10月3日】

高原慶一朗さんの残した言葉【ユニ・チャーム創業者】1931年3月16日~2018年10月3日 「企業成長は、イノベーションと創造的破壊への挑戦をつづける企業家精神にあるが、その基盤には企業家の経営哲学や人間性がなければならない。」 「父の力をほとんど借りず、友人に株式を引き受けてもらったりして独力で資金を集めました。お金は事業経営の血液。初めから輸血に頼っていてはいけないと思ったのです。そして、自分にない力を持った人材を年齢に関係なく集めました。」 「『3つの友を選べ。人生の師となる友、原理原則を教えてくれる友、直言してくれる友』。私は先輩に教わったこの言葉を大切にしてる。」 「人間の自己実現には3つの『し』、すなわち『志』『師』『詩』が、人生のライフサイクルに共通してある。」 「自分は『健全な欲張り』だと思います。しかし、その姿勢が人間の能力を最も伸ばす資質だと信じています。」 「失敗の原因はすべて自分にあり、自分の責任だと考える。実際にいろいろな失敗について分析してみると、ほとんどが自分の責任に行きつく。」 「企業はリーダーの器以上に成長しない。」 「成功は続けておさめるのは至難の業だが、ひとつ秘訣があるとすれば、それは過去の成功を捨てることから始まる。」 「当たり前のことを、当たり前とバカにしている人は成功できない。当たり前がいちばんむずかしく、また見落としやすい。突飛なことや奇をてらうのは、一見、派手で目立ちやすいが継続がむずかしい。」 「他人との比較で勝ち負けを決めるな。人と比べるのではなく、過去の自分と競争しよう。自己ベストを出した人は、みんな勝者だ。」 「昨日までは取り戻せないが、未来は青天井、現時点の決意いかんでどうにでもなる。」 「『そんなやり方では遅い!ビジネスはもっとスピードが必要だ』そんな声に耳をかす必要は、とりあえずありません。人が一時間で済ませるものを、考えに考えて二時間かけてみよ。『鈍』な体験から得られるものは、決して小さくはない。頭は悪い方が良い、いや頭は悪くなければいけないのです。」 「失敗してもチャレンジすれば、いつも成功の過程にいられる。成功するまで続けることが成功のコツ。」 日本の実業家。ユニ・チャーム創業者で、同社初代代表取締役社長や、日本経団連評議員会副議長等を務めた。第2代ユニ・チャーム代表取