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筒美京平さんの残した言葉【昭和の歌謡会を代表する作曲家】1940年5月28日~2020年10月7日

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「自分の音楽と人の音楽が闘っているみたいな緊張感を持っていないとダメなんです。」 「僕らみたいな職業作家は、自分の好きな音楽を作ることが役割ではなく、ヒット商品を作るのが使命ですから。」  「音楽も人生も、エンディングが大事です。」 「日本人って同調圧力がすごく強くてね。間違った同調の結果が今の状態じゃないですか。皆が選択肢というものが1つしかないと思っちゃっている。多様性が失われている。今の音楽業界がまさしくそうですね。」 「お金には換算できない余白みたいなものが文化になるんです。」 「バブルの時とは反対、マイナス方向の拝金主義ですね。バブルの時は『稼ぎたい』。今は『損しちゃいけない』『守りたい』という“逆バブル”。」 「平成になって本当に下っている。上りのない下り坂って感じです。今が青春の人が可哀想だなって思いますよ。」 「ちょっとしたことが少しずつ積み重なると時代の空気って変わるんですね。」 「文化を育てるのは経済的な余裕も必要なんですよ。」 「昭和には、平成にはない活気、夢があったし、色もあった。色鉛筆で例えると、26色とか52色とかね。青にもいろんな青がありました。いま青っていうと、ひとつしかないでしょ。」 日本の作曲家、編曲家。東京府東京市牛込区出身。青山学院大学経済学部卒業。 本名は渡辺 栄吉。弟は音楽プロデューサーの渡辺忠孝。筒美音楽事務所代表。2003年、紫綬褒章受章。既婚。

リヒャルト・ワーグナーさんの残した言葉【楽劇王】1813年5月22日~1883年2月13日

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「君たち、新しいものを創りたまえ。」 「音楽は激情の言語だ。」 「決心によって正しくあるのではなく、習慣によって正しくなり、単に正しいことが出来るのみではなく、正しいことでなくてはやれないようにならねばならない。」 「喜びはものの中にあるのではない。我々の心にあるのだ。」 「仕事をする時は上機嫌でやれ。そうすれば仕事が捗るし、体も疲れない。」 「子どもは大人の父である。」 「決心によって正しくあるのではなく、習慣によって正しくなり、単に正しいことが出来るのみではなく、正しいことでなくてはやれないようにならねばならない。」 「我ら、この地上にありて生きる限り、歓びより歓びへと導くは自然の恩恵なり。」 「正しいこと一つをするのは、間違い一つをした言い訳より、時間がかからない。」 「自分の愛に値する相手かどうか、考える前に愛せよ。」 「私は音楽を、愛という以外の形では理解できない。」 「感性を通じてのみ、余すところ無く受け入れられ理解される。」 「習慣は、浅はかな人々を支配する。」 「『さすらい』と『変化』を愛するのは生ある者である。」 「自然は、それを愛する者の心を裏切るようなことは決してない。」 「喜びは何かの中にあるのではなく、私達の内側にある。」 「想像が現実を生む。」 歌劇の作で知られる19世紀のドイツの作曲家、指揮者、思想家。ワグナー、ヴァグナーとも書かれる。 ロマン派歌劇の頂点であり、また「楽劇王」の別名で知られる。

リヒャルト・ワーグナーさんの残した最後の言葉【楽劇王】1813年5月22日~1883年2月13日

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「私の時計を」 (妻の腕のなかで) (最後の言葉) 歌劇の作で知られる19世紀のドイツの作曲家、指揮者、思想家。ワグナー、ヴァグナーとも書かれる。 ロマン派歌劇の頂点であり、また「楽劇王」の別名で知られる。

