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フランソワ・モーリアックさんの残した言葉【作家】1885年10月11日~1970年9月1日

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「Human love is often but the encounter of two weaknesses.」 (人間の恋というのは、しばしば二人の人間の弱点が、出くわしたに過ぎないといった場合がある。) 「女というものは存在しない。存在するのはさまざまの女たちである。」 「男にとっては今日一日だけの浮気心にすぎないものに、女はその一生を賭ける。」 「人間は自分の恋していた時のことを思い出すと、そのあいだには何一つ起こらなかったような気がするものだ。」 「私たちの人生は、私たちが費やした努力だけの価値がある。」 「失われた青春について、われわれはもはや、昔日の俤のない園の枯れ木の中に最後の雷鳴のとどろきを聞くのみ。」 「(イエス)は歴史がわれわれに提供するすべての人格で、いちばん生々としているがゆえに、いちばん論理的でない性格である。」 「パリは人間のいっぱい住んでいる孤独である。田舎の都会は孤独のない砂漠である。」 「君が幸福である限り、君は多くの友達を数えることができよう。だが、形勢が悪化した時には、君は独りぼっちになるだろう。」 「情欲は勝利者のない戦闘である。」 「多くの女性は、教養があるというよりも、教養によって汚されている場合の方が多い。」 「死ぬまでにひとつの心の中だけでも深く入ることができたなら、それで幸福としなければなるまい。」 「旅行は常になにかの口実になっている。」 「だれかを愛するということは、他人には見えない奇跡を、ただひとり見ることである。」 フランスのカトリック作家。息子にクロード・モーリアック、外孫にアンヌ・ヴィアゼムスキーがいる。 1926年にアカデミー・フランセーズ賞を受賞し、1952年にはノーベル文学賞を受賞した。なおアカデミー・フランセーズ賞受賞者としては初のノーベル文学賞受賞者であった。

若乃花(初代)さんの残した言葉【土俵の鬼】1928年3月16日~2010年9月1日

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「相撲道は辛抱して自分で切り開いていくもの、誰も手とり足とり教えてくれはしない。15尺の土俵。あの中にはなんでも落ちている。女房、金、ダイヤモンド、全てがある。全人生がある。」 青森県弘前市青女子出身で、入門当時は二所ノ関部屋に所属した大相撲力士、第45代横綱。身長179cm、体重107kg。血液型はB型。弘前市名誉市民。土俵の鬼と呼ばれた。戦後最軽量横綱である。 引退後二子山部屋を創設し、弟である大関・初代貴ノ花(のち藤島→二子山)、横綱・2代若乃花(のち間垣)、横綱・隆の里(のち鳴戸)、大関・若嶋津(のち松ヶ根→二所ノ関)らを育て、日本相撲協会の理事長も務めた。

北島秀一さんの残した遺言【ラーメン評論家】1963年1月1日~2014年9月1日

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「これで僕が死んだら、北島はラーメンのせいで死んだと言われてしまうだろうけれど、僕の病気とラーメンはまったく関係無いということを、僕が死んだ後に必ず伝えて欲しい。」 (遺言) 日本のフードライター、ラーメン評論家。元新横浜ラーメン博物館広報担当。 広島県広島市出身。広陵高等学校卒。進学のため上京、大学の通学路にあった熊本ラーメン桂花に魅せられる。大学卒業後、大手電機メーカーに就職、出張先でラーメンを食べまくる。新横浜ラーメン博物館のサイト「ラーメンネット」の参加が同博物館のスタッフの目に留まり、1997年、テレビ東京『TVチャンピオン』第4回ラーメン王選手権に出場。決勝戦で石神秀幸との激戦の末惜敗、準優勝。これを機にこの後、同番組の問題作成委員会に加わり、また週刊現代など多くの雑誌にラーメン評論を掲載、ラーメンジャーナリストの草分けとなった。同年12月から自身のラーメン食べ歩記サイト「電脳麺記」を開始。1999年同博物館に転職、広報などを担当していたが白血病を患い2003年退職した。 その後はフリーのラーメンジャーナリストとして、雑誌への寄稿やテレビ出演などで活動した。その他、川崎駅前のラーメン横断組織「川崎麺店会」の発起人になるなどの活動も行った。2004年6月には、日本国内の全ての都道府県のラーメン食べ歩きを達成した。また、日本ラーメン協会の設立メンバーの一人で、顧問を務めていた。

中平卓馬さんの残した言葉【カメラになった男】1938年7月6日~2015年9月1日

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「まず何よりも私、写真家であるということに固執し続けております。その一点を、私、放棄することは全く不可能です。まさにそれ故に、私が生き始めた生の原点こそ、私が写真家である一点である、と思考しぬいております」 日本の写真家、写真評論家。 東京の原宿に生まれる。父は、書道家の中平南谿。 東京都立小山台高等学校を経て、東京外国語大学スペイン語学科卒業。 『現代の眼』編集者時代には、柚木明の名前で作品を発表。 1970年発表の写真集『来たるべき言葉のために』までは森山大道とともに「アレ、ブレ、ボケ(荒い画面、手ブレや被写体ブレ、ピント外れの意)」の作風で知られたが、1973年発表の『なぜ、植物図鑑か』では一転して「アレ、ブレ、ボケ」の作風を否定し、撮り手の情緒を排したカタログ写真や図鑑の写真のような写真を目指した。

