故人が残した名言集【10月3日】

高原慶一朗さんの残した言葉【ユニ・チャーム創業者】1931年3月16日~2018年10月3日



「企業成長は、イノベーションと創造的破壊への挑戦をつづける企業家精神にあるが、その基盤には企業家の経営哲学や人間性がなければならない。」



「父の力をほとんど借りず、友人に株式を引き受けてもらったりして独力で資金を集めました。お金は事業経営の血液。初めから輸血に頼っていてはいけないと思ったのです。そして、自分にない力を持った人材を年齢に関係なく集めました。」



「『3つの友を選べ。人生の師となる友、原理原則を教えてくれる友、直言してくれる友』。私は先輩に教わったこの言葉を大切にしてる。」



「人間の自己実現には3つの『し』、すなわち『志』『師』『詩』が、人生のライフサイクルに共通してある。」



「自分は『健全な欲張り』だと思います。しかし、その姿勢が人間の能力を最も伸ばす資質だと信じています。」



「失敗の原因はすべて自分にあり、自分の責任だと考える。実際にいろいろな失敗について分析してみると、ほとんどが自分の責任に行きつく。」



「企業はリーダーの器以上に成長しない。」



「成功は続けておさめるのは至難の業だが、ひとつ秘訣があるとすれば、それは過去の成功を捨てることから始まる。」



「当たり前のことを、当たり前とバカにしている人は成功できない。当たり前がいちばんむずかしく、また見落としやすい。突飛なことや奇をてらうのは、一見、派手で目立ちやすいが継続がむずかしい。」



「他人との比較で勝ち負けを決めるな。人と比べるのではなく、過去の自分と競争しよう。自己ベストを出した人は、みんな勝者だ。」



「昨日までは取り戻せないが、未来は青天井、現時点の決意いかんでどうにでもなる。」



「『そんなやり方では遅い!ビジネスはもっとスピードが必要だ』そんな声に耳をかす必要は、とりあえずありません。人が一時間で済ませるものを、考えに考えて二時間かけてみよ。『鈍』な体験から得られるものは、決して小さくはない。頭は悪い方が良い、いや頭は悪くなければいけないのです。」



「失敗してもチャレンジすれば、いつも成功の過程にいられる。成功するまで続けることが成功のコツ。」



日本の実業家。ユニ・チャーム創業者で、同社初代代表取締役社長や、日本経団連評議員会副議長等を務めた。第2代ユニ・チャーム代表取締役社長の高原豪久は長男。



レオン・レーダーマンさんの残した言葉【神の粒子】1922年7月15日~2018年10月3日



「The physicists defer only to mathematicians, and the mathematicians defer only to God.」

(物理学者は数学者だけに従い、数学者は神のみに従う。)



アメリカ合衆国の実験物理学者。2代目の所長としてフェルミ研究所を1978年から1988年まで率いた。

1988年ニュートリノビーム法、およびミューニュートリノの発見によるレプトンの二重構造の実証によりノーベル物理学賞を受賞した。

ニューヨーク州バッファローに生まれた。1943年ニューヨーク市立大学シティカレッジ卒業。

1951年コロンビア大学で博士号を取得、1989年の定年退職までコロンビア大学で教鞭を執った。その間、Eugene Higgins Professorに就任し、フェルミ国立加速器研究所の所長も兼務した。

1962年にブルックヘブンの陽子加速器を使って、ニュートリノの反応を調べ電子ニュートリノとμニュートリノが別のものであることを証明した。

1977年ボトムクォークと反ボトムクォークの対である「ウプシロン中間子」を発見した。

1978年から1988年までフェルミ国立加速器研究所の所長を務めた。

コロンビア大学退職後も、シカゴ大学、イリノイ工科大学で教えた。



佐伯敏子さんの残した言葉【原爆供養塔の守り人】1919年12月24日~2017年10月3日



「人間は意識して勤勉になるのではありません。思いの強さが、人を勤勉にするのです。」 



日本の反核運動家。広島市への原子爆弾投下による被爆者の1人。

広島平和記念公園内で被爆者たちの遺骨を供養する原爆供養塔の清掃活動のボランティアを長年にわたって続けていたことから「原爆供養塔の守り人」「ヒロシマの大母さん」とも呼ばれる。



河西昌枝さんの残した言葉【東洋の魔女】1933年7月14日~2013年10月3日



「わたしたちは、『できない』ということは禁句であった。できないことをやるのが練習だったからである。 そして、これらの過程で手足もからだも鍛えられた。」



「命がけで世界一を目指したのは、長い人生の中でたった4年間だったような気がします。」



「日本中の声援が忘れられません。みなさんがほんと、ひとつになって、『がんばれよ』『勝ってほしい』と応援して下さった。プレッシャーでもなんでもなく、こんなに応援してくださっているのだから金メダルをとるしかないと思っていました。」



日本の元女子バレーボール選手。
河西は『東洋の魔女』の主将として1962年世界選手権優勝、1964年東京五輪でコーチ兼主将として優勝に大いに貢献した。

ポジションはセッターで、長身を生かして前衛ではセンタープレーヤーも務めた。



榊莫山さんの残した言葉【バクザン先生】1926年2月1日~2010年10月3日



「仲間内で展覧会やって、典雅ですな、優雅ですな、くらいしか評する言葉を持たん同士が褒め合うてる。むつかしい漢字を続け字で書いて、そんなん誰も読めへんやろ。かしこい言葉を書くほど人は離れていく。」



「真っすぐ前ばかり見とっても、何も見えてこんで。人生、大事なことは横っちょの方に転がってるもんや。」



「思い通りにできる、っちゅうのは、決まっていっぱい失敗した後や。」



日本の書家・作家・元教諭。 「バクザン先生」の愛称で知られる。

前衛的な書画と、作品のイメージ通りの飄々とした印象で、宝酒造の「よかいち」のテレビCMをきっかけにバラエティ番組などにも多数出演。

また、エッセイなども多数著し、関連も含めると100冊を超える。



盛田昭夫さんの残した言葉【ソニー創業者】1921年1月26日~1999年10月3日



「自分の正しいと思ったことはどんどんやれ。間違っていたら変えればいいだけだ。」



「マーケットサーベイ(市場調査)には頼らない。『あなたは何がいりますか』と聞いてつくっていたんでは遅いんですよ。」



日本の技術者、実業家。井深大と共に、電気機器メーカーソニー創業者の一人。

1992年、名誉大英帝国勲章を受勲。


愛知県名古屋市(盛田家の出自は常滑だが、盛田自身は名古屋出身である)に盛田久左衛門・収子の長男として生まれる。

生家は、代々続いた造り酒屋で父・久左衛門は盛田家第14代当主。

母・収子は、元大垣共立銀行頭取戸田鋭之助の娘であり、元仙台市長・早川智寛の姪、会社再建の神様といわれた早川種三のいとこにあたる。

また、敷島製パン創業家とは親戚、三省堂創業家・亀井家とも姻戚関係にある。

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