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山根伸介さんの残した最後の言葉【チャンバラトリオ】1937年2月15日~2015年11月14日

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「さようなら…終わった」 (最後の言葉) 本名は 山根利雄 。通称は(山根の)ドンちゃん。東映時代の芸名は高根利夫。京都市出身。170cm。チャンバラトリオのリーダー。ツッコミ担当。 脚本、構成、ツッコミ担当。京都市立西京高等学校卒業、日本大学芸術学部中退。「東映剣会」幹部。阿部九州男に師事。1960年に明治座で初舞台。熱狂的な巨人ファンとしても知られる。脳溢血で倒れるも、復帰。現在吉本に所属する「チャンバラJr.」は、山根が命名した。ぴのっきをの2人が弟子についていた時期がある。2015年5月12日のグループ解散発表の際に、みずからが肝臓がんを患っていることを公表した。

阿藤快さんの残した言葉【俳優】1946年11月14日~2015年11月14日

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「なんだかなぁ」 日本の俳優・タレントである。旧芸名は「阿藤 海」、本名は阿藤 公一。 神奈川県小田原市出身。東京都立大学法学部法律学科卒業。劇団俳優座、舞プロモーションを経て、 ボニート合同会社 に所属していた。血液型A型。 ドラマ出演等の俳優活動に加え、グルメ番組でのリポーター役・旅番組での案内役を担当。特に「なんだかなー」の名ゼリフは頻繁にモノマネに起用されるなど、有名である(ちなみに 「なんだかなー」は、険悪な現場を和ませるために言うようになったもので、料理がまずい際に言う言葉ではない)。コージー冨田がモノマネで笑わせるのは誤解だ、とも本人は語っていた。一方でコージー自身のモノマネに対しては「そっくりだった!」と大絶賛しており、モノマネをさせることには寛容だった。 上記のような気さくで謙虚な人柄から「芸能界で最もいい人」や「裏表のない芸能人」として名前が挙がることもある(実際、タモリらからも「芸能界一イイ人」と評されていた)。 食べ物でむせにくい芸能人としても重宝され、彦摩呂らグルメリポーター界からも一目置かれていた。

ニック・ボックウィンクルさんの残した言葉【リングの哲人】1934年12月6日~2015年11月14日

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「ドリー・ファンク・シニアの死んだ時の話を聞いて、それで涙を流さなかったなら、少なくとも、そいつはレスラーではない」 「相手がワルツを踊ればワルツを、相手がジルバを踊ればジルバを」 「人生でいちばん大切なものは友人との会話」 アメリカ合衆国のプロレスラー。ミネソタ州セントポール出身。生年は、1936年や1938年とされる場合もある。 リック・フレアーに先駆け、バディ・ロジャースの流れを汲むヒールの「ダーティー・チャンプ」のスタイルを貫いた。劣勢になるとわざと凶器攻撃を見舞ったり、セコンドを乱入させるなどして反則負けを選び、AWA世界ヘビー級王座を防衛することがほとんどだった(AWAではピンフォール勝ち、ノックアウト勝ちもしくはギブアップ勝ちでないと王座は移動しなかった)。1980年代前半にAWAで頭角を現していたハルク・ホーガンを相手にしても、この戦術で寄せ付けなかった。

青木生子さんの残した言葉【日本女子大学長】1920年11月20日 ~2018年11月14日

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「学問に恋うる心は私の片思いに終始することだろう。」 国文学者。日本女子大学名誉教授。専門は万葉集研究。 東京生まれ。日本女子大学校および東北帝国大学卒業。1962年、「日本古代文芸における恋愛」で東北大学文学博士。日本女子大学教授を務め、のち学長・理事長。私立大学通信教育協会理事長・会長、日本教育会副会長などを歴任。放送大学教育振興会評議員。衛星通信教育振興協会理事。 万葉集の研究を主として行ったが、主著は古代文芸に描かれた恋愛を総覧したもの。また、近代女子教育を主題とした著書もある。著作集全12巻がある。 2012年、日本女子大学国語国文学会に、社会・学術で活躍している同大学文学部日本文学科卒業生を対象とした青木生子賞が設けられた。