林えいだい さんの残した言葉【記録作家】1933年12月4日~2017年9月1日

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「歴史の教訓に学ばない民族は、結局は自滅の道を歩むしかない」 日本の記録作家。アリラン文庫主宰。 日本統治時代の朝鮮人徴用とカネミ油症に関する報告が多い。また、陸軍特別攻撃隊の設置した振武寮についても関係者の聞き取りなどをおこなった。太平洋戦争中インドネシアにいたオランダ人女性アニー・ハウツヴァールトが、日本軍の捕虜になった父親が日本に連行され、北九州の炭鉱で強制労働を強いられ、そこで受けた傷がもとで客死に至ったのを悲しみ、怒り、日本人を長年憎み続けてきたのが、結婚40年を迎えて日本人を許す気になった、という話を聞いてオランダまで取材に出向き、それを基にした本が2000年に「インドネシアの記憶、オランダ人強制収容所」として出版された。 「徹底した聞き取り調査で、公害や日本統治時代の朝鮮人徴用など『影』の部分を明らかにしてきた」記録作家として、『朝日新聞』夕刊連載の「ジャーナリズム列伝」61~80回にその仕事が紹介された。

林えいだい さんの残した最後の言葉【記録作家】1933年12月4日~2017年9月1日

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「人間が戦争のために生きながら敵艦に突入し、生命を投げ出す。これほどむなしい戦法はない。日本軍はこれを戦法としてとった。遺族としては無念だっただろう」 (最後の言葉) 日本の記録作家。アリラン文庫主宰。 日本統治時代の朝鮮人徴用とカネミ油症に関する報告が多い。また、陸軍特別攻撃隊の設置した振武寮についても関係者の聞き取りなどをおこなった。太平洋戦争中インドネシアにいたオランダ人女性アニー・ハウツヴァールトが、日本軍の捕虜になった父親が日本に連行され、北九州の炭鉱で強制労働を強いられ、そこで受けた傷がもとで客死に至ったのを悲しみ、怒り、日本人を長年憎み続けてきたのが、結婚40年を迎えて日本人を許す気になった、という話を聞いてオランダまで取材に出向き、それを基にした本が2000年に「インドネシアの記憶、オランダ人強制収容所」として出版された。 「徹底した聞き取り調査で、公害や日本統治時代の朝鮮人徴用など『影』の部分を明らかにしてきた」記録作家として、『朝日新聞』夕刊連載の「ジャーナリズム列伝」61~80回にその仕事が紹介された。

故人が残した名言集【9月1日】

林えいだい さんの残した言葉【記録作家】1933年12月4日~2017年9月1日 「歴史の教訓に学ばない民族は、結局は自滅の道を歩むしかない」 「人間が戦争のために生きながら敵艦に突入し、生命を投げ出す。これほどむなしい戦法はない。日本軍はこれを戦法としてとった。遺族としては無念だっただろう」 (最後の言葉) 日本の記録作家。アリラン文庫主宰。 日本統治時代の朝鮮人徴用とカネミ油症に関する報告が多い。また、陸軍特別攻撃隊の設置した振武寮についても関係者の聞き取りなどをおこなった。 太平洋戦争中インドネシアにいたオランダ人女性アニー・ハウツヴァールトが、日本軍の捕虜になった父親が日本に連行され、北九州の炭鉱で強制労働を強いられ、そこで受けた傷がもとで客死に至ったのを悲しみ、怒り、日本人を長年憎み続けてきたのが、結婚40年を迎えて日本人を許す気になった、という話を聞いてオランダまで取材に出向き、それを基にした本が2000年に「インドネシアの記憶、オランダ人強制収容所」として出版された。 「徹底した聞き取り調査で、公害や日本統治時代の朝鮮人徴用など『影』の部分を明らかにしてきた」記録作家として、『朝日新聞』夕刊連載の「ジャーナリズム列伝」61~80回にその仕事が紹介された。 中平卓馬さんの残した言葉【カメラになった男】1938年7月6日~2015年9月1日 「まず何よりも私、写真家であるということに固執し続けております。その一点を、私、放棄することは全く不可能です。まさにそれ故に、私が生き始めた生の原点こそ、私が写真家である一点である、と思考しぬいております」 日本の写真家、写真評論家。 東京の原宿に生まれる。父は、書道家の中平南谿。 東京都立小山台高等学校を経て、東京外国語大学スペイン語学科卒業。 『現代の眼』編集者時代には、柚木明の名前で作品を発表。 1970年発表の写真集『来たるべき言葉のために』までは森山大道とともに「アレ、ブレ、ボケ(荒い画面、手ブレや被写体ブレ、ピント外れの意)」の作風で知られたが、1973年発表の『なぜ、植物図鑑か』では一転して「アレ、ブレ、ボケ」の作風を否定し、撮り手の情緒を排したカタログ写真や図鑑の写真のような写真を目指した。 北島秀一さんの残した言葉【ラーメン評論家】1963年1月1日~2014年9月