平井収二郎さんの残した言葉【土佐潘士】1835年8月8日~1863年7月23日
嗚呼悲哉兮綱常不張(ああ哀しいかな、綱常張らず)
洋夷陸梁兮辺城無防(洋夷陸梁して、辺城防ぎ無し)
狼臣強倔兮憂在蕭牆(狼臣跋扈して、蕭牆に憂いあり)
憂世患國兮忠臣先傷(世を憤り国を憂い、忠臣まず傷つく)
月諸日居兮奈我神皇(月よ太陽よ、我が天皇をどうしようというのか)
(辞世の句)
幕末の土佐藩士。諱は義比、志敏。通称を幾馬、徳助。雅号:隈山。収二郎は通称。
1861年、武市半平太を中心とする土佐勤王党に参加し、尊王攘夷運動に奔走する。1862年、藩主山内豊範による上洛時、小南五郎右衛門や武市らと共に他藩応接役として、公卿や薩摩藩、長州藩の尊王攘夷運動家と交わりを深める。また、安政の大獄で処罰された水戸藩士鵜飼吉左衛門の子息2名の宥免を図り、彼の名声を上げる。三条実美による勅使東下の際は、京都に留まって武市とともに国事周旋を行ない、薩長両藩の調停を謀る尊王攘夷運動に奔走した。
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