山田耕筰さんの残した言葉【あかとんぼ】1886年6月9日~1965年12月29日

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「知識の極みのさきには、神秘の世界がある。神秘の扉を開いて光明の彼岸に達せんとするは、ただ感悟の力によるのみ。」 「作るのではなくて、生活から生む。というのが私の創作上の信条である。」 「新しい芽を育てる。これが人間のいちばん美しいところ」 日本の作曲家、指揮者。山田 耕作としても知られる。 日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した。日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた。 日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した。日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた。また、ニューヨークのカーネギー・ホールで自作の管弦楽曲を演奏、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やレニングラード・フィルハーモニー交響楽団等を指揮するなど国際的にも活動、欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家でもある。軍歌の作曲も多く手がけている。

遠藤実さんの残した言葉【作曲家】1932年7月6日~2008年12月6日

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「歌は心」 戦後歌謡界を代表する作曲家の一人である。東京府南葛飾郡吾嬬町に生まれ、杉並区南荻窪1丁目に居住していた。 作曲家として世に送り出した楽曲は5000曲以上と言われ舟木一夫、千昌夫、森昌子など多くの歌手を育てた。また、遠藤本人が作詞も併せて行った作品も一部存在する。 1948年、山乃家菊丸とコンビを組み、門付け(越後獅子等の芸を民家の軒先で披露し、金品を貰う習慣である新潟特有の演芸スタイル)芸人になる。これが、後の作曲家人生に大きな影響を与えた。 1949年7月、17歳の時に上京。様々な職を経て、ギターを携えて流しの演歌師になる。 星幸男のペンネームで作曲した「酒場の女」が、1952年、日本マーキュリーより「破れソフトのギター流し」(作詞:松村又一、歌:藤島桓夫)のタイトルで発売され作曲家としてデビュー。発売当初、作曲者名は「清水網雄」とされていたが、遠藤が友人に自作曲を「自分が書いたことにして出せよ」と渡したらその曲が採用され、そのまま友人の作曲として世に出てしまったという。後に作曲者名は「星幸男」に訂正されている。 その後日本マーキュリーの専属作曲家となる。1957年、日本マーキュリーより発売された「お月さん今晩わ」がヒット。1958年、日本コロムビアから「からたち日記」を発表し大ヒット。その後日本コロムビア専属になる。 1965年3月、日本コロムビアとの契約を解く。同年、島倉千代子らのパトロンだった中山幸市の出資による太平音響株式会社の設立に加わり専務取締役となり、1966年には自叙伝『太陽も笑っている』が映画化、『太陽に突っ走れ』 のタイトルで東映から製作配給された。 1968年に中山幸市が死去すると、太平音響の2代目社長に就任し、社名をレーベル名と同名のミノルフォンに改名する。先に創業した日本クラウンに続き、自前のプレス工場を持たず制作とプロモーションに特化して、アーティスト主導の運営を打ち出した新業態レコード会社の嚆矢の一社だった。1970年5月に社長を辞任。その後、1972年に徳間康快に買収され徳間音楽工業と改称、さらに系列レーベルの別会社ジャパンレコードと合併して徳間ジャパンに改組した。 1988年4月、ハワイで心臓のバイパス手術を受ける。当初発案していた「日本音楽作家協会」設立に関する諸々を、発案仲間で業界...

大中恩さんの残した言葉【犬のおまわりさん】1924年7月24日~2018年12月3日

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「やっぱり『いぬのおまわりさん』は歌詩が長いですよね。どれだけ歌詩が長くても、良い作品に仕上がると子どもはちゃんと覚えてくれるものなのですね(笑)。」 「作曲をするときには歌詩を見てインスピレーションを得てイメージします。直観的な部分が大きいですね。」 「歌で一番大切なものは詩だと思っています。時々先に曲を作ることもありますが、やはり先に詩があって、その詩に感動して作曲家が曲をつくるものだと思うのです。」 東京府生まれの日本の作曲家。男性。土田藍という筆名で、自身の歌の作詞も手がけている。1989年、紫綬褒章受章。 父は『椰子の実』の作曲者である大中寅二。詩人、作家の阪田寛夫は従弟に当たる。 混声合唱曲『煉瓦色の街』で芸術祭奨励賞を受賞する。以後女声合唱組曲『愛の風船』、男声合唱曲『走れわが心』、混声合唱曲『島よ』で芸術祭優秀賞を受賞する。1982年には時代を超えて歌い継がれている『犬のおまわりさん』『サッちゃん』『おなかのへるうた』などを集大成した「現代こどものうた秀作選・大中恩選集」で日本童謡大賞を受賞する。2004年童謡文化賞、2006年にっけん小野童謡文化賞を受賞。 作曲のみならず自作を主に演奏するコールMegを育て、その活動は三夜連続演奏会、九夜連続演奏会、日本縦断コンサート、数々の地方演奏会、数多くのレコード録音など、アマチュア合唱団としては大変ユニークな活動を行ってきた。そのOB・OGを中心とした合唱団メグめぐコールも指導し、演奏活動を継続していた。1962年、東京音楽学校在学中指導を受けた信時潔の『海道東征』再演の際は、コールMegを率いて参加、公演を助けた。

