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坂本龍馬さんの残した最後の言葉【土佐藩士】1836年1月3日~1867年12月10日

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「残念、残念。」 「おれは脳をやられたからもう駄目だ。」 (微かな声でいってこと切れた。) (最後の言葉) 江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。 諱は直陰、のちに直柔。通称は龍馬。 他に才谷 梅太郎などの変名がある 。 土佐藩郷士の家に生まれ、脱藩したあとは志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中を結成した。薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与した。

中岡慎太郎さんの残した言葉【陸援隊隊長】 1838年5月6日~1867年12月12日

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「正道を踏み、義を尽くすのが政府の本務である。戦の一字を恐れて、政府の本務を貶めるようでは、外国から侮蔑されて、却って、好親が敗れてしまう。」 「我輩同志の志を達する日を内にて待ち候ては、決して百年待てもその期これある間敷く。」 「非常の難を救う者は、非常の行なくんば有るべからず。」 「国家興亡は離同にあり、敵の強弱に関係せざるなり。」 「世間因循(いんじゅん)傍観区々として、只(ただ)人の失策を求め笑い、坐して天下の機会を失し甘じて人の後に落つ。」 「邑(むら)ある者は邑を擲(なげう)ち、家財ある者は家財を擲ち、勇ある者は勇を振い、智謀ある者は智謀を尽し、一技一芸ある者はその技芸を尽し。」 「学問を成し遂げる志を立てたのならば、目先の貴賤で心を動かされてはいけない。」 「実に天下、無茶苦茶に相成り候。言語に絶し悲憤極り申し候。天下挽回再挙なきにあらず、しかしながら、今しばらく時を見るべし。涙を抱えて沈黙すべし。外に策なし。」 「大君の辺にこそ死なめ大丈夫 都はなれて何か帰らん」 「俺らを暗殺にくるとは、刺客も偉い奴だな、勇気がある。」 「討幕のために、『戦』の一字あるのみ。」 「志とは目先の貴賎で動かされるようなものではない。今賤しいと思えるものが明日は貴いかもしれない。君子となるか小人となるかは家柄の中にない。君自らの中にあるのだ。」 「謙虚とは堂々として過信しないことだ。それは断じて卑屈であることではない。」 「他に策なし」 「涙を抱えて沈黙すべし」 日本の志士。陸援隊隊長。名は道正。通称ははじめ福太郎、光次、のち慎太郎。号は遠山・迂山など。変名は石川清之助など。坂本龍馬らと共に薩長同盟の斡旋に尽力するも近江屋事件で横死した。贈正四位。

坂本龍馬さんの残した辞世の句【土佐藩士】1836年1月3日~1867年12月10日

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「世の人は 我を何とも 言わば言え 我なす事は我のみぞ知る」 (辞世の句) 江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。 諱は直陰、のちに直柔。通称は龍馬。 他に才谷 梅太郎などの変名がある 。 土佐藩郷士の家に生まれ、脱藩したあとは志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中を結成した。薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与した。

坂本龍馬さんの残した言葉【土佐藩士】1836年1月3日~1867年12月10日

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「世界の海援隊でもやりますかな」 「しかし惜しい。お前は、不浄の小役人になって上士のあごで使われているような男ではない。天下は動いちょる。同じ死ぬなら竜馬の刃にかかるよりも日本のためになって死なんかい。お前に土佐は狭すぎる」 「天誅というのは聞こえがよいが、暗い。暗ければ民はついて来ぬ」 「人の一生には命題があるべきものだ。おれはどうやら俺の命題の中へ、一あしだけ踏み入れたらしい」 「財政の独立なくては、思想の独立もなく、行動の自由もない」 「業なかばで倒れてもよい。そのときは、目標の方角にむかい、その姿勢で倒れよ」 「何でも思い切ってやってみることですよ。どっちに転んだって人間、野辺の石ころ同様、骨となって一生を終えるのだから」 「義理などは夢にも思ふことなかれ。身をしばらるるものなり。」 「何の志も無きところに、ぐずぐずして日を送るは、実に大馬鹿者なり」 「日本を今一度せんたくいたし申候」 江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。 諱は直陰、のちに直柔。通称は龍馬。 他に才谷 梅太郎などの変名がある 。 土佐藩郷士の家に生まれ、脱藩したあとは志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中を結成した。薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与した。

平井収二郎さんの残した言葉【土佐潘士】1835年8月8日~1863年7月23日

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嗚呼悲哉兮綱常不張(ああ哀しいかな、綱常張らず) 洋夷陸梁兮辺城無防(洋夷陸梁して、辺城防ぎ無し) 狼臣強倔兮憂在蕭牆(狼臣跋扈して、蕭牆に憂いあり) 憂世患國兮忠臣先傷(世を憤り国を憂い、忠臣まず傷つく) 月諸日居兮奈我神皇(月よ太陽よ、我が天皇をどうしようというのか) (辞世の句) 幕末の土佐藩士。諱は義比、志敏。通称を幾馬、徳助。雅号:隈山。収二郎は通称。 1861年、武市半平太を中心とする土佐勤王党に参加し、尊王攘夷運動に奔走する。1862年、藩主山内豊範による上洛時、小南五郎右衛門や武市らと共に他藩応接役として、公卿や薩摩藩、長州藩の尊王攘夷運動家と交わりを深める。また、安政の大獄で処罰された水戸藩士鵜飼吉左衛門の子息2名の宥免を図り、彼の名声を上げる。三条実美による勅使東下の際は、京都に留まって武市とともに国事周旋を行ない、薩長両藩の調停を謀る尊王攘夷運動に奔走した。

望月亀弥太さんの残した辞世の句【土佐藩士】1838年11月23日~1864年7月8日

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「行く秋によしおくるとも 紅のちりてぞ匂へ木々の紅葉」 (辞世の句) 幕末の土佐藩士で、土佐勤皇党の一人。神戸海軍操練所生。諱は義澄。 文久元年、兄・望月清平と共に武市半平太の尊皇攘夷思想に賛同して土佐勤王党に加盟し、文久2年10月、尊攘派組織五十人組の一人として、江戸へ向かう旧藩主山内容堂に従って上洛する。

岡田以蔵さんの残した言葉【人斬り以蔵】1838年2月14日~1865年7月3日

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「先生それでもあの時私がいなかったら、先生の首は既に飛んでしまっています。」 江戸時代末期の土佐藩郷士。 司馬遼太郎の小説名から「人斬り以蔵」の名でも知られる。諱は宜振。幕末の四大人斬りの一人。

岡田以蔵さんの残した辞世の句【人斬り以蔵】1838年2月14日~1865年7月3日

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「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄み渡る空」 (辞世の句) 江戸時代末期の土佐藩郷士。 司馬遼太郎の小説名から「人斬り以蔵」の名でも知られる。諱は宜振。幕末の四大人斬りの一人。