佐山雅弘さんの残した最後の言葉【ジャズピアニスト】1953年11月26日~2018年11月14日

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みなさま。 佐山雅弘より このお手紙がお手元に届く時、僕はこの世におりませんが、長きに亘ってのお付き合いにお礼を言いたくて家人に託しました。 加山雄三とタイガースが大好きな中学生。高度成長期大阪の衛星都市尼崎に親父が構えた小~さな小売商を継ぐことに何の疑念も持たないごく普通(以下)の子供がジャズとの出会いで、楽しさこの上ない人生を送ってしまいました。 まことに人生は出会いであります。 「君の身体は君の食べたモノで出来ている」と言いますが、まったく同様に僕という者は僕が出会った人々で出来ているのだとしみじみ実感したことです。 その出会いを皆様にあらためて感謝しつつ、今後益々の良き日日を祈りながらお別れをします。 ありがとう、さようなら 2018年11月14日 佐山雅弘 (最後のメッセージ) 日本のジャズピアニスト、作曲家。兵庫県尼崎市出身。射手座、AB型。 小学生の頃、幼馴染の好きな女の子がピアノを習っていたのがきっかけでピアノを弾き始める。 中学1年生の頃にピアノを習うのを一時辞めるが、中学2年生の時叔父に誘われて行ったオスカー・ピーターソンのライブに感銘を受け、ジャズに目覚める。 国立音楽大学作曲科に入学するもピアニストとしてプロの仕事が増え、中退。RCサクセションのゴンタ2号は学友だった。 1976年、RCサクセションのライブやレコーディングをサポート。当時は「セクシー佐山」というステージ・ネームだった。 以後、東京交響楽団、木野雅之(ヴァイオリン)、松田昌(ピアニカ)、瀬木貴将(サンポーニャ&ケーナ)、平野レミ(シャンソン歌手)、伊太地山伝兵衛(歌手、ギタリスト)などジャズの枠を超えたアーティストとも共演し、ジャンルを問わず幅広く活動した。プリズムの元メンバーでもある。 デューク・エイセスの音楽監督、アレンジ、楽曲提供者としても活躍した。 影響されたミュージシャンはチック・コリア、ハービー・ハンコック。好きなものはワインと麻雀、ポールウィンナーソーセージ。

故人が残した名言集【11月14日】

佐山雅弘さんの残した最後の言葉【ジャズピアニスト】1953年11月26日~2018年11月14日 みなさま。 佐山雅弘より このお手紙がお手元に届く時、僕はこの世におりませんが、長きに亘ってのお付き合いにお礼を言いたくて家人に託しました。 加山雄三とタイガースが大好きな中学生。高度成長期大阪の衛星都市尼崎に親父が構えた小~さな小売商を継ぐことに何の疑念も持たないごく普通(以下)の子供がジャズとの出会いで、楽しさこの上ない人生を送ってしまいました。 まことに人生は出会いであります。 「君の身体は君の食べたモノで出来ている」と言いますが、まったく同様に僕という者は僕が出会った人々で出来ているのだとしみじみ実感したことです。 その出会いを皆様にあらためて感謝しつつ、今後益々の良き日日を祈りながらお別れをします。 ありがとう、さようなら 2018年11月14日 佐山雅弘 (最後のメッセージ) 日本のジャズピアニスト、作曲家。兵庫県尼崎市出身。射手座、AB型。 小学生の頃、幼馴染の好きな女の子がピアノを習っていたのがきっかけでピアノを弾き始める。 中学1年生の頃にピアノを習うのを一時辞めるが、中学2年生の時叔父に誘われて行ったオスカー・ピーターソンのライブに感銘を受け、ジャズに目覚める。 国立音楽大学作曲科に入学するもピアニストとしてプロの仕事が増え、中退。 RCサクセションのゴンタ2号は学友だった。 1976年、RCサクセションのライブやレコーディングをサポート。 当時は「セクシー佐山」というステージ・ネームだった。 以後、東京交響楽団、木野雅之(ヴァイオリン)、松田昌(ピアニカ)、瀬木貴将(サンポーニャ&ケーナ)、平野レミ(シャンソン歌手)、伊太地山伝兵衛(歌手、ギタリスト)などジャズの枠を超えたアーティストとも共演し、ジャンルを問わず幅広く活動した。 青木生子さんの残した言葉【日本女子大学長】1920年11月20日 ~2018年11月14日 「学問に恋うる心は私の片思いに終始することだろう。」 国文学者。日本女子大学名誉教授。専門は万葉集研究。 東京生まれ。日本女子大学校および東北帝国大学卒業。 1962年、「日本古代文芸における恋愛」で東北大学文学博士。 日本女子大学教授を務め、のち学長・理事長。 私立大学通信教育協会理事長・...