浜口庫之助さんの残した言葉【戦後最大のヒットメーカー】1917年2月27日~1990年12月2日

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「流行歌は作るものではなく生まれてくるもの」 日本のシンガーソングライター。愛称はハマクラ。 兵庫県神戸市出身。東京府立第四中学校卒業。青山学院大学商学部卒業。パーカッショニストの浜口茂外也は息子。元女優の渚まゆみは妻。 1959年、「黄色いさくらんぼ」、「僕は泣いちっち」がヒットし、作詞家・作曲家として頭角を現すようになる。翌1960年に作詞した「有難や節」のヒット以降は社会情勢や大衆心理をとらえた作品作りを意識することで数々のヒット曲を生み出すようになった。また「有難や節」を題材にした日活映画『有難や節 あゝ有難や有難や』にも出演している。 1960年代には数々のヒット曲を出し、ヒットメーカーと呼ばれるようになる。 1965年、「愛して愛して愛しちゃったのよ」を歌った和田弘とマヒナスターズ、ビリーバンバン、西郷輝彦、にしきのあきらなど自らの弟子をスターに育て上げるなど人材育成にも才能を発揮。 1966年、「星のフラメンコ」「バラが咲いた」で日本レコード大賞・作曲賞を受賞。以降、1972年石原裕次郎の「恋の町札幌」に至るまでヒット曲を世に送り続けた。鮮明に訴えかけるような個性の強い詞・曲作りを得意とし、今もなお一節が多くの人の記憶に残るようなヒット作が多い。 晩年の1987年には、島倉千代子に楽曲提供した「人生いろいろ」が大ヒットした。

高木東六 さんの残した言葉【作曲家】1904年7月7日~2006年8月25日

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「本当の音楽はメロディじゃなくハーモニーにあるんです。魂をゆするような深い感動はハーモニー以外にはありませんよ。」 主に昭和期に活躍した日本の作曲家。 高木の作曲した音楽はオペラ、ピアノ曲などのクラシック音楽に留まらず、シャンソンやポピュラー曲など多岐に亘る。しかし、演歌や歌謡曲に関しては、「喜びや笑い、ユーモアがない」や「メロディーが暗くて絶望的。歌詞も星、涙、港と百年一日である」と公言するほど、批判的な意見で有名だった(しかし、演歌歌手の島津亜矢が少女時代にデビューした際に、藤山一郎とともに絶賛したという逸話も伝えられている)。

古賀政男さんの残した遺書【作曲家】1904年11月18日~1978年7月25日

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遺書 <昭和53年7月23日>  今宵も又、ナツメロ大会を放送している。 私の歌は、いつまで繰り返されるのだろう。 私の歌の好きな人はみんな悲しい人達ばかりだ。 早くこんな歌は唄われなくなる日が来ると好い。 みんなハッピーになって欲しい。 日本人が、明るく楽しく愉快に暮らしてゆける時代が来ると好い。 悲しみなんかもう沢山だ。 戦争の傷もピカドン(原爆)の慟哭も、早く、早く消えろ。 そして古賀メロディも早く去れ。 私も早く消えたい。  この世から、日本から、 誰かがきっと、明るいハッピーをもたらすだろう。 みんな幸せになって欲しい。 私の願いはこれだけだ。 しかし、私はもう秋の蝉だ。 声もなく、只沈黙を守って、ジッと樹にしがみついているだけだ。 霜が降りて、私は土の中で、奥深くもぐってゆくばかりだ。  古賀政男 拝 (遺書) 昭和期の代表的作曲家であり、ギタリスト。国民栄誉賞受賞者。栄典は従四位・勲三等・瑞宝章・紫綬褒章。明治大学商学部卒業。本名、古賀正夫。 少年時代に弦楽器に目覚め、青年期はマンドリン・ギターのクラシック音楽を研鑽しつつ、大正琴を愛した。

古賀政男さんの残した言葉【作曲家】1904年11月18日~1978年7月25日

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「小学校時代の私は英才ではなかった。ただ私は『驚く』という才能があった。」 「歌の裏の意味を考えてあげるのがメロディーをつける人の責任ですね。」 昭和期の代表的作曲家であり、ギタリスト。国民栄誉賞受賞者。栄典は従四位・勲三等・瑞宝章・紫綬褒章。明治大学商学部卒業。本名、古賀正夫。 少年時代に弦楽器に目覚め、青年期はマンドリン・ギターのクラシック音楽を研鑽しつつ、大正琴を愛した。

平尾昌晃さんの残した言葉【作曲家】1937年12月24日~2017年7月21日

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「マージャン仲間が、いま、できたてほやほやのメロディを聞いたばかりなのに、すぐにみんなで口ずさんだ事実は馬鹿にできない。やはり、『歌』は、誰もが歌いたくなる歌でなければいけないのだ、と確信した。」 「あれこれやっているとボケている暇はない」 「いつまでも青春」 日本の作曲家、歌手。社団法人日本作曲家協会・常務理事、社団法人日本音楽著作権協会理事。出生名は平尾勇。幼少時にたびたび改名し、デビュー初期の芸名である「昌章」を経て、現在は芸名の通り平尾昌晃を本名としている。

羽田健太郎さんの残した言葉【作曲家】1949年1月12日~2007年6月2日

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「来年は今年よりちょっとだけいい音楽を弾けるようになりたい。それだけを思って走っています。」 日本の作曲家、編曲家、ピアニスト。通称、ハネケン。劇伴音楽を多く手がけた。2000年4月から2007年5月までテレビ朝日系列の音楽番組『題名のない音楽会21』の司会を務めた。

三木たかし さんの残した最後の言葉【作曲家】1945年1月12日~2009年5月11日

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「ありがとう。とよさん、ごめんね。 つまんない歌を書いちゃダメだ。」 (荒木とよひささんとの筆談) (最後の言葉) 日本の作曲家。本名は渡邊 匡。歌手・女優の黛ジュンは実妹にあたる。

三木たかし さんの残した言葉【作曲家】1945年1月12日~2009年5月11日

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「自分は偉大なる素人で、好奇心を持って何か空から自分の体に降ってくるものを僕は書きたい。」 「こんなに簡単に流行を作れる国も、忘れる国も少ない。 ファッション、本、映画…、自分自身で良いものを見つけることが少なく音楽もそうなんです。 例えば、若い人が演歌を聴くと『かっこ悪い』『バカだな』と言われる。(そうではなく)『私は嫌い』というなら よくわかる。だから みんな同じ様な格好をしてるんです。」 日本の作曲家。本名は渡邊 匡。歌手・女優の黛ジュンは実妹にあたる。

真島俊夫さんの残した言葉【吹奏楽作曲家】1949年2月21日~2016年4月21日

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「自分の曲を傑作だと思わないような人は作曲家になる資格がない。」 日本の作曲家・編曲家。吹奏楽のためのオリジナル、ジャズやポップスの作・編曲作品が多数。

芥川也寸志さんの残した最後の言葉【作曲家】1925年7月12日~1989年1月31日

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「ブラームスの一番を聴かせてくれないか…あの曲の最後の音はどうなったかなあ」 (最後の言葉) 日本の作曲家、指揮者。JASRACメンバー。